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朝目覚めると、鯉登がいたはずの寝台はもぬけの殻になっていた。人が寝ていた気配もなく、寝具は綺麗に整えられ、棚の荷物も全てなくなっていたのである。眠気まなこでそれを眺めて、月島は「元の時代に戻ったのか」とすんなり状況を理解した。
しかし、話はそれだけでは終わらなかった。なんと蝶屋敷の人間が誰一人、鯉登のことを覚えていなかったのだ。どうやら元の時代に戻ると同時に、こちらの人々には忘れ去られてしまうらしい。
「鯉登さん……存じ上げませんね」と首を傾げた胡蝶に、月島は「知らないならいい、忘れてくれ」と追及を避けた。信じがたい事象ではあったが、何故だかすとんと腑に落ちたのだ。まぁそういうものか、という風に。
おそらく自分がここを去る時も、同じように忘れ去られてしまうのだろう。だからといってに特に不都合はない。むしろその方が理にかなっているとさえ思えた。本来であれば、みょうじが自分たちと出会うのは今から二年後のはずだからだ。どういう理屈かは知らないが、記憶が消えることで捻じ曲がった過去が修正されるのだろう。
「月島さん、お薬の時間です」
朝食を終えたのを見計らったように、一人の少女が月島のもとにやって来た。一度名前を聞いたのだが、似たような顔の娘があと二人もいるせいで目の前の少女が誰だかは分からない。「なほ」か「きよ」か「すみ」か、そのうちの一人であることは確かだ。
少女は深い緑色の液体が入った薬瓶を抱えていた。匂いを嗅いだだけで悶えるような代物だが、血鬼術を解くために一日に三回飲まなくてはならないのだ。内心うんざりした月島だったが、顔には出さずにそれを受け取った。
「……う、」
「はい、お水です」
「すまない」
息を止め薬を一気に飲み干して、口内に残ったえぐみを誤魔化そうと続けて水を流し込む。それでも嫌な後味は消えてくれず、食道からも生臭い匂いがせり上がってくる。「うぷ、」と戻しそうになったのをどうにか堪えて、月島は深く息を吐いた。
「目の調子はどうですか?」
「最初より随分ましになった」
「良かったです!」
そう、いくら薬が不味かろうとその効果は確かだった。最初は毒かとすら思ったが、薬を飲むごとに視界はみるみる晴れていく。そのたびに月島は、術が完全に解ける日が近いことを実感した。
「そうだ、頼みたいことがあるんだが」
「はい、なんでしょう?」
「ここの仕事を手伝わせてもらえないか」
数秒、不自然な間があって少女が「えっ」と声を上げた。
「で、でも患者さんですし、まだ目も治っていませんし……とても嬉しいご提案ではあるんですけど……」
両手を忙しなく動かしながら少女は言った。断ろうとする口振りではあるが、その顔は分かりやすく期待で輝いている。人手が少ないのだろう、という月島の予想は当たっていたらしい。
「目が少し霞むだけだ、動く分には問題ない。この屋敷は男手もないだろう。それに……一日中寝ていたら体がなまってしまう」
自身が発した言葉に、どこかで聞いた台詞だなと月島は思った。かつてはみょうじが同じようなことを言って、医者の忠告も聞かずに動き回っていたのだ。それも一度ならず二度までも。しかし同じ立場になるとその気持ちがよく分かる。とにかく暇で仕方なく、一日が随分長く思えるのだ。
「でも、あのう……」
「医療の知識はないが、物を運ぶくらいなら俺にもできる。後は掃除でも洗濯でも……良かったら聞いてみてくれ」
「わ、分かりました!」
そう言うと少女は慌ただしく部屋を出て行った。そのとき、廊下から「わっ、なほちゃんどうしたの?」と別の声が聞こえてきた。月島はそこでようやく少女の名前を把握する。おさげの少女、なほちゃん。と心の中で何度か繰り返して、どうせこの名で呼ぶことはないだろうとすぐに辞めた。
月島に仕事が舞い込んできたのは、それからすぐのことだった。
◇
先ほどの少女──高田なほは、月島を連れて屋敷の裏にやって来た。そこでまず視界に入ったのは、大量に積み重ねられた洗濯物の山である。寝具と入院着が一緒くたになったそれらは、まだ洗濯された気配はない。つまり、これらを洗って干せということなのだろう。
「ちょっと量が多いですが……大丈夫ですか?」
「問題ない。兵営でもやっていた」
そうは言っても、もう十年近く前のことである。こういった雑用はもっぱら初年兵の仕事だから、軍曹の彼にはとんと縁がないのだ。とはいえ知識がいるような仕事でもないから問題はない。軽い説明を受けたのち、月島は早速作業に取り掛かった。
「では、また様子を見に来ます。中にいるので何かあったら呼んでください」
「ああ、分かった」
以降は本当に地味な作業の連続だった。ひたすら汚れを落とし、水ですすぎ、絞っていくだけ。たまに血が付着したものが紛れ込んでいたが、月島には見慣れたものだった。きっと別処理が必要だろうと、それらは脇に放っていく。
ようやく全て洗い終えたのは、作業を始めて二時間ほど過ぎた頃だった。軽く絞っただけの寝具や入院着を、今度はひとつひとつ竿に干していく。
そんな折り、「何をしてるんだ?」と背後から声を掛けられた。月島が振り向いた先にいたのはみょうじだった。
「仕事を手伝わせてくれと頼んだんだ。どうにも暇でな」
彼女からは「ふぅん」とさして興味もなさそうな返事が返ってきた。かと思うと、彼女は干したばかりのシーツに手を伸ばし、ぴんと端を引っ張った。
「これじゃあ皺になるぞ」
「……すまん」
前にもこんなことがあったような、と思いつつ、月島は「お前こそどうしてここに?」と別の話題を口にした。
「今日は非番でな。知り合いが入院してるから様子を見に来た」
「……線香の匂いがするが」
「ん? あぁ……ここに来る前に墓参りに行ってきたんだ」
「墓参り?」
「同期の」
何でもないような顔をしてみょうじは言った。
きっと彼女はこうやって、少しずつ心を失っていくのだろう。同胞の死に慣れ、己の無力さを知り、生きることさえ諦めて──戦場での記憶がありありと月島の脳裏に蘇る。戦争で大事な何かを失った人間を、これまで腐るほど見てきた。自分だってその類である。そして、彼女はこれからその過程を辿っていくのだ。
「そういえば」みょうじの声が月島を思考の渦から引っ張り上げる。
「二年後の私はどんなだった」
「どんな……」
「今より強くなってるといいけど」
「さぁ、戦うところは殆ど見てなくてな。……ただ、」
「ただ?」
「なかなかお転婆で何度手を焼いたことか」
みょうじはきょとんと目を丸めて、それから大きな声を上げて笑った。
「はっはっはっ、そうかお転婆か。今もたまに言われるんだ、無茶をするなって」
「同僚の苦労が目に見える」
「失礼な奴だな、これでも出世は早い方だぞ」
むっとした口調ではありながら、その顔は楽しんでいるようだった。
それから月島はいくつか思い出話をしてやった。どうせ元の時代に帰れば全て忘れるのだから問題はないだろう、と考えて。
「馬鹿な一等卒に襲われかけて、股間を蹴って返り討ちにした」「口論の末に自身の髪を根元から切り落とした」「三尺はある大岩を投げつけられた」──どの話もみょうじは楽しそうに聞いていた。確かに私ならやりかねない、と言いながら。月島は眩しいものでも見るような目で、笑い転げる彼女を眺めた。
いつの間にやらみょうじも洗濯物を干す作業を手伝っていて、思い出話はそれら全てを干し終えるまで続いた。こんなにも穏やかな時間を過ごすのは一体何年ぶりだろう。職務もなく、訓練もない。洗濯物をしながらの馬鹿話。きっと退役後はこういう生活になるのだろう、とぼんやり考える。
──その日の夜、月島は薬に手を付けないまま眠りについた。