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目が覚めると、壁際に見知らぬ男が座っていた。──いや、「見知らぬ男」は違う。薄ぼんやりではあるけれど、なんとなくその顔に見覚えはある。昨晩なぜか私の部屋にいて、あまりに臭すぎたので無理やりお風呂に入れた人だ。

私が起きたことに気付いたのだろう、男がじっとこちらを見ている。私たちは無言のまましばし見つめ合い、

「……頭痛い」

とんでもない頭痛と吐き気、それから胸焼けが私を襲った。

「水……冷蔵庫にペットボトルあるから、持ってきて……」

男が誰かなんてこの際どうでもいい。いや全くもって良くはないが、とにかく今はそれどころではない。ここまで酷い二日酔いは、二年前の忘年会以来だ。

「……冷蔵庫? ペット、?」

なんで伝わらないんだよ。イライラしながら「デカい白い箱」という雑な説明とともにキッチンの方を指刺せば、男は素直に私の指示に従った。

予想よりも随分と時間をかけて、ようやくペットボトルが差し出される。うつ伏せのまま水を胃に流し込み、五臓六腑に染み渡る清涼感をしみじみと味わった。ああ水が美味しい、お酒なんか一生飲むもんか。と、これまで何度唱えたか分からない誓いを立てながら。

「……それで、おじさん誰」
「おじっ……月島基だ」
「月島さんは何で私の家にいるの」
「俺も分からない。気付いたらここに……悪いが部屋を調べさせてもらった。それで気付いたんたが、おそらく俺は──」

重々しい口振りで何か言いかけた彼を「ちょ、ストップ」と右手を上げて制止する。

「?」
「……吐く」

は、と月島さんの呆れたような声が聞こえた。しかしそれを気にする余裕などあるはずもない。そして動けない。本当なら今すぐにでもトイレに駆け込みたいのに。激しい頭痛が「動くな」と全細胞を支配しているかのようだった。

「トイレ……」
「ま、待て。立てるか」
「むりぃ……頭痛い」
「……運ぶぞ」

そう声を掛けられたかと思うと、優しく横抱きにされ──ることはなく、脇の下に手を突っ込まれ、引きずるようにしてトイレに連れて行かれた。
便器にもたれ掛かり、中に溜まった水に向かって「オエ」と嘔吐く。が、胸の辺りにつっかえた気持ち悪さはそこに留まったまま動かなかった。

「うえ〜吐けない〜気持ち悪い〜」

便器に抱きついてひいひい喘いでいると、背後から盛大なため息が聞こえてきた。人がこんなに苦しんでいるというのに何と薄情なことか。内心そう文句を垂れていると、月島さんの気配が近付いてきて、そっと背中に手を当てられた。

「口を開けろ」
「うぇ、?」

直後、ずぼっと口内に指を突っ込まれ、そのまま舌の付け根をぐっと押された。……あとは察してもらえるとありがたい。兎にも角にも、トイレを出る頃には胃のあたりが随分すっきりしていた。

「はー助かった……ありがとうございます。それで、なんでしたっけ」

部屋に戻った私は再びソファにダイブし、ペットボトルに口をつけた。月島さんはと言えば、眉間に指を押し当てて険しい顔をしている。いや、呆れていると言うべきか。

「……お前の部屋を調べて分かったことだが、……おそらく、俺は時代を飛ばされたらしい」
「時代を、?」
「俺がいたのは明治だ」
「明治って……」

某ヨーグルトの歌が頭に流れたが、きっとこれは口に出さない方がいいだろう。頭がまだ上手く回っていないことは重々自覚している。正直なところ、月島さんの話の半分は耳を通り抜けていた。

「明治、明治……って、何年前?」
「今は二○二四年で間違いないな? であれば百年以上前だ」
「ひぇ〜百年? それはまた……遠路はるばるお越し頂き……」

月島さんが頭を抱えて天井を仰ぐ。いかんいかん、完全に呆れられている。しかし頭痛が思考の邪魔をするのだから仕方ない。さっきからまともに頭が働かないのだ。とにかく今の私に必要なのは水分、そしてあさりの味噌汁だ。

「月島さんちょっとこっち来てください」
「……なんだ」
「これ見てください」

そう言ってスマホを取り出せば、月島さんが素直に私の方に寄ってきた。そうしてスマホ画面を覗き込んだ彼の目に映るのは​、

「これ、ケトルって言うんですけど」

ソファから見えるキッチン、そこに置かれたケトルを映すカメラの画面。いやぁ、こういう時1Kって便利だ。狭い分、全てが目の届く範囲にあるから。

「…………」
「これにお水入れて、ここ、このボタン押して欲しいんですけど」

そう言いながら画面をピンチアウトして、ケトルを拡大する。

「それで、ここ、この引き出しにあさりの味噌汁があるので持ってきてくれませんか」
「…………」

月島さんは眉間にくっきりと皺を寄せ、またもや盛大なため息をついた。

「すいません……ほんとに二日酔いしんどくて……話を聞こうにもまずは体調を整えたく……」
「……いや、いい。言う通りにしよう。今は頼みの綱がお前しかいないんだ。まずは早く酔いを覚ましてくれ」
「……面目ない」

その言葉通り、月島さんは甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれた。看病してくれる見ず知らずのオッサン、という何とも不可解な構図ではあったけれど。この際そんな事はどうでも良かった。

だって、この人がいなかったら今頃一人でのたうち回っていたことだろう。ただまぁ、ケトルどころかレンジもコンロも使えなかったことは少々面倒だったけれど──なんて言ったらバチが当たりそうなのでこれ以上は辞めておこう。

こうして私は無事にあさりの味噌汁を食し、そのまま昼が過ぎ(というか起きた時点で十一時だった)、夕方になる頃には二日酔いも随分収まっていた。

そこでふと、ようやくまともに戻りはじめた頭が動き出す。

(そういえば月島さん、明治から来たとか言ってなかった……?)

衝撃の出会いから約十五時間──ついに私は事態の深刻さに気付いたのだった。