春風と君の面影
まさか再会するとは思ってもみなかった尊奈門は、女を前に狼狽するほかなかった。「あ、う、えっと……」と尻込みする様子は忍者のたまごらしからぬ、ただただ年相応の男児である。
そもそも、触れもしない相手にできることは限られている。先日のお礼を言おうか、「出ていけ」と怒鳴りつけようか──真逆の考えがせめぎ合い、尊奈門はひとり混乱していた。
そうして結局、「包帯を替えに来たんだよね? 邪魔はしないから、どうぞ」と女に促され、こくこく頷いたのち、つんのめるような勢いで小頭の側に座した。まんまとその場の主導権を握られたのである。
尊奈門はどこかぎこちないながらも、いつも通りに手当てを始めた。この女の前で椿油を取り出すのは、なんだか妙にこそばゆかった。
「あっ、もしかしてそれ油?」
陶器から注がれる液体を見て、女はすぐに反応した。尊奈門は内心うっとなりながらも、やがて素直に頷いた。
「椿油、です。……その節は、ありがとうございました」
そう言って小さく頭を下げながらも、眉間に刻まれた皺と突き出た唇はまるで拗ねた子どものようである。いかにも不承不承告げた礼という形ではあったが、女がそれを気にする様子はない。
「あれから調べたんだけど、もしかしてすごく高かったんじゃない? 菜種油でも代用は効くみたいだけど……いや、でもできれば椿油の方が……」
尊奈門がはっとして視線を投げると、女は驚いて目を丸くした。そのままじいっと見つめ続ければ、やがて「どうしたの?」と困惑の声が掛かった。しかし、尊奈門は尚も唇を一文字に結んだまま、ただ女を凝視する。
果たして、この女に教えを乞うても良いものか──尊奈門は考えた。怪しすぎるし、素性も知れない。答えを聞いたところで信用していいかも分からない。そう頭では分かっているけれど──心が先に動いてしまった。
「その話、詳しく聞かせてください!」
小頭を助けられるなら、どんな情報だって欲しかった。
「いま、侍医が菜種油の代用について調べています……何か知っているなら、教えてください」
「……爺? ……もちろん、知ってることは教えるけど。私も調べたばかりだからあんまり自信ないなぁ」
「構いません!」
「分かった分かった、ちょっと頭を整理するから待ってくれる?」
尊奈門の勢いに気圧されたのか、女は彼をなだめるように両手をやわく上げながら言った。
「あなたも先に手当てをしたほうがいいでしょう?」
あぁ、もどかしい──尊奈門は逡巡ののち渋々頷いた。しかし看護が最優先なのは確かだ。彼は再び雑渡に向き直ると、包帯の交換を再開した。
「そう見られるとやりづらい……です」
隣から向けられる熱心な視線。頭を整理するんじゃなかったのか、と思いながら尊奈門は言った。
「ごめんね、上手だなと思って」
「……別に、」
「あなたが毎日お世話してるの?」
「……」
「大人の人は?」
「……」
やはり城内の情報を探っているのか? 尊奈門はなんだか裏切られた気分になりながら、何ひとつ漏らすまいとぎゅっと口を結んだ。が、次の質問には反応ぜるを得なかった。
「そうだ、元号を教えて欲しいんだけど」
「えっ?」
尊奈門は呆気にとられた顔で女を見た。その表情を見る限り、どうやらふざけて尋ねたわけでもないらしい。
元号を? なぜ? 医療の知識はあるくせに、ほかの学はさっぱりなのか。いや、これは学というより常識だろう──尊奈門はますます混乱する。
女は困った顔で首を傾け、「んんん……何と言おうか」と考え込むように目をつむった。
「ここ、私にとっては夢の中で……」
「は?」
「起きてる間は現代……ええと、ここよりずっと先の未来にいて」
「……はァ、」
「はっきりとは分からないんだけど、たぶん、百年以上は……」
「だから、元号を教えてほしくて」と続ける彼女に、尊奈門はやはり呆けた顔を返すほかなかった。
「それってどういう──」
思わずそう聞き返そうとした尊奈門だったが、それもまた看護の後に、とあっさり躱されてしまう。おかげで彼は、大量の疑問符を浮かべながら包帯を替える羽目になった。
◇
包帯を解き、薬を塗り、真新しい包帯を巻き直し──すべてが終わったところで、ようやく対座する二人。
「そういえば、名前は何て言うの? 私はみょうじなまえ」
「……諸泉尊奈門、です」
「諸泉くんね、よろしく」
今更ながらそう名乗り合うと、二人は早速本題に入った。まずは油についてである。
相手が子どもということもあり、なまえは調べてきたことをできるだけ易しく、懇切丁寧に教えてやった。
成分の違い、効果の違い、考えられる副作用──しかし悲しいかな、その大部分が伝わらなかった。尊奈門は困惑した顔と怪訝な顔を繰り返すばかりである。
「も、もう一回説明してくれ」
よほど話について行くことに必死なのか、敬語もいつの間にか抜け落ちていた。こめかみに指をあて、険しい顔をする尊奈門は全くそのことに気付いていないらしい。
「ええと、だから……この世界には菌っていう目には見えない小さな生き物がいて……」
そもそも百年単位で時代が違うのだから、なまえにとっては常識とさえ思えることも、尊奈門にとっては未知の領域である。
これが医者相手であれば少しは違っていたのかも──否、頭の柔らかい子どもの方が受け入れやすいかもしれない。そんなことを思いつつ、なまえは試行錯誤しながら説明を繰り返した。
しかし話の主旨にさえたどり着けないまま、ただ基礎的な説明だけで時間ばかりが過ぎていく。そうして結局は「よし、理屈は置いておこう! とにかく、菜種油より椿油の方が安全なの!」と、強引な回答に至った。
「それじゃあ困る! 侍医に何も説明できないじゃないか!」
この頃にはもう、尊奈門は彼女の話をほとんど信じ切っていた。治療法についても、ここが彼女にとって夢の中で、本当は百年以上先の未来に生きているということも。
彼女の真摯な態度がそうさせたのか、単に尊奈門の年齢とその性格によるものか。もしくはその両方かもしれない。
「どちらにしたって説明はできないと思うよ。いきなり諸泉くんがリノール酸が、酸化が、抗炎症作用が、なんて言い出したら変でしょう?」
「うっ……それは、そうだが……」
尊奈門はしょぼくれたように俯きながら、それでも知識だけは吸収しようとしているのか「りのうるさん」と呟いた。
その様子を見ていれば、彼の必死さは十分すぎるほど伝わってくる。よほどこの男のことが大切なのだろう、となまえは傍に横たわる男を一瞥した。
身長は軽く一八〇センチはあるだろうか。現代ならそう珍しくはないが、きっとこの時代ではかなりの大男に分類されるのだろう。
「それよりほら、元号を教えてよ。時代が分かれば、私もここでできる治療法を調べやすいから」
「……ここがお前にとって夢の中なら、もう来ないかもしれないだろ」
「でも、二度あることは三度あるって言うし」
尊奈門は口をへの字に曲げて視線を落とした。曖昧なものに縋るのは嫌だった。期待したところで、次にいつ彼女が現れるかも分からない。
同じ夢や、いつかの夢の続きを見ることは確かにある。しかし極々稀なことだ。そんなものに期待して、裏切られるのが嫌だった。
──しかし、その先にちらつく「未来の治療法」という甘美な響き。それは臆病な自制心をあっさりと踏み越えてしまうほど、今の彼には切実すぎるものだった。
そうして逡巡ののち、尊奈門はどこか決まり悪そうに視線を逸らしながら、ぼそりと今の元号を口にした。
吐息に近いその音を、なまえが聞き漏らすまいと深く頷いて受け止める。その様子を、尊奈門はかろうじて視界の隅に捉えた。
「分かった。……調べておくね」
なまえがそう返した時だった。廊下の方から微かに誰かの気配がした。それも早歩き──否、小走りでこちらに向かっているらしい。
まずい──脳裏に最悪の事態がよぎり、尊奈門の思考が瞬時に白く染まった。弾かれたようになまえへ視線を走らせると、彼女は事の重大さを悟らぬまま、きょとんとこちらを見つめ返している。
「隠れろ」尊奈門が咄嗟に彼女に告げる。「誰か来る」
「えっ」と声を上げたなまえが、急いで部屋を見回し、居室の奥──押し入れへと焦点を定めたとき、板戸がガラリと音を立てて開いた。
「あ……、」
板戸を開けたのは狼隊の山本陣内だった。彼はまず目の前にいる尊奈門を一瞥すると、部屋の隅々まで目を這わせるように見渡し、最後にまた尊奈門へと視線を戻した。
「……尊奈門、お前一人か?」
「は、え……?」
尊奈門は予想外の問いに素っ頓狂な声を上げ、反射的に隣の女を見た。わずかに押し入れの方へと体を傾けた彼女と、パチリと視線が合う。互いの瞳には、互いの困惑した顔が映っている。
尊奈門はすぐに彼女から視線を外し、呆然とした顔で山本を見上げた。
「いやなに、話し声が聞こえたものでな」
山本は眉間に皺を寄せ、怪訝そうな顔をして粗い指先で頬を掻いた。「しかし気配もない……気のせいか」と首を傾げながら呟く彼の眼差しは、なおも空中を漂い部屋の片隅を行き来するが、尊奈門の隣にいるなまえには届かない。
山本はひとつ深いため息をつくと、尊奈門の傍に寄り、床に片膝を着いた。そして少々荒っぽく彼の頭を撫で回す。
「まさか一人で喋ってたのか?」
「あ、……ええと、小頭に……」
尊奈門は言葉を探すように目を泳がせながら、しかしなまえの方には視線を向けまい必死に努めた。
「そうか」
山本の視線が雑渡、そして枕元の木桶へと移る。水を張った木桶の中には、血の滲んだ包帯が浸かっている。水面に映る天井がかすかに揺れていた。
山本は木桶を抱えて立ち上がると、「もう手当ては済んだのだろう? 戻るぞ」と尊奈門を廊下へと促した。
尊奈門は戸惑いながらもゆっくりと立ち上がり、足元が安定しないのを感じながら彼の後を追った。廊下に出る直前、何かに引かれるように部屋を振り返る。
そこには、浅い呼吸を繰り返す小頭の姿があるだけだった。その傍らにいたはずの彼女の気配は、跡形もなく消えていた。