指先に触れた風

──「ここがお前にとって夢の中なら、もう来ないかもしれないだろ」

尊奈門はいつかの自身の言葉を思い返した。あの時は「期待するな」と他でもない自分に言い聞かせるためにああ言ったのだが、その実、なまえはその後もときどき尊奈門の前に現れた。

否、会うのはいつも決まってあの部屋だから、厳密には彼女は雑渡の元に現れて、そこに尊奈門が居合わせていると言った方が正しいのかもしれない。

彼女は神出鬼没だった。会った翌日にまた現れることもあれば、三日空くことも、はたまた一週間以上会わないこともあった。聞けば尊奈門がいないときにもこの部屋に来ることがあるらしい。そう考えるとやはり、彼女は尊奈門ではなく雑渡の元に現れているのだろう。

彼女が言うことには、尊奈門がいない時はただ雑渡の様子をじっと眺めて時間が経つのを待つそうだ。部屋の外には出ないのか、と聞いたこともあったが、曰く、この部屋から出るのはなんとなく恐ろしいのだという。

見ず知らずの、それも寝たきりの人間をひたすら見続けるというのは苦痛だろう、と尊奈門は思ったが、「見るだけでも分かることはあるから」と彼女は言った。

「踵のあたりが赤くなっているからときどき体勢を変えてあげて」
「熱を閉じ込めてしまうから薬に使う油は少量で」
「一日に何度か換気をすること」

彼女は現れるたびに、尊奈門に看護について教えてやった。そして最後には必ず「大人を頼ること」と付け足すのがお決まりだった。(尊奈門が毎度それを聞き流しているのは置いておくとして)

彼女の助言の中には侍医に言われて知っていたこともあったし、全く知らない知識もあった。

特に薬の成分だとか効果だとかは初耳のものばかりで、こればかりは侍医に伝えるのも一苦労だった。「町医者に聞いて、何でも当帰と紫根が効くとか……」なんて言い分もそろそろ限界だろう。が、幼い尊奈門が薬を入手するにはそれ以外の方法はなかったし、そもそも侍医の許可を得ずに治療を進めることは憚れた。

何か思うところがあるのか侍医は何も追及してこないので、今はそれに甘えている状態である。

「お前のところは梅の時期か。じゃあ、そろそろ花見の季節だな」

なまえが現れるようになってから、早くも一ヶ月が経とうとしていた。この頃にはもう雑渡の容態も安定していて、彼女とは看護以外の話もするようになっていた。

距離が縮まったといえばそうだし、彼女も毎度毎度新しい知識を披露できるわけではないらしい。

聞けばなまえは医者ではなく「看護師」という職業だそうだし、彼女が調べたところ、この時代と彼女の時代とでは五百年近い隔たりがあるという。

つまり今行っている治療について、彼女は完全に門外漢なのである。それでも雑渡の大火傷を治すため、この時代でも再現できる治療法を調べてくれているのだ。

この時代、赤の他人にここまで献身的になれる人間はそう多くない。稀有な振る舞いを見せる彼女に、尊奈門が懐くのも当然と言えば当然であった。

「花見なんてもう何年も行ってないけどね」
「え、村のみんなで集まったりしないのか……?」

彼の言葉になまえは苦笑う。何せ村──彼女の住む場所は村ではないが──の人どころか、アパートの隣人の顔すら知らないのだから。

なまえの反応を見て尊奈門は信じられないとでも言いたげに、ただでさえ丸々と大きな目を更に見開いた。それから「そうか」とどこかがっかりしたように呟いた。

「けど、お前の時代にも桜はあるんだな」
「日本人は桜が好きだからねぇ」
「お前は見ないのに?」
「花見をやらないだけで、ちょっと見るくらいはするよ……綺麗は綺麗だし」

なまえが居心地悪そうに視線を逸らす。まるでこの幼い子供に、「日本人は風情を忘れてしまったのか」とでも言われたような気がした。

まぁ確かに「春はあけぼの」なんて言葉は、自分からは逆さになったって出てこないだろう。忙しい日々に追われ、四季の移ろいに感嘆することもない。通勤電車の窓から流れる景色はただの背景でしかなく、視線の先はいつだってスマホの画面である。

「今年は見ろよ」
「別に見るくらい構わないけど……、どうして?」
「おれも春になったら桜を見るから。一緒には見れないけど、同じ桜だろ」

尊奈門の言葉は、なまえの心臓を容赦なく打っ叩いた。時空を超えた約束。聞きようによってはとんでもない愛の告白だ。しかし、本人にその自覚はこれっぽっちもないのだろう。

およそ五百年もの時を隔てながら「同じ桜を見上げる」という、このあどけない少年のあまりにも純粋で真っ直ぐな発想。その健気さが、カサついていた大人の心に不意打ちの特効薬のように効いてしまった。

「品種改良されてるだろうから、同じではないと思うけどね……」

照れ隠しでつい理屈っぽいことを言ってしまうのは、きっと大人の悪い癖だ。

「ヒンシュカイリョウ?」

案の定、そんな足掻きもこの純真無垢な子どもの前では無力だった。尊奈門はただ不思議そうに首を傾げ、小鳥のようなまん丸な瞳で、一点の曇りもなくこちらを見つめている。

その澄んだ瞳に映る自分が、ひどく哀れな大人のように思えてくる。なまえはなんだか居たたまれなくなって、「なんでもないです」と少し気まずそうに言った。

「……約束する。見に行ったらまた言うね」
「絶対だぞ」

「うん、絶対」と伸ばした小指は絡まることなく彼の小指をすり抜けて、二人は顔を見合わせて笑った。

   ◇

その日は尊奈門ひとりで雑渡の世話をしていた。昨日も、一昨日もそうだった。「今日も現れないのか」と尊奈門はときどき部屋を見回したが、やはりなまえの姿は見当たらない。

彼女と会うのを楽しみにしているというよりは、こうして身構えていないと心臓がもたないのだ。何せ彼女は音も気配もなく現れる。

まぁ楽しみでないと言えば、それはそれで嘘になってしまうのだが。

「……尊、」

そのとき、消え入りそうな声が尊奈門の鼓膜を揺らした。咄嗟に雑渡の方を見れば、彼の右手が僅かに尊奈門の方へと伸びている。

「はい、小頭。ここにいます」

尊奈門は雑渡の手を取った。できるだけ優しく、丁寧に両手を添えて。火傷のせいでひどく熱い手だった。

少し前から、雑渡はこうした意志疎通がとれるようになっていた。どこか朦朧としていたり、ほんの僅かな言葉であったりと、とても頼りないものではあるけれど。

呻き声ではない、意識のある声。自分の名を呼ぶ声。喉が焼けているせいかその声は掠れ、「尊奈門」と呼ぶのはまだ難しいようだったが、それでも尊奈門には十分すぎるほどだった。

「だれか、……」

彼の吐息のような声を聞き取ろうと、尊奈門は耳を近づけた。唇の動きと口から漏れる空気の音で、どうにか言葉を読み取ろうと試みる。

──「誰かここに来ているのか」

尊奈門は頭から冷や水をかけられたように、はたと硬直した。

きっとなまえのことを言っているに違いない、と尊奈門は思った。山本を始めこの部屋を訪れた者達は皆、彼女を認識出来なかったけれど。小頭ともなれば気配を読み取れるのかもしれない。それでなくとも、自分が誰かと会話していることは丸わかりだろう。

何と説明すべきか──この時のことを考えてこなかったわけではない。しかし、いざそうなると用意していた言葉は喉に突っかかって中々でてこなかった。

「なまえ、」とようやく絞り出した声は変に裏返って、尊奈門は軽く咳払いをした。

「みょうじなまえという女です。おれ……私にしか見えないらしく……。いつも突然現れては、手当ての仕方を教えてくれるのです。きっと、小頭のために神が遣いをくださったのでしょう」

返事はない。しかし雑渡の目はまっすぐ尊奈門を捉えている。暗に続きを促すそれに、尊奈門は素直に応えた。

「薬師如来の遣いに違いありません。ですから、大丈夫です。……小頭、大丈夫です」

雑渡の視線が天井へと移る。顔のほとんどが包帯で覆われているため、彼の表情を読み取ることはできなかった。仮に顔が見えたとしても、簡単に読ませてくれる人ではないのだが。

「いつか……小頭にも紹介させてください」

尊奈門の言葉に応えるように、雑渡の右手がゆるく彼の手を握る。それから微かに口元が動くのが見えて、尊奈門は再び耳を傾けた。

「すこし休みなさい」

かろうじて聞き取れた彼の言葉に、尊奈門は思わず目を伏せる。

──あぁ、この人は。

彼女の存在を疲労が見せる幻影にしてしまうのか。どうしてか、尊奈門にはそれがたまらなく寂しかった。

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ちんぷんかんぷん