夢の岸辺に咲く花
自室で眠りについたはずのなまえは、ふと気が付くといつものあの部屋にいた。確かにベッドに横になったはずなのに、今は正座を崩した形で壁に寄りかかって座っている。
これといった驚きもなく、「あぁ、今日もこの夢か」とすんなり受け入れられるのは、ここが夢の中だからか、それともこの状況が既に日常になりつつあるせいか。
何を隠そうこの部屋を訪れるのは、もう両手の指では足りないほどになっていた。
なまえは壁から身体を離すと、ゆるりと部屋の中を見渡した。窓の外は闇に包まれ、室内もまた静けさに沈んでいる。そこに尊奈門の姿はなく、ただいつもと同じように、床の上に敷かれた布団に男がひとり横たわっていた。なまえはそっと膝を使って進み、眠る男のそばへと近寄った。
連子窓から差し込む月の光が、男の顔をほのかに照らしている。その面差しのほとんどは包帯に覆われ、右目のみが露出している。わずかに見える瞼の形から一重らしいことは分かるものの、それ以外容姿について窺い知れることはない。
雑渡昆奈門──尊奈門の父親を火の海から救った人。「小頭」という立場にある人。なまえがこの男について知っているのは、せいぜいそのくらいのものだ。
尊奈門はあまり多くを語らないし、なまえも無理に知りたいとは思わなかったから聞かなかった。ただ「小頭」という役職がそれなりに重要な立場であることだけは、その誇らしげな口ぶりから察せられた。
「う、うう……」
寝苦しいのか男は目元に皺を寄せ、時折小さく息を漏らした。なまえはそれを見下ろしながら、尊奈門がいつもそうしているように、ぽつりぽつりと言葉を落とした。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
なまえは尊奈門の"これ"が、まるで祈りを捧げているみたいで好きだった。看護の枠を超え、何か神聖なことをしているみたいで。
しかし尊奈門のそれと違って、どれだけ言葉を繰り返そうとなまえの声は届かない。行くあてのない言葉たちは、もどかしさとなって胸中に積もっていく。
「大丈夫、大丈夫……」
額辺りの包帯が汗ばみ、その隙間から出た髪が肌に張り付いている。なまえはそれを払ってやろうと手を伸ばしかけ、ここでは何にも触れられないことを思い出して、やめた。
──その時、男の瞼がふっと開いた。
ありえないはずの視線を向けられた気がして、なまえは思わず飛び退き、その拍子に勢いよく尻もちをついた。
「そこにいるのか」
心臓が、痛いほど肋を叩いている。まさか──少しの間を置いて、なまえはおそるおそる口を開いた。
「私が、見えているんですか?」
返事はない。途端、彼女の言葉は独り言と化して夜の静寂に溶けた。よくよく見れば男の視線はなまえではなく、何もない空間──先ほど彼女がいた辺り──に注がれている。
どうやら見えてはいないらしいと分かって、なまえはほっと安堵の息をついた。まじまじと人の寝顔を眺めていたことに多少の罪悪感を覚えながら。そうして今度は不用意に近づきすぎないよう注意しつつ、再び男の傍ににじり寄る。
「……尊奈門に懐かれているようだね」
男の口からぽつりと紡がれた言葉は独り言のようにも、寝言のようにも聞こえた。しかし確かになまえに向けられたものだった。
「君が来た日はやけに嬉しそうだ」
見えないながらも何となく気配を感じているのだろうか。尊奈門には「気配がしないから心臓に悪い」と常々文句を言われているのだが、この男には分かるのかもしれない。
「……あなたの話をする時もですよ」
独り言の応酬──なんとも奇妙な対話だ、と思いながらなまえは返事をした。
まるで電波の悪い通話のようだ。「もしもし、聞こえる?」「聞こえてるよ、そっちは?」「もしもーし、おかしいなぁ」少し前に友人と交わした、もどかしいやりとりが脳裏をよぎる。
声が無理ならせめて視線だけでもと、なまえは男の視線の先に自身の顔をもっていった。
ぱちりと交わる視線。否厳密には、交わったように思えるだけ。それでも、その行為には特別な意味があるように思えた。
「君には感謝している」
その言葉が耳に届いたとき、なまえは淡い夢の景色にじわりと色が灯るのを感じた。一方通行だった祈りが、彼の言葉によってようやく一つの円を描いて閉じたような、そんな気がしたのだ。
「私は何もしていませんよ。……というか、できないので」
自分のこれはどうすれば伝わるのか──尊奈門がこの場にいてくれたらどんなに良かったか。しかしあの子がここにいたら、彼がこんな話をすることもなかったのだろう。
「ただ口を出すだけで……変わってあげることも、手伝うことも──」
そう言葉を紡ぎながら、なまえは雑渡の表情の変化に気づいた。焦点の定まらない瞳、重たげに落ちていく瞼。わずかな抵抗を見せるように幾度か瞬きをしたものの睡魔には勝てなかったのか、彼はやがて眠りに落ちていった。
「……おやすみなさい」
尊奈門の父親を火の海から救った人。「小頭」という立場にある人。それから、とても優しい人。尊奈門の背中を撫でていた、あの日の光景を思い返す。大きな、とても優しい手だった。
雑渡の呼吸が次第に深く、規則的になっていく。やがて胸の上下する動きに合わせ、かすかな寝息が聞こえ始めた。
◇
「尊奈門の様子がおかしい」と最初に言い始めたのは一体誰だったか。
彼に椿油を譲ったくノ一たちかもしれないし、ことある事に相談を受けていた侍医だったかもしれない。もしくは件の部屋の前を通りかかった際に、たまたま尊奈門の独り言を耳にした者達か。
「声がするから聞き耳立てようと思ったら、雑渡小頭の殺気を食らっちまった」
「わはは、そりゃおっかねぇ」
「それにしても尊の奴、一体誰と語らっているのやら」
「さてねぇ、小頭と話す口調じゃなかったぞ」
噂は城の中をひた走り、点と点がもっともらしく繋がれていく。
「尊奈門が何やら山中の怪しげな草や木の皮を集めているとか」
「宙に向かって"何か"と対話していたと言う者もいる」
好き勝手に繋がれた点は線となり、やがて実体なきものに形を与えていく。
「なんでも陰陽の術で小頭の命を繋ぎ止めたとか」
「小童にそんなことができるものか。どこかで見聞きしたことの真似事だろう」
「その真似事がおかしなものを呼び寄せたのでは?」
「はっ、考えすぎだ。どうせ疲労でありもしないものを見ているだけだ」
そうやって交わされる囁きは、好奇心よりむしろ尊奈門への憐れみの方が強かった。
「それで気が済むのならと好きにさせていたが……あれは無理をしすぎだ」
誰もが雑渡の負傷を悲嘆していたし、尊奈門の健気な姿には胸を打たれていた。なにせあの幼い子どもが、昼夜を問わず看護に徹しているのだから。誰もが一度は諦めた雑渡の命を繋ぎ止めるために。
まさかあの状態から息を吹き返すなど、一体誰が予想できただろうか。当初は「楽にしてやれ」という声も多かったというのに。
それをあの子どもがたった一人で覆してしまった。懸命な──否、執念とも言える介抱の末に。
だからこそ、噂が広まるにつれ尊奈門には心配の目が集まっていった。
「少し小頭から離した方がいいのではないか」
大人たちがそんな結論に至るのも、当然と言えば当然の話であった。