第七話




 電車の窓から見える、蜂蜜のように甘い夕焼けが美しかった。

 待ち合わせ時間より余裕を持って駅へ着いた彼女は、駅ビルの中を見て回ろうとしたがどうにも落ち着かなかった。仕方なくトイレに併設されたパウダールームに入って、殆ど崩れていない化粧を直し始める。鏡の前に立つ女たちが、夜遊びに向けて自分を彩っていく。彼女も家を出る時は控えめにしていたチークをブラシで乗せていくと、頬が華やかに色づいた。

 昨日の、電話越しの尾形の優しい音色。何度も彼女の頭の中でこだましては、胸に花びらを散らす。彼に嗚咽を聞かせてしまったことへの羞恥で、今朝はしばらくベッドの上でのたうち回っていた。しかし同時に、彼の方からまた食事を誘い直してくれたことが本当に嬉しかったのだ。週明けの平日ではなく休日ということも、デートのようだと舞い上がっていた。

 会社へ行く時とは違う口紅を塗りながら、その鮮やかな色に心がときめく。はっきりと恋を自覚してしまった今、早く尾形に会いたくて仕方ない。

 可愛くならないと。
 隣でマスカラを塗る女性の、綺麗に上を向いた長いまつ毛を鏡越しに羨む。するとバッグの中のスマートフォンが画面を点灯させた。
“着いた”
 手早くポーチを片付けた彼女は列から抜けた。いつもより鮮やかな唇で、色づいた頬で尾形の元へ向かう。

 駅へ戻り、雑踏を縫って待ち合わせの改札口へ向かった。辺りを見渡し、スマートフォンを片手に誰かを待つ人々の中から尾形を探す。見つからず、もっと奥にいるのかもしれないと歩き出した時。引き止めるように肩を叩かれた。

 振り返った彼女の頬が緩んだ。花びらが吹雪になって、彼女の胸の中に舞う。最初はその風貌に恐れを抱いたというのに、今は誰よりも魅力的に映っている。

「悪い、待たせたか?」
「いえ。今来たところです」
 触れられた肩から熱が芽吹いて、じわじわと全身に伝っていく。
 恋をしている温度だ。

 
 ***

 
 昨日予約していた店を再度予約することは叶わなかった。代わりに彼女が予約したのは、店を調べた時に候補にしていた、完全個室を売りにしている和食店だ。

 案内された二名用の個室は、和紙の壁紙や照明が和情緒を演出する密やかな空間だった。今までよりぐっと狭まった距離感が照れくさくて。コートを脱いだ尾形の黒のタートルネックが、彼の色気を引き立てていて。彼女はしばらく、メニュー表から視線が上げれなかった。

 旬の魚介を味わうコースを注文し、店員が戸を閉めて出ていった後。全国各地の地酒が豊富に揃うメニュー表を眺める尾形に、彼女は頃合いを見て切り出した。
「尾形さん、昨日は申し訳ありませんでした」 
 頭を下げた先で、尾形が短く息を落とした。
「もうそのことはいい。現にこうして仕切り直してるだろ」
「いえ、それもですけど……その、電話口で取り乱してしまったことも」
 言葉にしながら顔が火照っていく。すると、肘をついた尾形が意地悪く口角を上げた。
「驚いたぜ。誘った時、妙に食いついてきたとは思ったが。まさか知ってたとはな」
「尾形さんが教えてくれても、良かったんですよ?」
「自分で言うかよ。宇佐美から聞いたのか?」
「ええ。先週お二人にご一緒させていただいた帰りに」
 彼女と宇佐美の別れ際を思い出したのだろう尾形が眉を顰める。
「ったく。余計なこと言って気遣わせやがって」
「いえ、気なんて遣ってないですよ!」
 彼女が首を振った。宇佐美に促されたから祝っている≠ニは尾形に受け取ってほしくなかった。

「宇佐美さんに教えて貰えた時、嬉しかったんです。尾形さんにこれだけお世話になっているのに、お礼らしいことも何もできてないし。もうすぐ誕生日なら、何かお祝いさせてもらえたらなって思っただけです」
「それこそ俺が好きでやってることだと言っただろ」

 彼女が下唇を噛む。尾形にとってみれば、自分と通勤することには何のメリットもないはずだ。それを申し出たのはやはり、彼が知っている過去の自分≠ノ何らかの情があるからだと考えるのが自然だった。彼女が思い出せない、尾形との過去。駅のホームであれだけ彼女に詰め寄った尾形は、そのことに何も触れてこないどころか、彼女の問いさえはぐらかす。尾形に想いを寄せている彼女の心に、ピースが欠けたパズルの絵を眺めているかのようなもどかしさが募っていく。

 戸の外から店員の呼びかけが聞こえてきた。前菜が来たことで、尾形に問い詰めたくなっていた彼女がはっと我に返る。
 彩り美しい前菜が、上品な皿に乗って手前に並べられた。目で楽しめる料理の美しさに感嘆の息を漏らす。

「まあ、なんだ……」
 再び店員が出て行くと、尾形が決まりが悪そうに言い淀んで前髪をかき上げた。その頬がいつもより赤いのは、自分の気のせいではないはずだ。
「あんたがそうやって考えてくれてたのは、嬉しかった」
 彼女の胸がぎゅっと詰まる。その一言だけで、尾形に喜んでほしかった昨日までの自分が報われていく。

 もし、もしこのまま思い出せなくても。こうしてずっとそばにいたい。

 切なさを募らせながらも、彼女は笑顔で食前酒のグラスを手に取った。
「じゃあ改めて。尾形さん。お誕生日おめでとうございます」
 尾形が口元を緩める。ほの明るい照明に照らされたその笑みは、心が溶けそうなほど優しかった。
 


 趣向を凝らした料理をゆっくりと味わいながら、二人は尾形が選んだ日本酒をいくつか楽しんでいた。あん肝ポン酢を黙々と口にする尾形が可愛くて、ずっと見つめていたくなる。先日、友人が「男を可愛いと思ったら沼の始まりだ」と言っていたのを、彼女はふいに思い出してしまった。

「前も思ってたが、結構いける口なんだな」
「好きなんです、お酒」
「家でも飲むのか?」
「今はやめてます。一人でいるとつい飲みすぎちゃって」
 孤独やストレスを紛らわせるため、彼女にとって手っ取り早いのは飲酒に逃げることだった。しかしアルコールが抜けた後、空元気の後の疲労感のような虚しさが、堰を切って彼女を呑み込むのだ。テーブルから転げ落ちる空き缶が、空虚な自分に重なって。もうやめなくてはと決心し、しかし再び一時的な逃避に手を伸ばしてしまうことを、彼女はつい最近まで繰り返していた。

「付き合わせておいてなんだが、大丈夫なのか?」
「人と飲んでいる分には平気ですよ」
 心地よい浮遊感が薄らと彼女を包んでいる。自然と頬の柔らかくなった締りのない笑みを前に、尾形は落ち着かない様子でグラスを煽っていた。

「尾形さんはよく宇佐美さんと飲みに行くんですよね?」
「まあな」
「面白い方ですよね、宇佐美さん。紳士的なのに親しみやすさもあって。お二人ではいつもどういうところで飲むんですか?」
 尾形は答えない。素っ気なく視線を横に投げた尾形を、彼女が怪訝に思って首を傾げる。二人で一合瓶を二本空にした今、尾形からもほんのりとした酔いが立ち込めていた。

「あんた、ああいうのがいいのか?」
「……え?」
 彼女がきょとんと目を丸くした。言葉足らずな問いの意味を数秒かけて理解して、再び「え!」と戸惑いの声をあげる。こっちへ向いた尾形の瞳は、拗ねたような幼さを帯びていた。

 なぜそういう流れに。宇佐美さんを褒めたからだろうか。だとしても話が飛躍しすぎではないかと、彼女は狼狽えながら首を横に振る。
「ちが、違いますよ? 宇佐美さんのこと、そういった意味で好感を持っているわけではありません」
 酔いとは違う熱が頭に昇って沸騰しそうだった。意中の相手にあらぬ誤解をされたくない焦りと同時に、宇佐美を褒めたことで尾形が危機感を覚えたのではないかと、都合のいい期待が疼く。
「そうか」
 しどろもどろの弁解に尾形はそう言ってグラスを傾けた。いつもと変わらないはずの声色が素っ気なく聞こえて、自分の自意識過剰だったことを示しているようで心が縮む。誕生日を共に過ごしてもいいほどには好意を持たれていると思っていた。やはりそこに大した意味などない気がして、昨日から淡く膨らんでいた自信が萎んでいく。

 グラスを置いた尾形が再び視線を逸らした。
「なら安心した」
 聞き逃してしまうほどの小さな声だった。尾形の表情に機嫌の良さが孕んでいるように映るのは、自分がそう思いたいだけかもしれない。しかし、今までよりも好意を仄めかしたその一言は、彼女の心に波紋のように広がった。

 細い息が漏れる。自分の早鐘を身体の奥で聞きながら、怖気づいて何度も呑み込んでしまいたくなる言葉を離した。
「他にいるんです。そういう意味で、好感を持ってる人」
 熱っぽい眼差しの先で尾形の表情が固まった。今以上の関係を早く望んでいるわけではない。自分の胸の内を言葉にすることを、返さずにはいられなかっただけだ。

 その後はお互い気恥しさが勝って口数が少なくなった。暖房が効きすぎているかのように部屋が熱い。御飯物の握り寿司を堪能し、コースも終盤に差し掛かった頃。ドアの外からの女性店員の呼びかけが聞こえてきた。
「失礼します」
 店員の持つトレーの上を見た彼女の心が踊る。自分の元へとその白の円形のプレートが運ばれてきた尾形は、驚きで口をあんぐりと開けていた。
「お誕生日おめでとうございます!」
 小さなガトーショコラとフルーツタルトが品良く盛り付けられている。プレートに彩られた“Happy Birthday”の文字。昨日グルメサイトでこの店の写真を見て、このボリュームなら甘いものを好んでは食べない尾形でも負担にはならないと思い、彼女はアニバーサリープレートを予約した。

 プレートと彼女を交互に見る尾形は二の句が継げないようだった。その表情は、店員がエプロンからデジタルカメラを取り出し記念写真を撮る旨を伝えると更に動揺に染まる。
「お二人でプレートをこちらに少し傾けるように持ってください。はい、そんな感じです。撮りますねー」
 二回フラッシュがたかれ、帰りに現像したものをプレゼントすることを伝えられ店員が退室した後、唖然としたままの尾形に、彼女が不安げに眉を下げた。

「ごめんなさい。あまりこういうの、好きじゃなかったですか?」
「は? ……いや、そうじゃない」
「よかった。私の自己満なんですけど、せっかくだからお祝いらしいことがしたかったんです」
 バッグから取り出したブランドの紙袋を尾形に差し出した。ようやく彼に渡せることが嬉しい。
「私からのプレゼントです。気に入っていただけたら」
「ちょっと待て」
「え?」
「ちょっと待て……感情が追いつかん」
 隠すように顔を掌で覆った尾形だったが、耳が真っ赤に染まっている。その頭を撫でて甘やかしたくなるような欲が擽られた。友人に言わせれば、彼女はもう手遅れなのだろう。

 尾形が彼女からプレゼントを受け取る。青いリボンの掛かった箱を見てなお悩ましげなため息をつく尾形に、可笑しくなった彼女がくすくすと笑い声をあげた。

「すまない、ありがとう。……ただ、こういう時どうすればいいのか、よく分からないんだ」
「喜んでいただけたなら何よりです。尾形さんにとって、いい誕生日になってほしかったので」
 誕生日に何の思い入れもないと言った尾形が、自分の祝いを照れながら受け止めてくれている。その不器用な姿が愛おしくて、心に柔らかな感情が溢れてきた。

 来年もこうして二人で過ごせたら。
 尾形が彼女にもケーキを食べるように促す。淡い望みを募らせながら口にしたタルトの苺は、泣きそうになるほど甘酸っぱかった。
 

 ***


 店を出ると、染み入るような冷たい風が彼女の頬に吹きつけてきた。白い息が夜の冷気に溶けていく。街路時のイルミネーションが今夜は一段と煌びやかに見えるのは、好きな人といるからかもしれないと思った。

 隣の尾形は不満げに眉を寄せている。退店時、彼女が先に支払いを済ませていたことに納得がいっていないようだった。
 後ろで手を組んだ彼女が尾形の顔を覗き込む。心地よい酔いと料理への満足感、誕生祝いを成功させられたことが、彼女をいたく上機嫌にしていた。

「私は最初からそのつもりでしたよ。いつも奢ってもらってるので、今日くらい支払わせて下さい」
 そう言ってもなお、尾形は煮え切らない表情だ。男の矜持というより、彼自身がおそらく他人に甘えるのが苦手なのだろうと、彼女は気付き始めていた。

 立ち止まる二人の間に曖昧な空気が漂っている。都会の夜空よりよほど真っ暗な瞳を、上目遣いに見つめる。いつもより大胆になっている彼女の意思表示だ。

「まだ時間あるか?」
「はい」
「もう一軒付き合ってほしい」
 彼女が頷いた。煌びやかな冬の夜の街を二人で並んで歩いていく。いつもはもっと響いてくる都会の喧騒がずっと遠くに聞こえて。鼻を通る冬の匂いが胸を膨らませて。自分が知る街とは別の世界を歩いているようだ。

 高揚している自分が何か話そうとして、この雰囲気を邪魔したくない自分が口を噤む。それを繰り返していると、冷気に熱を奪われていく手が、躊躇いがちに伸びてきた手にそっと握られた。

 彼女が尾形の手のひらの温度を、初めて知った夜だった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る