第八話



 心地よい眠りの海から意識が浮上していく。頬に触れる空気の冷たさに毛布を引き上げた。部屋は遮光カーテンによって分厚い闇を保っているが、平日ならとうに家を出ている時間だ。しかし尾形は起き上がることなく、閉じた瞼の裏で昨日の彼女を見つめ続けている。

 自分を祝う屈託のない笑み。二件目へ行く最中、小さな手のひらから伝わってくる温度は尾形の胸の奥まで熱くした。ほの暗く上品なバーの雰囲気に緊張していると言っていたが、少し飲み過ぎたのだろう。帰りに二人を乗せたタクシーが走り出してしばらくすると、尾形の肩に甘い重みが乗った。髪から香る花の匂いが鼻腔とともに理性を擽って。微かな寝息を立てる彼女に触れたくなる欲に駆られながらも、尾形は先に彼女の住所へ向かうことを運転手に頼み、紳士を貫いた。今度は大切にするためにも。

『他にいるんです。そういう意味で、好感を持ってる人』
 目眩さえ覚えた彼女の言葉を反芻する。彼女が自分へ好意を向けていることを薄々感じ取ってはいたが、彼女にしてはあざとく、そして大胆な言葉は尾形を喜びに打ちひしがせた。

 昨夜会ったばかりだというのにもう彼女に会いたい。彼女の記憶が戻るか否かは、もう尾形にとってさして重要な問題ではなくなっていた。今の彼女への恋慕と、過去の彼女への執着が地続きでありながらも離れていくことを実感しているからだ。

 愛おしさを胸に燻らせていると、突然部屋の中にスマートフォンの振動音が鳴り響いた。ベッドサイドの表面を打つその音のけたたましさに、彼女との時間の余韻に浸っていた尾形は眉を顰める。無視を決め込むこともできず、寝返りを打ち充電コードに繋がれたスマートフォンを引き寄せた。

 ディスプレイに表示された着信相手に溜息をつきながらも、起き上がって応答ボタンを押す。
「もしもし。……ええ、一七時ですよね。忘れていませんよ。ええ、」
 電話の向こうの溌剌とした声が脳に響いて、確認された今晩の予定(自分の誕生祝いらしい)への憂鬱が深まっていく。生まれ変わってもなお非の打ち所のない腹違いの弟。記憶はないようだが、運命の輪廻から逃れることのできなかった尾形に、前世での所業を突きつけてくる存在だ。今際の際に認識してしまった罪悪感≠ゥら目を背けず、いつか記憶を取り戻すかもしれない彼とこうして交流を続けていることが、尾形なりの贖罪だった。

「実はその、昨夜我が家に――さんがいらして、」
 言いにくそうに一拍おいてから異母弟が口にしたその名前に、尾形の眉間に皺が寄る。
「押しかけてきたんですか、あの女」
「父は不在だと伝えたらすぐに帰られましたが。兄上のところへも行くと言っていましたが、」
「家に? そもそも教えていませんよ」
 面倒くさそうに前髪をかき上げる尾形の頭に、調べた≠ニいう可能性が過ぎって寒気が走る。昨日は確認もしなかったインターフォンの録画履歴に、あの女が映っていたとしたら。彼女とこのまま上手くいったところで、ここへ呼ぶわけにはいかない。

「先日父上を交えて話した時、納得していただいたはずなんですがね。第一、向こうは俺である必要なんてないでしょうに」
「諦められなかったのでしょうね。兄上は女性から見ても魅力的でしょうから」
 片をつけたはずの問題が厄介なことになっている。

 勇作との電話を切った後、ひやりとした床に足をつけてカーテンを開けた。黒雲に閉ざされた空は、今にも雨が降り出しそうな重苦しさをたたえている。

 デスク上に置いた、昨日の写真の彼女と目が合う。アニバーサリープレートに手を添えた、花が綻ぶような笑みに後ろめたさが渦巻いていく。遠い昔、彼女に縁談が来たことを土方から伝えられた時に平然を装ったことを、尾形はどうしてか思い出してしまった。
 

 ***
 

 尾形さんがよそよそしい。
 何が、と問われても言葉にすることはできない。しかし、僅かな表情の変化や、声や仕草から、あの夜に関係が進展したと思ったのは自分の勘違いだったかのように、彼女は尾形に言い知れぬ素っ気なさを感じ取っていた。

 冬の雨が降りしきる駅前を、傘をさして歩いていく。最近は春に近づいていくことを感じさせる、穏やかな日差しが降り注いでいたというのに。週が明けてからは、手のひらを返したように身体の芯まで凍えそうな朝が続いている。お互いが傘を広げたことでいつもより開いた距離が、彼女にはとても遠く感じた。

「指、どうしたんだそれ」
 黒い傘の中の大きな瞳が自分へと向いて、彼女は思わず傘の柄を握りしめる。日の差さない、鬱々とした雨音に包まれた寂しげな街がこの人には似合う、と思ってしまった。
「包丁で少し切っちゃったんです」
 恥ずかしそうに苦笑いして彼女が言った。ベージュの傘を握る白い指に、昨日まではなかった絆創膏が巻いてある。人参の千切りをしていたら久しぶりに刃を滑らせて傷つけた人差し指。痛みに耐えながら傷口を抑えても、流れ出る血はなかなか止まろうとしなかった。

「ドジだな」
「え?」
 尾形の軽口に笑みがこぼれる。
「冗談だ。自炊してるって前言ってたもんな。平日帰ってから作ってるのか?」
「普段は週末に一気に作るんですけど。お弁当のおかずがなかったので」
 交差点の前で、傘を差す群衆たちと共に立ち止まる。自分の料理について尾形に話したことは今までになかった。アーチを滑り落ちてきた雨が露先でゆっくりと雫の形になっていくのを、彼女はドキドキしながら見つめる。

「いつも思ってたが、真面目だよなあんた。堅実というか」
「そう、ですか?」
「何が得意なんだ? 料理」
「得意料理ですか? いや、そんな大したもの作ってなくて、いつもあるもので適当に作っているというか。お弁当も、尾形さんがおそらく想像したようなものじゃなくて、地味で質素なものですよ」
「ははっ。逆に気になるぞ、それ」

 別に料理が得意なわけではないにしても、つい卑下するようなことを言ってしまう自分が情けなかった。滲んだ赤の光が、早く青へと変わって欲しい。

「食べてみたいな、あんたの弁当」
 前を見たまま尾形が呟いた。振り向いた彼女の視界の端で、露先から雫が落ちていく。え、いまなんて。唖然とした表情の彼女へ向いた尾形が、我に返ったのか口をはくはくと動かしていた。

「いや、違う。何言ってんだろうな俺は。……すまない、忘れてくれ」
 頬に熱を帯びていく。顔を背けてしまった尾形に彼女が何も言えずにいると、信号待ちをしていた人々が前へと歩き始めた。分かれ道へ着くまで、彼女は黒い傘の中を覗くことができなかった。
 

 ***

 
 以前付き合っていた彼氏が泊まりに来ていた金曜日、彼女はいつも頼まれるがままに彼の好きな料理を作って待っていた。なかなか来ない彼氏を待っていると電話が来て「今友達と××にいるから来なよ」と上機嫌な声で居酒屋に呼びつけられた。
 
 自宅の最寄り駅から徒歩十分。中心地の喧騒から遠のいた、マンションやアパートが縦並ぶエリアの一角にそのスーパーはある。彼女が今の部屋を借りたのも、徒歩圏内にこの庶民的で地元の商店街を彷彿とさせる激安スーパーがあることが理由の一つであった。

 店外に陳列された野菜の中から昨日使い切った人参を手に取る。その上の白菜に目を引かれるが、一人暮らしでは半分にカットされたものでもなかなか使い切れないため滅多に買うことはできない。カゴを取って店内へ入ると、不思議と耳に残るテーマソングが流れる手狭な空間は、閉店まで一時間を切った今は仕事帰りらしき人がちらほらいるだけだった。思わず手を伸ばしてしまいたくなる割引シールの貼られた惣菜コーナーを通り過ぎ、切らしてはいけない牛乳と卵をカゴに入れる。精肉のコーナーへ向かうと、二九日の今日は特売日らしく、いつになく安い鶏もも肉を手に取った。これで照り焼きでも作ってお弁当に入れよう。そう考えたところで、今朝の尾形の言葉が頭の中に広がって、彼女はトレーを手に取ったまま思考をぼやつかせた。

 次の彼氏ができても、健気に食事を作るようなことはもうやめようと決めていた。自分が尽くすほどに、相手の熱は引いていったから。

 流れで口にしただけかもしれない尾形の一言を、間に受けたくなっている自分が怖い。尾形だって、まだ付き合ってもいない相手が自分の一言を鵜呑みにして行動に移したら不快だろう。そう思うと、今週ずっと距離が開いてしまったように感じていた彼女には踏み入ることはできなかった。

 冷気に鼻をつんとさせながら、マイバッグを提げて家路を歩いていく。
 忙しい平日の昼食に、尾形が携帯食で済ませることが多いことを、彼女は聞いている。
 今日の自分の弁当箱の中身を思い返して、「いやいやいや」と首を横に振った。

 自宅アパートが見えてきたところで、コートのポケットの中のスマートフォンが振動した。ディスプレイの尾形百之助≠フ文字に、胸をときめかせながら冷えた耳に当てる。
「もしもし」
「もしもし。今、家か?」
「帰ってるところです。色々寄ってて遅くなっちゃって」
「ああ、悪かったな。後でかけ直す」
「いえ、大丈夫ですよ」

 ほろ苦さに甘さが入り交じったような低い声が、今週末は彼に会えないことに寂しさを感じていた彼女の心を、じわじわと温めていく。

「どうしたんですか?」
「いや、別に」
 電話の向こうで尾形が言い淀む。歩幅を緩めた彼女が空を見上げると、雨上がりの空に月が冴え冴えと浮かんでいる。
 なぜ文豪は、愛の言葉を月が綺麗ですね≠ニ訳したのか。今の彼女には少し分かる気がした。

「用事があるわけじゃないんだ。何となく、声が聞きたくなった」
 今度こそ彼女は、その言葉に含まれた自分への特別な感情を、真っ直ぐ受け取るしかなかった。ただ声が聞きたくなって電話する時。そこに抱く想いなど、一つしかないのだから。
「尾形さん」
「何だ?」
「今朝、話したことなんですけど」
 同じ想いを違う言葉に乗せる彼女は、月のように微笑んでいた。
 

 ***

 
「思ったより進展早くて驚いたわ」
 休憩室へ来て小さなトートバッグから曲げわっぱの弁当箱を取り出した尾形を見て、オフィスへ戻るところだった宇佐見は全て察したように言った。向こうで先ほどまで会話を楽しんでいた女性社員二人が、仰天して言葉を失っている。

「やらんからな」
「いらないし。ねえねえ、どういう流れで作ってもらえたの?」
 興味を隠さない宇佐見を無視してバンドを取って蓋を開けた尾形は、飛び込んできた中の色彩に目を見開いた。

 梅干しの埋まった白米のもう半分に、鳥の唐揚げ、卵焼き、人参の炒め物、ほうれん草の胡麻和えが大葉とミニトマトを添えて綺麗に詰められている。まるで素晴らしい工芸品をまじまじ見つめているかのような尾形の代わりに、宇佐美が感嘆の声をあげた。
「へー! 苗字さん料理上手なんだ」
「……当然だろ」
「いや、なんでお前が威張るんだよ」

 彼女から自炊している話を聞いた時。袖に襷をかけて包丁を握る彼女の姿が、遥か遠い時を超えて尾形の頭には浮かんでいた。尾形が獲ってきた獲物を持て余すことなく、枝のような細い腕は丁寧に捌いていく。その後ろ姿は、彼に郷里での幼き時分の記憶を否応なく蘇らせた。
「まあゆっくり味わいなよ。先戻ってるねー」
 宇佐美が行った後、最初に箸をつけたのは鳥の唐揚げだった。衣の硬さからして朝揚げたのだろう。一口齧り、ゆっくり咀嚼していく。生姜と塩味の効いた、シンプルな味付けがとても美味しい。こんなに肉が柔らかいのは、何か揚げ方にコツがあるのだろうかと感心しながら、副菜も少しずつ味わっていく。どれも素朴な味わいだが、それが手作りの美味しさを引き立てている。卵焼きのほんのりとした甘みが口の中に広がると、何とも言えない幸せに包まれた。

『もし今度、私が尾形さんにお弁当を作りたいって言ったら、食べてくれますか?』
 全く期待していなかったと言えば嘘になる。しかし、こんなに早く自分の我儘を叶えてくれるとは思わなかった。

 自分のために彼女が作ってくれた料理に、心まで満たされていく。胃袋を掴まれるとはこういうことなのかと、尾形はその一口一口に噛み締めていた。

“ご馳走様 本当に美味かった”
“よかった! 嬉しいです”
“から揚げ、なんでこんな美味いんだ”
“実家直伝のレシピですよ”
 全て食べ終えた後に送ったメッセージには、すぐに返事が返ってきた。フライパンを持ってピースする猫のスタンプに口元を緩める。彼女と食卓を囲む気の早い未来に、尾形は思いを馳せてしまった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る