第六話



「観ましたよ、例の映画。配信サイトにありました」
「どうだった」
 薦められた映画が良かったという感想を伝えていると、尾形の口の端が少しだけ上がった。車内での密接した距離ゆえの緊張は日に日に薄れている。代わりに尾形に会えた時、目が合った瞬間、胸に熱い波が打ち寄せて頬が火照っていく。

「気に入ったなら小説もいい。だいぶ内容は違うが比べてみると面白い」
「尾形さんは博識なんですね」
「……別にそんなんじゃない。暇だった大学時代に少し漁っただけだ」
 褒め言葉がこそばゆいのか、少し戸惑ったように視線を逸らす。自分の言葉で尾形の表情や仕草が変わることが嬉しくなってしまう。

 尾形を異性として意識していることを自覚しながらも、尾形が自分をどう思っているのかが見えてこない。古い知人を名乗り毎朝同じ電車に乗ることを申し出た彼が、自分に特別な感情を抱いているのではないかと思ったこともある。しかし、尾形が朝の通勤で他愛ない話をするところから全く踏み込んでこないため、彼には純然たる良心しかない気もして、彼女は自分の感情だけが先走りするのを恐れていた。

 尾形の横顔を見つめながら、先週の金曜日、宇佐美が別れ際口にした言葉を思い出す。
『じゃあ苗字さんに一ついいこと教えてあげる。今月の二二日ね、百之助の誕生日なんだよ。』
 願ってもない情報がありがたかった。しかし何を贈ればいいか考えるとなかなか難しく、昨日もネットで検索をかけては堂々巡りをしていた。

 駅を出ると、新しい太陽を浴びてビルの窓が一つ一つ輝いている。憂鬱の雲が胸に垂れ込める中、重い足取りで支店へ向かうのが彼女の月曜日だった。今、尾形に会える朝が日常に光を与えてくれている。

「今週の金曜、空いてるか?」
 分かれ道が見えてきたところで、尾形が言った。彼女は驚いて勢いよく尾形へ振り向く。そのくせ言葉がつっかえて、何とか「はい」と返事を絞り出した。

「飯行かないか?」
 今週の金曜日。即ち、一月二二日である。
 食事を奢ることも考えた。しかし、既に誰かと過ごす予定を入れているのでは思うと誘える勇気はなく、当日の朝、別れ際にプレゼントだけ渡すつもりだった。
 自分となら合流しやすいという理由かもしれない。それでも、尾形が誕生日に過ごす相手に自分を選ぼうとしてくれていることが、とても嬉しかった。

「ぜひ行きたいです。いえ、行きます!」
「分かった」
「お店ってもう決めてますか?」
「いや、」
「そしたら今回、私が決めてもいいですか?」
「あ、ああ」
 急に前のめりになった彼女に尾形が気圧される。彼女は祝う側の自分が、会計だけでなく店のリサーチと予約もしなくてはと既に意気込んでいた。

「尾形さんは何か食べたいものあります?」
「……和食とか」
「和食ですね。探しておきます!」
 尾形と別れて会社へ向かう。また一週間が始まる。しかし、足取りがこんなに軽かったことは初めてだ。
 

 ***
 

 翌日、彼女は退勤後に駅前の老舗デパートに入った。
 尾形のスーツや財布が、素材の良さからも値が張るものだということは察している。ブランドが分かればと思ったが、自分自身がブランドにさほど詳しくないこともあり注視したことがなかったのを後悔した。彼のお眼鏡に適うものは。あちこちとショップを渡り歩き、店員に話を聞きながら吟味を重ねた彼女は、スーツに合わせやすい柄のポケットチーフを選んだ。蛍の光を聴きながら紙袋を提げてデパートを後にする頃には疲れ切っていたが、その分達成感に包まれていた。

 帰りの電車の緩やかな揺れが心地良く、立ったまま目を瞑りそうになった時、手元のスマホが短く震える。
 尾形からのメッセージだ。彼女は尾形に、ある店のグルメレビューサイトのURLを送っていた。二人が利用している駅の出入口とは反対側にある、ホテル内の日本料理店である。
“行ったことない ここにしてくれるか?”
“分かりました! 予約しておきますね。時間は何時がいいですか?”
“一九時で大丈夫 ありがとう”

 誰かを喜ばせるため、その人のことを考えながらあれこれ悩む心の華やぎを、彼女は久しぶりに味わっている。もうすぐ尾形の最寄り駅だ。窓の外に広がる、冷気で冴え冴えとした夜景。その手前で反射して映る自分がすごく浮かれた表情をしていて、彼女は我に返って恥ずかしくなった。
 

 ***
 

 来店客から預かった書類をデータ入力する最中、パソコン画面の右下に表示された今日の日付を見ては胸がざわめく。仕事には集中しているつもりだが、一分が過ぎるのがとてつもなく遅くて焦れったくなる。それでも彼女は、鼻歌を歌いたくなるような機嫌の良さで次々に仕事を片付けていた。

 今朝の通勤中、彼女は思わず祝いの言葉が口をついて出そうになってしまった。それは食事の後、バッグの中からプレゼントを出すまでのとっておきだと決めている。自分が誕生日を知っているとは思っていないだろう尾形が、どんなリアクションを取るのか想像するだけで口元が緩みそうになる。窓口の営業時間も終わり、このまま順調にいけば余裕を持って待ち合わせに迎える。はずだった。

「一万円、現金が多いです」
 外が黄昏から薄闇へと移り変わっていく逢魔が時。パソコンの前にいる女性行員から放たれた一声で、その場にいる全員に緊張が走った。キーボードを叩いていた彼女は一際ぎょっとする。

 銀行の閉店後、行員は締めの業務の数々に忙しく追われる。その中の一つが勘定照合だ。来店客から受け付けた伝票による処理の金額と、現金が合っているかの確認作業だ。よく言われる『銀行は一円でも合わないと帰れない』とはこのことで、原因が見つかるまで全員で血眼になって探すことになる。

 鼓動が早まっていくのを感じながら、彼女は同僚と手分けして今日の来店客からの伝票を確認する。殺伐とした空気の中、紙を捲る音だけが静かに響く。大抵の原因は単純なミスで、数十分以内に見つかることが多い。今が一六時五〇分。大丈夫、今日の予定に支障はないはずだと、彼女はまだ心に余裕を持っていた。

 一時間後。定時を過ぎても一向に見つかる気配のない誤差の原因に、これは本格的にまずいのではと、彼女は胃の不快感と焦燥感に襲われていた。皆で何度も確認した伝票は右端がめくれ上がってある。

「この前本部から来てたオペレーションのメール、苗字さんチェックしてたよね? あれの実行日が今日なんじゃないの?」
 彼女に風当たりの強い女の上司が棘のある言葉を投げたことで、気が立ってきた皆が一斉に彼女を向く。
「あれは来週処理するものです」
 こんな時も自分に矛先を向けるのかという苛立ちが語気に表れてしまった。彼女が言い返してくると思わなかったのだろう上司がムッとした表情になる。これで見つかった原因が自分によるものだったら、来週からは針の筵だ。勘定が合わない時、皆が考えていることは一つ、「どうか自分のせいじゃありませんように」という保身である。彼女はこの上司のこともあって、勘定が合わない日は人一倍怯えていた。しかし待ち合わせが差し迫っている今、自分の原因で良いから早く見つかってほしいと思うほどに焦りにまみれている。

 現金を数え直しても金額通りだった時には六時を回っていた。彼女は一度尾形に連絡するため、トイレへ行くふりをして更衣室へ向かう。ロッカーからスマホを取り出し、縺れる指で何度も打ち間違えながらメッセージを送った。

“お疲れ様です。すみません、今仕事でトラブルが起きてしまい、まだ終わっていないんです。もしかしたら一九時の予約に間に合わないかもしれません。また連絡します”
 メッセージの送信後、すぐに横に“既読”される。
“お疲れ 分かった、待ってる”
 普段忙しい彼が今日は早く仕事を終わらせたのだと思うと、心臓を握られたかのような息苦しさを覚える。まだ時間はある。彼女は駆け足で階段を降りて、営業室へと戻った。

 考えられる可能性を皆で再度あたっていく。自分たちの手持ちの書類に未処理の伝票が紛れているのではないかと、皆が身の回りまで捜し始めたためデスクの上が雑然としていた。それでも何の進展もない状況に、それぞれの表情には諦念に似た疲れが広がっている。

 どうして、どうして今日なんだろう。
 皆がため息をついて手を遅める中、彼女だけが必死で探し続けた。あれだけ日中は過ぎるのが遅かった時間が、一九時にかけてみるみる早さで迫ってくる。この一週間、尾形を喜ばせたいと期待に胸を弾ませていた彼女は、今はただ、彼をがっかりさせたくない一心だった。

 一八時五〇分。支店長が本部へまだシステムをシャットダウンできない旨の連絡を入れている間、彼女は再度、営業室を出てすぐ向かいのトイレへ入る。結局見つからない。スカートのポケットに入れていたスマホを取り出すと、瞼がじんわりと熱くなった。

“ごめんなさい、まだ終わりません。いつ終わるかも全然目処が立たなくて”
 店に遅刻の連絡をするにしても何分ほど遅れるのか分からない以上はどうしようもない。“既読”の表示を潤んだ目で見つめていると、尾形からのメッセージが表示された。

“それなら今日はキャンセルしよう また次回行けばいい”

 尾形からすればこう言うしかないのだろう。あれだけ張り切っておいて、彼に誕生日にこんなことを言わせてしまった自分が情けなくて、涙が一粒、彼女の頬を伝っていく。
“店には俺が連絡入れておく”
“本当にごめんなさい”
 ああ、がっかりさせてしまった。
 
 
 結局彼女が支店を出たのは二一時過ぎだった。複数の箇所でのミスが絡み合っての誤差を解明できた時は、皆が安堵と開放感で笑みをこぼした。しかし彼女だけは、心が沈みこんだまま力ない愛想笑いを浮かべるしかなかった。街の賑わいや、バッグの中に入ったままのブランドの紙袋が、ただただ虚しい。ようやく家へ帰ると、彼女はそのままベッドの上に突っ伏すように寝転んだ。何をする気にもなれなくて、身体はひどく疲れているのに全然眠れる気がしない。

 尾形は自分を誘ったことを後悔しているだろう。いや、案外あの後すぐ別の誰かに連絡して、今一緒に過ごしているのかもしれない。もしかしたらそれは女性で。そう考え始めたら彼女は胸が締めつけられて、恋人でもないくせに尾形に選ばれたと勘違いして、一週間浮かれていた自分が馬鹿みたいだと思った。

 いずれにせよ早く謝らなくては月曜日合わせる顔がないと、鉛のように重い身体を起こし上げて、トークアプリから彼に発信する。電話をかけるのは二回目だった。

「もしもし」
 数コールで聞こえてきた低い声は、その場に尾形がいるわけではないのに彼女をいたたまれなくする。
「もしもし。今、大丈夫ですか?」
「ああ。家に帰ったか?」
 電話は尾形の声以外何も拾わないため、尾形も既に家にいるような気がした。

「はい。尾形さん、今日は本当にすみませんでした」
「仕事だったんだから仕方ないだろ。大変だったな」
 不甲斐なくて、労られることがかえって辛い。
「せっかく誘っていただいたのに」
「別に気にしてない。飯ならまた今度行けばいいだろ」
「でも、今日じゃないと! 今日が尾形さんの、」
 気に病ませないためであろう尾形の言葉が、彼女の堪えていたものを溢れさせた。涙混じりの情けない声で返した言葉に、息を呑んだ音が聞こえた気がした。

「知ってたのか」
 こんな形で驚かせるはずではなかったのにと思うと、次々に涙がこぼれ落ちていく。「宇佐美か?」という問いにも答えられず、嗚咽を堪えようとする喉が熱く苦しい。これでは本当に月曜から合わせる顔がない。

 電話の向こうで、呆れたようなため息が吐かれた。
「祝おうとしてくれたのは嬉しいが、そもそも俺は自分の誕生日に思い入れなんてない。めでたいとも、特別何かしたいとも思ったことはないしな」
 歳を取れば自分の誕生日に頓着がなくなっていく人も多いが、なんてことないように言う尾形の言葉になぜだか彼女は切なくなる。

「でも今年は、あんたと飯でも食って過ごせるならと思って誘っただけだ。別に祝ってほしくて誘ったんじゃない。今日はこうやって電話で話せたから、もう満足だ」
 だからもう泣くな。

 ぶっきらぼうに付け足された言葉に反して、彼女の涙は止まりそうになかった。彼の不器用な優しさが、彼女の心の柔らかい部分に触れたからだ。そこにやはり特別な何かがあるのではないかと期待を寄せてしまいたくなるが、もう関係なかった。尾形が自分をどう思っていようと。自分が彼のことを思い出せなくても。
 関係なく、尾形に恋をしてしまっている。

「明日の夜、空いてるか。」
「明日? ……はい、空いてますけど」
「一日遅れで祝ってはくれんのか?」
 揶揄うような口ぶりに、ようやく彼女から笑みがこぼれた。今日行けなかった店に連絡して、空いていなかったら違うところへ行こうと決めた。

 最後に彼女は言った。これだけは、当日伝えなくてはならないから。
「尾形さん。誕生日、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
 電話を切った後、ひりついていた心が温かい膜で包まれていることに彼女は気がついた。電話越しの会話だったが、今日初めて、本当の意味で彼との距離が縮んだと思った。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る