第九話



 いつも自分が持っていくものより、少し背伸びをした弁当だった。それでも彼の口に合ったか気がかりで、彼女は同じ中身が入った弁当を同僚たちと食べながらもそわそわして落ち着かなかった。

 だから尾形からのメッセージが届いた時、彼女は胸を撫で下ろすように深いため息を漏らしてしまった。
“ご馳走様。本当に美味かった”
 前夜からの下準備や今朝の忙しさが、この一言に容易く報われてしまう。舞い上がってすぐに返信した五分ほどの短いやり取りを、彼女は何度も読み返してはその言葉たちを大切に心に閉まった。

 礼をしたいという尾形からの食事の誘いに最初は首を振った。「あるもので作っただけなので気を遣わないで下さい」と。しかしいじけたように目線を落とした彼を見て、礼をしたいというのは理由の一つでしかないことに気づき、尾形からの厚意に甘える形となった。

 平日より賑やかな駅中を、彼女がリクエストしたお好み焼き屋の入る駅ビルへ二人で歩いていく。昼間に会うのも、会社の最寄り駅周辺以外で尾形と過ごすのも初めてで、彼女は浮ついて、仕事へ行く時よりも早く目が覚めてしまった。

 何を話そうか。これからもたまに弁当を作っていいかを聞くか。あれこれ悩みながら駅へ向かう最中、見上げた街路樹の桜が淡い陽射しを浴びていて、今は堅く閉ざされた芽が花開く春を待ち遠しく思った。

 昨年の秋に多数のショップがリニューアルをした駅ビルは、最後に彼女が訪れた時からだいぶ内装が変わっていた。
「見てもいいぞ」
 尾形が言った。予約の時間までまだ余裕がある。女性向けのショップに尾形を付き合わせるのが悪いと思いつつも、彼に断りを入れてヘアアクセサリーショップへと向かった。

 店頭に並ぶ、上品なデザインのアイテムに彼女が目を輝かせる。シンプルながらも髪を上品に飾るバレッタを、彼女はその日の気分によっていくつか使い分けているのだ。
「どれも変わらんように見えるが」
「全然違いますよ」
 先端がくし状になったヘアクリップたちを眺める尾形の一言に、彼女が口をすぼめた。と言っても、何か拘りがあるわけではない。見た瞬間にときめくものを選ぶ。店先での出会いは初恋に似ているかもしれない。

 彼女の視線が一箇所で止まった。ペールトーンの花があしらわれたスリムバレッタに、指先が触れる。
「可愛い」
 花芯にパールが入った繊細な作りに心がときめいた。両手に掬うようにして見惚れていると、隣から伸びてきた手がそれを拾い上げる。
「え、尾形さん?」
 すたすたとレジへ向かう尾形の後を慌てて追いかける。戸惑い呼び止める彼女に構うことなく、尾形は会計を済ませてしまった。少し照れくささが滲んだ表情で紙袋を差し出され、彼女もおずおずと礼を言って受け取る。店員の微笑ましい視線が、より羞恥に身体を熱くした。

 エレベーターを待つ最中、壁に貼られたショコラフェアのポスターに目が留まった。幸せに包まれながら、彼女はこの前よりも躊躇いなく自分の手を取った尾形の手に、指を絡ませる。
 今までで一番温かいバレンタインがやってくる。
 この時は、そう信じて疑わなかった。
 

 ***
 

「チョコレートを渡したい」と初めて彼女からデートに誘ったが、バレンタインデー当日は尾形に予定が入っているらしく、一日早い土曜に会うこととなった。

 定時で仕事を終えた彼女は電車に揺られながら、何日も吟味して選んだ甘さ控えめのレシピをブックマークから開く。ブランドのチョコレートにしようか迷って手作りを選んだ彼女は、必ず成功させることに緊張と高揚が入り混じっていた。

 あのバレッタをつけて行こう。
 胸の高まりは収まりそうにない。改札を抜けた彼女は家路を急ぐ。すると、見慣れた出口で、誰かを待つように女が佇んでいた。
 女の視線が、彼女を捉える。自分へ向かって真っ直ぐに歩いてくる女に、彼女は怪訝に思いながら足を止めた。

「苗字名前さんですよね」
 知らない女だった。しかし女が自分を呼び止める声は確信を持っているもので、彼女は驚き怯んだ。

 歳は自分と同じくらいだろう。端麗とも可憐とも言える、人目を引く顔立ち。顎のラインでふわりと内側にカールされたボブヘア。襟に柔らかそうなファーの巻かれた高級感のあるコート。ブランドのハンドバッグをかけた手の指先には、ラメの入った長いネイルが施されている。
 美しい、全てが整えられた人だと思った。しかしその目つきは明らかに怒りをたたえていて、彼女のことを頭の先からつま先まで品定めするように眺めている。

「そうですけど、どちら様ですか」
「―――と申します。少しお話したいことがあるので、お時間よろしいですか?」
 威圧的な口調だ。訊ねてはいるものの、彼女に断る選択肢などないような物言い。外から容赦なく吹き抜けてくる冷たい風が、胸の奥の熱まで奪っていく。

「あの、どういったご要件でしょうか?」
「尾形百之助さんのこと、と言えば分かりますか?」
 言葉を紡いだばかりの唇が震えた。隠そうともしない女の敵意に、もしかしたらと頭に過ぎりはした。それ以外およそ自分に関わりがある人には思えなかったから。しかし、今日初めて会ったばかりの女の口から尾形の名前が出たことが衝撃だった。

 頷くしかなかった彼女は、女と駅前の喫茶店に入った。昭和レトロ感の漂う、昔ながらの喫茶店。店内に一人年配の男性客がいるだけの静けさが、彼女を居心地の悪さで締め上げてくる。店の前を通るたびに気になってはいたが、こんな理由で来たくはなかった。

 コーヒーを注文した後、彼女は俯きがちになっていた顔をそっと上げ、向かいに座る女と視線を合わせた。
 この人は尾形と、どういった関係なのか。
 以前付き合っていた恋人か。それとも尾形に気がある会社の同僚か。

 尾形の名前を口に出されてから、彼女の胸には今から何を言われるか分からないことへの不安と、女の見目への劣等感が渦巻いていた。彼女にとって尾形は、出会ってきた男の誰よりも魅力的だ。自分以外に惹かれている女がいてもおかしくないとは思っていたが、こんな美しい人が尾形の周囲にいたということに、ショックを受けている。

 尾形から女の影が見えたことはなかった。そして孤独だった自分の日常は、彼の真っ直ぐな優しさや不器用さに何度も救われてきた。はっきりと言葉にされたわけではない。しかし、互いの想いを知った上で休日に会い、手を繋ぎ、料理を作ってそれを食べてくれる。恋人と言っていい関係のはずだ。尾形の自分への情をいまさら疑いようがない。その自信だけが、彼女をここに留まらせていた。

 干上がった喉で無理やり唾を飲み込むと、女がテーブルの下で足を組みかえた。
「改めまして、―――と申します。百之助さんの」
 正式な婚約者です。
 赤い唇からはっきりと告げられた言葉に、頭の中でガラスが勢いよく割れた音がした。呼吸もままならないほどの衝撃を与えられた自分に構うことなく、ウエイトレスが来て目の前にコーヒーを置いた。女が悠然とカップを手に取っても、湯気立つ表面を眺めるだけでとても口にする気になれない。

 今日までの幸せな日常が、まがい物だったのかと思った途端に色を失っていく。凍りついた唇で、「婚、約者」と言葉をなぞることしかできない彼女は、女と目線は同じはずなのに見下ろされている。

「父が社長を務めている会社と花沢商事が取引先でね。彼のお父様とは懇意にさせていただいているの」
「花沢商事?」
「やだ、本当に何も教えてもらってないんだ」
 唐突に出てきた大企業の名前にますます混乱する彼女に、女が嘲るように甲高い声をあげた。

「百之助さんは奥様の子供ではないから、将来的に会長は本妻の息子が継ぐんでしょうけどね。でも百之助さんも必ず、今の証券会社を辞めて相応のポストにつく人なの。優秀な実業家の血が流れてるんだから。パーティで会う女の子たちはみんな本妻の息子に夢中だけど、分かってないのよ。百之助さんの方がよっぽどいい男なのに。百之助さんも私のことを気に入ってくれて、順調に結婚への話がまとまっていたの。うちの会社は私が跡を継ぐわけではないから問題ないし」

 初めて知った彼の家庭環境。家族のことを聞いた時、「茨城の実家に母がいる」としか言わなかった尾形に、父親について踏み入るようなことはしなかった。しかし、取引先の社長の娘と婚約までしているほどに結びつきの強い父親のことを、彼は自分に“隠していた”のだとようやく気づく。

 自分の胸に、飛び散った破片が一つ一つ突き刺さる。痛い。あの優しさも、眼差しも、触れた温度も、腹の底では目の前の女との結婚までのお遊びだと思っていたのなら。とても受け入れられなかった。しかし、彼と昔会ったことがあるのを思い出せないのも、それ自体が嘘だからではないか。もう何を信じればいいか分からない。暗闇に放られて床を踏む感覚さえ失ったような、吐き気さえ覚える絶望に落とされていた。

「だからあなたのためにもはっきりと申し上げるけど、もう彼に纏わりつくのはやめてちょうだい。あの人はあなたなんかと一緒にいていい人じゃないの。彼が自分に気があるなんて、思い上がりもいいところよ」

 軽快なドアベルの音がずっと遠くで聞こえる。尾形と二人でいるところを、どこかでこの人に見られていたのだろう。そして自分のことを調べて待ち伏せしていた。尾形の前から排除するために。異常だと思った。

「お話は分かりました」
 女が勝ち誇った笑みを浮かべる。それが悔しくて、彼女は「でも」と語気を強めた。
「尾形さんは私のことを、何と仰ってるんですか? 私は尾形さんから――さんのことは何も伺っていません」
「そりゃそうでしょうね。片手間の遊びの相手に本当のことを言うわけないでしょ」
 鋭利な言葉が胸をえぐる。声が震えそうになるのを喉に力を込めて必死で抑えた。

「百之助さんにも確かめて、お二人が本当に将来を約束している仲だというなら、私は邪魔するつもりはありません。でも、尾形さんは私を痴漢から助けてくれた後、自分から毎朝一緒に通勤することを申し出てくれました。彼の誕生日も、先週の土曜も尾形さんから誘われて二人で会っています。そういったものを全部、私の思い上がりだと言われるのは心外です」
 その瞬間、顔に黒い何かが飛んできて彼女は反射的に目を瞑った。火傷するほどの熱ではない。しかし濡れた髪や服に、コーヒーの匂いが不快に染みついていく。

 まつ毛に褐色の液体が絡まる視界の先で、女の表情が憎悪に歪んでいる。空のカップにかけたままの指のネイルが、手のひらに食い込んでいた。
「自分の立場を弁えなさいよ」
 客観的に見れば邪魔者は自分なのだろう。しかし、結局この人がここまで必死なのは嫉妬してるだけではないか。婚約者という立場でありながら尾形に愛されていない不安を、本人ではなく自分に当たり散らしに来たのだ。彼に見つかることのない、自分の最寄り駅まで来て。そんな卑怯な女に、彼女は意地でも頭を下げたくはなかった。

 女が立ち上がる。髪から冷えたコーヒーが滴っていく。惨めで悔しいのに、涙が流れようとはしなかった。一度に色々なことを聞き過ぎて、かえって自分のことではないような、どこか遠くからこの出来事を眺めているような気にもなっていたからだ。

 女が「あ、そうだ」とコートを翻して彼女に振り向いた。トドメの一刺しが来る。身構えた彼女を、女が鼻で笑った。
「明後日のバレンタインデー、会えないって言われたでしょ。あれ、私と過ごすからよ」
 

 ***
 

 もう何時間も、部屋の白い壁をただ眺めていた。
 本当なら、今頃明日に向けてキッチンに立っていたはずだ。しかし、用意してあった材料に手をつける気にもなれず、あの数十分でぐったりと疲れた身体をベッドに沈み込ませて呆然としている。シャワーを浴びたのに、まだコーヒーの匂いがこびりついているような気がした。

 女に言われた言葉の一つ一つが頭の中で反響して、彼女の自尊心に傷を新たに作っていく。一四日を断られた時、疑いもしなかった。それだけ、彼の誕生日からグッと近づいた距離に浮かれていた。

 尾形を問い詰めたい。でも彼の口から本当のことを知るのが怖い。今までに、あの人とも手を繋いだのだろうか。それ以上のことも。嫌な考えが頭を巡り、楽しみにしていた明日が嫉妬で真っ黒く塗り潰されていく。

 その時、スマートフォンがバッグの中で震えた。
 気だるい腕を伸ばして取ると、彼の名前がディスプレイに表示されている。彼女の目の奥がぐわっと熱くなって、画面に触れる指が震えた。
「まだ起きてたか? 明日のことでちょっと聞きたくてな。昼間行くところを二つ考えたんだが、あんたに選んでもらおうと思って」
 いつもは自分の心を温める優しい音色が、今はひどく薄っぺらく聞こえた。片手間の遊び≠ニいう女の言葉が過ぎって、彼女の心を痛めつけてくる。

「おい、聞いてるか?」
「尾形さん」
「何だ」
「今日、――さんという方にお会いしました。」
 電話の向こうで沈黙が広がった。尾形が言葉を失ったことで、まだ信じたくなかった話が真実となって彼女に重く降りてくる。初めて食事した日、自分は怪しいものではないと名刺まで出した彼に別の後暗いことがあったんだと思うと、どこか可笑しさを覚えた。

「待て。聞いてくれ、ちゃんと説明する」
「全部聞きましたよ」
 しかし、しどろもどろになる尾形に彼女から絞り出た言葉は冷たく彼を突き放していた。
 喉が焼けるように熱い。涙がぽろぽろとこぼれ落ち、彼の誕生日に電話した日のことを彼女は思い出した。意識していた尾形にはっきりと恋を覚えた夜。あの時も騙されていたことが、身を引き裂かれるように辛い。

「もう、二度と近づかないで」
 涙声で最後にそう言って電話を切った後。彼女は枕に顔を突っ伏して声をあげて泣いた。彼から真実を知ってしまったことで、悲しみが一気に押し寄せて心を吹き荒らしていた。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る