第十話



 目が覚めると、瞼にひりついた痛みが走った。
 窓の外が薄らと白んでいる。あまり眠れていないはずなのに意識ははっきりと覚醒して、薄暗がりの部屋の天井に昨日の出来事が鮮明に蘇った。枯れるほど泣いたはずの目から、再び涙がこぼれ落ちてくる。

 悪い夢のような話だった。しかし一夜明けた今、女からの言葉や、言葉よりも如実に語っていた尾形の沈黙が、全て現実となって伸しかかってくる。
『片手間の遊びの相手に本当のことを言うわけないでしょ』
 自分を鼻で笑った女の言葉が彼女の胸を這い回る。
 あんな性格の悪い人を気に入るなんて、尾形さんって見る目ないんだ。
 心の中でそう毒づいても、大企業同士の良縁に彼女の入る隙などなかった。昨日まで彼の恋人のような存在のつもりでいた自分が滑稽で、尾形の誕生日や弁当作りに意気込んでいたことを、恥ずかしくて忘れてしまいたい。

「……お腹空いた」
 昨晩何も食べなかったことを思い出して、彼女は億劫に感じながらも起き上がる。洗面所の前へ行くと、鏡に映る自分の浮腫んだ顔に苦笑いした。

 尾形と過ごす予定だった今日一日を、どうやって過ごすかを考える。何をする気力もないのに、この1Kの小さな部屋に一人で一日中いるのは孤独に押し潰されそうだ。少しでも気を紛らわしていたい。使わなかった板チョコを小さく割って口にしながら、彼女は通知の来ていたトークアプリを開いた。尾形からは何も来ていない。突き放したのは自分なのに、そこに胸が痛んだ。代わりに来ていたのは、大学時代の友人からのメッセージだ。

“聞いて。昨日彼氏から電話かかってきて唐突に振られたの”
 今の自分と似たような境遇に目を見開く。先日までSNSに頻繁に恋人とのデートの様子が投稿されていたのに、何があったのだろうとスマホに指を走らせる。
“そうだったんだ。相手は何て?”
 八時間越しの返信はすぐに既読が表示された。
“聞いたんだけど意味わからない理由だった”
“今夜電話してもいい?”
 普段のスタンプや絵文字の多い友人の文面を見ている彼女にとっては、友人が落ち込んでいるのは明らかだった。少し考えた末に、彼女はメッセージを送った。
“いいよ。私も失恋したところだし”
 友人から恋人ができたと聞いた時は素直に喜べなかったくせにと、自分の狡さを自覚しながら。
“それって先月言ってた人?”
“そう。バレンタインのチョコ作ろうとしてたのに板チョコのまま自分で食べてる笑”
“マジか。今日仕事なんだけど、定時であがれるだろうから電話じゃなくて会わない?”
“いいよ。お店△△駅の辺りにする?”

 自分だけが恋人のつもりでいたなんて、本当は友人に話すのも恥ずかしい。しかし、自分の中でまだ納得のいっていない昨日のことを、彼女は誰かに話して踏ん切りをつけたかった。
 顔のむくみが引いたら出かけよう。一人でお洒落なランチを食べて、本屋をゆっくりと回って、多少散々してでもショッピングを楽しもう。彼女は丸一日空いてしまった休日を空虚に過ごすまいと、まずは溜まっていた洗濯機のボタンを押した。


 一通り家事を終えてから家を出ると、重苦しい凍雲が空に張りついていた。吹きつける風に肌が痛みさえ覚えて、ここ最近で一番寒い日だと実感する。
 彼女が階段を降りると、このアパートの一階に住む大家の年配女性が玄関先を箒で掃いていた。
「おはようございます」
「おはよう。お出かけ?」
「ええ、今日寒いですね」
「夜は雪が降るって予報出てたよ?」
「遅くならないうちに帰るので大丈夫です」
 彼女がここへ入居したばかりの頃、共有スペースの花壇の花を彼女が大家に褒めてから、顔を合わせた時は他愛ない話を交わすようになっていた。
 気のいい大家に笑みを返すが、初雪が降った一二月、尾形と初めて会った日のことを思い出して胸がじんと冷たくなる。駅までの道のりを歩く最中、心が冷え切った彼女には、目に映る景色が全て色を失っているように見えた。

 過去に面識があるという尾形の話さえ彼女は疑ったが、自分に詰め寄ったあの尾形の気迫を、やはり演技とは思えなかった。自分と再会し、善意で助けてから一緒にいるうちに情がわいた、と信じたい。彼に遊ばれていたのを、自分が勘違いしていたわけではないと。

 しかし、将来を約束した相手がいることを隠されていたことが全てだ。本命の相手がいる以上、関係を深めたところでそれを世間では恋人とは呼ばない。

 いつもの電車に乗り、会社の最寄り駅より更に三つ先、友人との約束の駅で降りた。ハートで彩られたショーウィンドウを通り過ぎ、肩を寄せて歩くカップルとすれ違いながら、彼女は一人のランチを楽しもうと以前同僚が話題にしていたタイ料理店へ向かった。店へ着くと、開店してまもない時間だが店の前には既に十人ほど並んでいる。噂に違わぬ人気店の行列に加わり、エスニックな内装の店内をガラス窓から覗く。

 尾形さんこういうお店好きかな。
 ふと頭に浮かんだ言葉にはっと我に返った。尾形のことを忘れていたくて街に出た。しかし、尾形と過ごした時間は油断するとすぐに、彼女の心の真ん中に尾形を連れてくる。もう彼の隣を歩く日々は二度と来ないというのに。

 白いため息が鉛色の空に溶けてゆく。すると、彼女が右手に持つスマートフォンが着信音を響かせた。
 全身にまで震えが伝わってくるようだった。画面に表示される尾形百之助≠フ文字に、彼女の胸が押し潰されて息ができなくなる。もう見たくもない名前のはずなのに、嬉しい自分がいる。五コール、出ることを躊躇った。しかし止まることのない着信に、かじかんだ指先で応答のボタンを押す。

「はい」
「俺だ。……今、少し大丈夫か?」
 耳に届いたのは、自分の機嫌を伺うような張り詰めた尾形の声だった。今までのことを謝られるのだろうなと察して、淡い期待を抱いてしまった彼女の心が掻き乱されていく。
「すみません、これからお店に入るので」
「店? 今どこにいるんだ?」
「教えたくありません」
 会って謝られたところでまた惨めになるだけだ。尾形の顔を見たら未練が溢れ出てしまいそうな自分が怖くて、つい可愛げのない言い方をする。

「なあ、一度会って説明させてくれ。お前は誤解して」
「もういいですから」
 尾形の言葉に彼女が被せて言った。諦めじみた拒絶を表す声に、尾形がショックを受けたかのように押黙る。
 何でそっちが傷つくのさ。
 彼女のスマートフォンを握る手に力がこもった。
「年末のこと、尾形さんには感謝しています。でももう大丈夫ですから。また会ったりしたら、私が婚約者さんに怒られちゃうので」
 尾形を許せなくても、責め立てるつもりにはなれなかった。隠されていたとはいえ、尾形の厚意に甘えたのも、好きになったのも自分の意思だ。あの時の自分まで、彼女は否定したくはない。

「だからそれは」
「とにかく、もう会えませんから。失礼します」
 また一方的に電話を切った後。ガラス窓に映る、泣きそうな顔の自分が情けなくて目を逸らした。店の中からカップルが出てきて、すぐに手を繋いで通りへと歩いていく。明日、尾形の骨ばった手があの女の華奢な手を握るのだと思うと、彼女の胸がひび割れるように痛んだ。
 

 ***

 
 街がネオンに彩られ始めた夕時。彼女が仕事終わりの友人と合流して入ったのは、駅前の個室居酒屋だった。
「こんな時に言うのもあれだけど」
 ひと月ぶりに顔を合わせた友人は、席に座るなり彼女を見て目を丸くした。
「なんか綺麗になったね、名前」
「そう、かな?」
 最近念入りにしていたスキンケアや少し変えた化粧の効果が現れたのかと思うと、彼女は複雑な気分だった。

 乾杯早々、電話で別れを告げられた恋人について、息巻いて話す友人に彼女は気圧された。メッセージをやり取りしてきた時はかなり気落ちしていると心配したが、「あんな奴」と元恋人をこき下ろす友人は、今は怒ることで気持ちを昇華しているようだ。

 話題が自分へと切り替わると、彼女は友人に昨日のことを順を追って言葉にした。この友人を含めた四人で先月に集まった時、彼女は尾形との年末の出来事を話していたのだ。「それ絶対名前のこともう好きじゃん」と一番はしゃいでいた友人は、彼女の話が進んでいくにつれ、表情は怒りをたたえて険しくなっていった。友人が自分の代わりに尾形と婚約者に憤ってくれたことが嬉しかった。彼女にはもう、恨む気力さえなかったから。

「まあでも、もっと深入りする前に知って良かったよ」
 友人の慰めの言葉に、彼女は力なく微笑んだ。自分にも納得させるためにそう言い聞かせた。手を繋ぐ以上のことはしていなかったのだからと。しかし、臆病なまでに慎重に自分に触れてきた尾形だからこそ、彼女はそこに純粋な想いを感じ取っていたのだ。そんな彼に騙されていたことが、彼女を深く傷つけていた。

 その後は互いの仕事の話になった。異動も数年先の彼女は、通勤で尾形と遭遇してしまうことが怖い。四月には異動になりそうだという友人は、失恋には新しい恋だと既に意気込んでいる。バイタリティのある友人が羨ましい。あんなにも強く惹かれていた尾形を忘れることができる相手に、彼女はもう出会えるとは思えなかった。

 店に二時間ほど滞在した後、明日も仕事だという友人と地下鉄の出入口で別れた。昼間より色づいた街を、駅へ向かって歩いていく。前を歩く幸せそうなカップルが眩しくて苦しい。友人のおかげで少し持ち直した心に、沁みるような冷たい風が吹き込んで再び感傷に浸らせてくる。スクランブル交差点の信号で止まると、頬にひやりとした感触を覚えて空を見上げた。

 すぐに溶け消えてしまいそうな繊細な淡雪が、都会の光に照らされながらひらひらと舞い降りてくる。その無垢な美しさに、感嘆の声が群衆に広がっていく。
 切なさが彼女の胸を詰まらせた。白い雪に、あの真っ黒な瞳を思い出してしまう。人や喧騒に溢れた都会の真ん中で、孤独に閉じ込められていく。

「あれ? 名前じゃん」
 後ろから呼びかけられた声に、彼女の意識が引き上げられた。振り返ると、黒のステンカラーコートを来た若い男が後ろから自分を覗き込んでいる。
 以前付き合っていた男。彼女の頭の中に警鐘が鳴った。

「久しぶりー。っていうかさ、なんで最近連絡無視すんの」
 当然のように自分の隣へと並んだ彼に何も答えずにいると、信号が青に変わった。振り切るように歩いていくが、男は離れようとはしない。

「もしかして彼氏できたとか?」
「……関係ないでしょ」
 他の女との浮気まがいの行為を咎めた自分に、「お前めんどくさい」と言ってフッた男。それなのに、いつまでも自分を好きにできると思っているこの男との関係を断つため、彼女は最後に会った十二月からは一切連絡を返さなかった。

「飲んでたの?」
「そう。だからもう帰るところ。バイバイ」
「じゃあもう一軒軽く飲みに行かない?」
「行かない」
「即答かよ。ねえ、雪で電車止まったら俺の家泊まりなよ。ここからならタクシーで近いし」
 駅の入口に入ったところで、ついに男が彼女の手を絡め取った。冷えきった手を包む熱が、男を振り切ろうとしていた足をぴたりと止める。
「相変わらず手冷た。ねえ、お願い。名前が連絡返してくれなくなって、俺寂しかったんだよ?」

 人好きする顔立ちがしゅんとして彼女を見つめる。付き合い始めた頃からこういう男だった。強引だけど器用に、他人の心に入り込んでくる男。

 どうして自分がこの男を跳ね除けられないのか。孤独だからだ。自分を大事にしてくれない人に縋らなければならないほど、彼女は尾形と出会う前、寂しかった。
 だから今、どうでもよかった。彼の家でぞんざいに抱かれてまた後悔しても。少なくとも自分の部屋に帰って、尾形と過ごした時間に思いを馳せながら枕を濡らすよりは、彼女にとってはマシだった。

 こんな女だって知ったら、尾形さんも軽蔑するよね。
 心の中で自嘲した時。彼女のスマートフォンが、バッグの中で振動した。
 心がざわめいて、彼に見えないようにバッグの中から画面を覗く。
 大家からだった。殆どかかってきたことのない意外な相手に驚きながらも、何かまずいことがあっただろうかと、男に手を離してもらい慌てて通話に出る。

「もしもし? 急にごめんね」
 今朝も聞いた朗らかな声は、少し緊張感を漂わせていた。
「大丈夫ですよ。すみません、何かありましたか?」
「いや、実はね。夕方買い物から帰ったら、苗字さんの部屋の前で男の人が立ってたの」
「え?」
「帰ってくる名前さんと待ち合わせてるのかなと思ったんだけど、ふと気になってさっき見てみたらまだその人いてね。もう何時間も経つし、何かあったらやだなと思って聞いてみたの。そしたら名前さんのこと待ってるだけだって。心当たりある?」
「……どんな人ですか? その人」
 まさか、そんなわけがないと、鼓動が激しく鳴る。

「ちょっと強面な感じでね。頬に塗ったような傷があって」
 吐く息が震えて、雪を照らす煌びやかな街の光が滲んでいく。
 こんなに寒い日に、何考えてるの。あの人。
 冷えきっていた彼女の心に、熱い何かが込み上げてきた。

「ごめんなさい。その人、私の彼氏です。すぐに戻ります。はい」
「は? 何、彼氏?」
 大家との電話を切った後、状況が飲み込めず困惑している男に目もくれず、彼女は思い切り走り出した。

 ホームがあまりにも遠い。電車が来るあと数分が焦れったくて仕方ない。自宅の最寄り駅に着くまでの二十分が果てしなく長い。
 二度と会いたくなかった。嫌いになったからでも、婚約者に怒られるからでもない。好きで好きで仕方がないからだ。もう一度会って、尾形の口からはっきり自分が彼の本命ではないと伝えられることが、あれだけ婚約者に惨めな思いをさせられた後でも怖かった。どこかでまだ、彼が本当に好きなのは自分だと信じていたかった。

 こんなに自分のために必死になってくれる人を、彼女は知らない。

 自宅の最寄り駅へ着くと、先程ほどよりも降りしきっている雪は駅前の景色を薄らと染め始めていた。彼女がひたすらに、息せき切って駆けていく。肺が凍りそうだった。耳や鼻が痛いぐらい、風が冷たい。

 傷つくのが怖いからと尾形を拒絶して、寂しさから逃げるために他の男に流されようとした自分が、許せなかった。自分から彼に謝ろうと心に決めて、脇目も振らずに走り続けた。

 ようやくアパートに着いた。二階の彼女の部屋のドア。その横に誰かがしゃがみ込んでいるのが、廊下の蛍光灯にぼんやりと照らされている。
 息を上げながら、階段を駆け上がったその先。彼女の帰りを待っていた尾形が、疲れ切った、しかし何かに勝ったような笑みを浮かべた。

「何で、」
 彼女の涙腺がみるみる緩んでいく。
「前、タクシーで送っただろ」
「そうじゃなくてっ、」
 何で、そこまでするんですか。
 問いは言葉にならなかった。喉が裂けるような痛みを覚えながら、熱い息を漏らして彼女が涙を流す。立ち上がった尾形が、この前よりずっと冷たい手で彼女の右手を掴んだ。
 決して離さないという意志の強さが、そこにはあった。

「このまま終わらせたくないからに決まってんだろ。あんたが帰った後じゃ、開けてもらえんと思ったからな」
 しんしんと降りしきる雪が、二人を優しく包み込んでいた。
 

 ***
 

 湯気が立ち込めるホットチョコレートに尾形が口をつける。猫がストーブの前に座った時のような和らいだ表情に、彼女がほっとしたのも束の間。見慣れた部屋の景色の中に尾形がいることが、彼女の動悸をこれでもかと言うほど早めていた。二人掛けソファに少し間を空けて座ったはずの距離が、今までで一番近く感じる。
 彼女と尾形の視線が重なると、互いに遠慮したような硬い雰囲気が流れた。暖房が効き始めてきたが、何時間も重い冷気を吸い込んだ尾形は今も寒々しく見えて、彼女の胸を罪悪感で締めつけてくる。

 乾いた唇が、ごめんなさいと紡ごうとした時。
「すまなかった」
 先に沈黙を破ったのは尾形だった。鼻の奥がつんと沁みてまた涙が出そうになる彼女に「まず言っておくが」と言葉を次ぐ。
「あの女とは別に婚約なんてしていない。親同士でそういう話が勝手に持ち上がっていただけだ」
「……え?」
「家のことは本当だ。別に隠していたわけじゃない。聞いた通り複雑な家庭でな。何となく、あんたには言いづらかった」

 婚約者がいたことにショックを受けていただけの彼女は、そこで初めて、『百之助さんは奥様の子供ではないから』という女の言葉を思い出した。
「そんな碌でもない父親が持ってきたお節介な話を、受けたつもりはなかったが相手はその気だったらしくてな。先月向こうに、俺にはその意志がないことをはっきり伝えた。親父にもそういうことを考えてる奴はもういると言って、話は終わったはずだったんだがな。あの女はしつこく付きまとってきた」
「そう、だったんですか」
「そしたら先週、もう他に女がいるなら最後に一日だけ自分とデートしてくれれば諦めると言ってきた。冗談じゃなかったが、俺の家にまで押しかけてくる女のことが、あんたに知られたくなかった」

 それでは自分は、部分的に真実を入り混ぜた嘘を吹き込まれて、振り回されただけではないか。彼女の中には、昨日自分を罵倒したあの女への怒りが込み上げてきた。尾形にも、だったら最初から正直に話してくれれば良かったのにと、不満を覚えなかったといえば嘘になる。しかしそれよりずっと、彼が自分だけを一途に想ってくれていたことに、温かい安堵が広がっていく。

「あの女とはあんたに今日電話する前、ちゃんと話をつけてきた。もう俺たちにちょっかいをかけるようなことはしないって約束させた。だが、どれだけ弁解してもあんたを傷つけたのは事実だ。まだ俺のことを信じられないなら、信じてもらえるまで何だってする」
 彼女は首を振った。ここまで自分に誠意を尽くす人に、もう求めるものなんてなかった。

「これからも、私がそばにいていいんですか?」
「ああ、もうあんたに近づけないんじゃ困る」
 昨日、自分が電話の最後に尾形に言い捨てた言葉を彼女は思い出した。感情的に放ったあの言葉が彼をどれだけ傷つけたのだろう思うと、懸命に堪えていた涙がとうとう溢れ出た。

「ひどいこと、言って、……ごめんなさっ」
 しゃくり上げる彼女の震える背中に、尾形の腕が回った。引き寄せられるままに肩に頭を預けると、尾形の体温が伝わってくる。自分を落ち着かせる尾形の匂いが胸いっぱいに満ちて、荒んでいた心が彼の優しさで包まれていく。

 尾形のそばにいる幸せがまた明日から続くことが、頭がクラクラするほど嬉しい。
「で、どこ行ってたんだ、今日は」
 嗚咽が止まった彼女が顔を上げると、目の前の尾形は少し拗ねたような表情になった。
「△△で友達と会ってました」
「ふーん」
「遅くなってすみません」
 こんなにもなりふり構わず自分を取り戻そうとした尾形のことを、彼女はもう、どんなことがあっても裏切らないと決心した。何よりも、尾形にこれだけ大切にされる自分のことを、自分がぞんざいに扱ってはいけなかった。

「チョコ、明日まで待ってもらえます?」
「……別に、」
 彼女の肩に回っている尾形の腕に力が入った。
「チョコじゃなくていい」
 彼女の胸が高鳴った。自分を見つめる熱を孕んだ尾形の瞳。厚い手のひらが彼女の頬に添えられる。そこからぶわりと耳まで熱が広がって、細い息が微かに震えた。

 全部、彼に奪われたい。
 委ねるように目を閉じた彼女の唇が、すぐに柔らかな感触に包まれる。触れるだけの優しいキスからは、ビターチョコの、ほのかに苦味のある甘い味がした。何度も何度も唇を啄む、愛しさを語りかけてくるキスに、彼女は身体の芯まで溶けてしまいそうだった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る