第十一話




 電車が通過する轟音が響く架道橋。その下を潜った先に、赤提灯の下がった大衆的な居酒屋が軒を連ねている。
 呑み処キラウシで足を止めた尾形が引き戸を開ける。いつもより少し混み合っている店内から、頭にバンダナを巻いた三白眼の店主と、カウンター奥に座る赤ら顔の中年男がこっちへと向いた。

「おお! 尾形じゃん久しぶりだな」
 常連客である尾形の姿に二人が破顔する。いつもむず痒さを覚えながらも、尾形はこの瞬間が嫌いではなかった。
 だから連れてきた。

 尾形は店へ入っても戸を閉めず振り返った。尾形の後ろから緊張した面持ちで足を踏み入れた女に、二人は不意をつかれたように息を呑む。
 背丈や雰囲気は勿論変わっている。しかし、顔立ちは前世であの旅を共にした彼女と寸分も違わないからだ。

 座敷にいる年配客たちの視線が自然と彼女に集まる。店主がたじろぎながらもカウンター席へ二人を案内すると、尾形の隣に座った彼女は、見慣れないアイヌ語のメニューが貼られた店内を見渡した。
「素敵なお店ですね」
 カウンター奥に並ぶ日本酒に目を輝かせる彼女を尾形がじっと見つめる。昼間の水族館といい、自分の連れていくところに新鮮に喜ぶ彼女に、愛おしさで腹の底が温まるような心地がする。慈しむような優しさをたたえた尾形は、自分を唖然と眺めるキラウシと目が合うと、見られたくない自分を知り合いに見られた時の気恥しさが込み上げた。

 彼女がキラウシに微笑んで頭を下げる。すると突然、横から盛大に鼻を啜る音が聞こえ、尾形は彼女とともに振り向いた。
「よかった! ……よかったなぁ!」
 今夜もだいぶ酔いが回っているのだろう門倉は、感極まったように目を覆って嗚咽している。それに呆れながらも、彼らへの報告も兼ねて彼女を連れてきた尾形は「おかげさまで」と呟いて口元を綻ばせた。
 

***
 

 店を出ると、彼女の火照った頬を夜風が撫でた。肌を刺すような冬の風が、柔らかな心地良い風に変わり始めている。

「ご馳走様でした。お酒もお料理も美味しかったです」
「そりゃ何より」
「店主と門倉さん、いい人でしたね」
「あんなウザイ絡み方されてよくそう言えるな」
「ふふっ」
「……何だよ」
 尾形がバツが悪そうに視線を逸らして髪を撫であげる。自分たちについて興味津々に聞いてくる彼らに対して、彼女は嫌な気持ちにはならなかった。付き合う前から尾形が彼らに自分の話をしていたことが、気恥しくも嬉しかったからだ。

 尾形の隣に並ぶと自然と絡まるようになった指が、彼女に幸せの温度を伝えてくる。
「もう一軒行くか、っていうには少し飲みすぎただろ」
「……そうですね」
「家まで送っていく」
 二人の足は駅へと向かう。飲み屋街を離れると、鉄骨で支えられた高架下には夜の澄んだ静けさが広がっていた。オレンジ色の電灯で照らされる尾形の整った横顔を眺めながら、彼女は尾形と付き合い始めてからのデートを思い返す。

 今日もきっと、自分を家まで送った彼は、甘いキスを残して帰っていくのだろう。関係が変わってからも緩やかに距離を縮めてくる彼は、彼女をどこまでもひたむきに大事にしている。本当の意味で愛し愛されることを、彼女は今までの恋愛で知らなかった。それを最初に教えてくれたのは、尾形の背中を見送っていると涙が滲んでくる、切なくも優しい時間だ。

 彼女が足を止める。二人の腕がぴんと張って、尾形が振り返った。
 電車が近づいてくる音に、早まっていく胸の鼓動が重なる。尾形が手を離して彼女へと向き直った。自分を見つめる穏やかな瞳に何度も口を噤みそうになりながら、早く言わなければ掻き消えてしまうと、言葉を紡いだ。

「今夜、尾形さんとずっと一緒にいたいです」
 直後、電車が線路を踏む音が頭上で響き渡る。轟音に閉じ込められる中、驚きで目を見開く尾形に彼女はすぐに後悔した。
 やはり言うべきではなかった。はしたないと思われただろうかと、羞恥に耐えきれず俯く。すると、彼女の背中に尾形の腕が回ってきて、躊躇いなく彼女を引き寄せた。

 彼女の顔がカッと熱くなった。人通りがないとはいえ、尾形が外でこうして触れてくるとは思わなかったからだ。いつもより熱っぽくて力強い抱擁は、轟音の中でも彼の心音を伝えてくる気がした。
 もっとこの熱に、近くで触れたい。
 口付けから先に進もうとしない尾形も、心の内では自分と同じ想いだったと、首元に顔を埋めた彼の熱い吐息が教えてくる。

 電車が過ぎ去り、辺りにまた静けさが凪のように広がっていく。
 そこはたしかに、二人だけの世界だった。
「俺の家に来るか?」
 耳元へ囁かれた声に、彼女はその胸の中で頷いた。
 

 ***

 
 高級住宅街の一つとして知られる街のマンションは、大理石の敷かれたエントランスから音もなく昇っていくエレベーターまで、彼女の緊張を一層せり上げた。

 八階で降り、廊下を歩いて三つ目の部屋で止まる。鍵を開けた尾形に玄関へ通されると、すぐに尾形の香りと同じムスクの香りが鼻を掠めた。
「お邪魔します」
 今さら身が縮むような思いをしながら靴を脱ぎ、尾形のあとをついてリビングへ入る。自分の部屋よりずっと広いリビングに、彼女は思わずため息が漏れた。大きな窓が、煌びやかな夜景を写真のように縁取っていたからだ。尾形に手を引かれて窓の前まで連れて行かれる。明かりをつけない真っ暗な部屋からは、家具が眠るしんとした息づきだけが聞こえていた。

 彼方まで広がる光の粒を眺めていると、尾形の腕がそっと肩に回った。タクシーの中で、エレベーターの中で、お互い黙ったまま指を絡め合っていた彼に、彼女も身を任せるように彼の肩へ頭を乗せる。

「尾形さん」
「ん?」
「好き」
 暗闇に音を離した唇が弧を描く。他の言葉で想いを伝え合ってきた彼女たちは、今さらその言葉を告げることはなかった。そこに彼女が不安を覚えていたわけではない。ただ、あの抱擁を受けてしまった今夜、どうしても口にせずにはいられなかった。

 返事は返ってこなかった。振り向いた尾形が、荒々しい口付けを彼女に落としたからだ。今までのキスが戯れだったかのような、全てを貪るキス。彼女の両肩を掴み直して雁字搦めに抱き締めた尾形は、受け止めることで精一杯の彼女の口内にお構いなく舌を割り入れて、彼女の舌に吸いついた。その刺激に腰から力が抜けて、彼女は尾形にしがみつくしかない。それでも彼に求められていることの悦びで、身体の芯は熱を持っていく。息ができないのに、唇の端から漏れ出てしまうあえかな声が尾形を煽って、口内で厚い舌が生き物のように蠢いた。彼女の背中を窓に押しつけた尾形は、何度も角度を変えて彼女の唇を貪る。上顎を舌でなぞられると脳に甘い痺れが走って、下腹部が刺激を求めるように疼く。「好き」のかわりに返ってきた余裕のない口づけは、不器用な彼の愛を雄弁に語っていた。

 唇が離れる。鼻と鼻が触れ合うほどの距離で、彼女は肌が粟立った。暗闇の中で、情欲を灯した瞳が自分を見つめていたからだ。
 興奮に息を荒らげる尾形は、彼女が見たことのない肉食獣のような獰猛さを帯びている。

「本当はもう少し、待つつもりだったんだぞ」
 熱に濡れた声でそう紡いだ尾形は、大きな手のひらで彼女の頬を包んだ。彼女の胸が締めつけられる。「好き」よりも彼らしい言葉に、とめどない愛おしさが込み上げた。

 互いに愛を示した後、二人はベッドの上で激しく求め合った。涙を流しながら何度も達する彼女を、尾形は彼女の名前を呼びながら夢中で掻き抱いていた。
 

 ***

 
 遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
 瞼を開けた彼女は、肘をついて自分の寝顔を眺める尾形と目が合った。カーテンの隙間から白い光が差す部屋には、二人が求め合った熱はすっかり霧散して、擽ったくなるような柔らかな空気が流れている。

「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 互いの掠れた声に、彼女から笑みがこぼれた。眦を下げた尾形が、骨ばった指で彼女の髪を梳く。その気持ちよさに目を細めながら、まだうつらうつらとした意識の中で、彼に甘やかされる幸せを享受していた。

「いつ起きました?」
「今」
「ほんとですか?」
 指がゆっくりと髪から頬へ、唇へと降りてくる。下唇を親指が撫でると、昨日の荒々しいキスを思い出した彼女から吐息が漏れた。覚醒していく頭の中に、昨日の記憶が次々となだれ込んで、彼女の頬を染める。

 布団を引き上げて顔を隠そうとした。しかし、全て察したかのような尾形がその手を阻んだかと思えば、間に割り込むように彼女の上へ跨る。
「おいおい、何を今さら恥じらうことがあるよ」
 不敵に見下ろす尾形は、そのまま耳に唇を寄せた。不埒な舌が、彼女の耳の縁を這って中へと入っていく。
「ああっ、そ、それダメ、……おがたさ」
「好きだもんな、これ」
 ねっとりとした甘い声で意地悪く囁く尾形は、彼女の手首を縫い止めて、ふやけた声を引き出そうと彼女を嬲る。脳が蕩けて、昨夜彼を受け止めた下半身が再び熱を帯びた。尾形の下で自ずと膝と膝を擦り合わせてしまう。

「ほんとに、ダメですってば! ……ん」
 尾形の唇が首筋へと降りた時。彼女の強い語気でようやく動きを止めた尾形は、そのまま彼女の首筋に顔を埋めて大人しくなった。
「すまん、怒ったか」
「怒っては、ないですけど」
「昨日、お前が……」
 途切れた言葉を聞き返すと、「何でもない」と言った尾形は彼女から降りて、今度は自分へと彼女を抱き寄せた。さえずりのような口づけを何度か交わした後、彼女は尾形の胸に頬を寄せた。温かい腕の中で微睡みに揺蕩う彼女は、今度二人で朝を迎えるときは、自分が尾形の寝顔を見つめていたいと思った。

 どのくらいそうしていたのか、カーテンから差し込む光がはっきりと床を明るくするようになった頃、尾形がベッドから起き上がった。
「コーヒー淹れてくる」
 自分も起き上がろうとした彼女は、頭を撫でる尾形の手に甘えて再びシーツに沈んだ。尾形が部屋を出た後、彼女は彼の香りに包まれながら、一夜を共にした喜びを噛み締める。昨夜は暗闇で殆ど見えなかった部屋の中。モノトーンを基調とした彼のセンスの良さを匂わせる空間は、ここでの彼の日常を想像させた。

 リビングからドリップの音が聞こえてくる。温かいのに驚くほど軽い掛布団を上げた彼女は、ようやくベッドから起き上がった。眠りに落ちる前に尾形が貸してくれた彼のスウェットが、彼女の太腿まで覆い隠している。

 ふと、ベッドとは反対側の壁に寄せられた彼のデスクに、彼女の視線が向いた。
 ノートパソコンとスタンドライトが置かれたデスクの上に、写真のような小さな紙が置いてある。人の部屋を詮索するようで良くないと思いながらも彼女が近づいてみると、そこに写っているのは自分と尾形だった。

 尾形の誕生日を祝ったときの写真だ。アニバーサリープレートに手を添えて微笑む彼女と、照れて表情を硬くしている尾形。随分前のことのように思えるあの日が、まだ一月半しか経っていないことが信じられない。こうして目に届くところに彼が置いているのが嬉しくて、彼女は思わず手に取った。するとその後ろに、写真よりも小さな紙が重ねられていたらしく、彼女が写真を持ち上げたら少し浮き上がってデスクに落ちた。

 また写真だった。しかし自分が手にしているものとは違う、相当昔に撮られたのだろう白黒写真だ。
 着物姿で椅子に座り微笑む女。写真館などで撮られたものだろう。色褪せがないため、その顔がはっきりと見て取れる。二人の写真を置いて手にした彼女はその写真をじっと自分の顔へと近づける。

 自分だった。

 勿論こんな写真に映っているのが自分のわけがない。しかしそれらしい写真を撮るために、自分が着物を着て髪を結って撮ったと言われてもおかしくないほど、そこに映る女は自分と瓜二つだった。

 手が震えて、胸にぞわりとした不快感が込み上げる。こんなものをどうして尾形が持っているのか。まさかこれが、尾形の言っていた――。

 常識では考えられない方へ思考が結びついた時。ドアがガチャリと音を立てて開いて、彼女は勢いよく振り返った。
 彼女を呼びに来たのだろう。真白く、血の気が引いた顔をした彼女が手にしているものが何かに気づいた尾形は、彼女の耳に届くほど、はっと息を呑んだ。慈しむような目をしていた先ほどとはまるで違う、強ばった顔は、しまったという感情をありありと浮かべている。

 互いを見つめたまま二人が言葉を失う。時を切り取った写真の中で、その女だけが柔らかく微笑んでいた。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る