第十二話



 宇佐美が尾形を駅で見かけるのは数ヶ月ぶりだった。
 ホームの階段を降りた群衆が他のホームから降りてきた群衆と合流し、大きな波となって改札へと押し寄せていく。都会の象徴でもある通勤ラッシュの混雑に今日もうんざりしながら会社へと向かっていた宇佐美は、その中に見慣れた後ろ姿が紛れているのを見逃さなかった。改札を抜け、少し人がバラけたところで距離を詰める。尾形が年明けから通勤を数十分早めた理由である彼女は、隣にいない。

 決算期に向けて売上を積むことを求められる年度末の多忙もあり、最近は社内でも二人は碌な会話を交わしていなかった。出口を抜けたところで尾形に追いついた宇佐美は、少し驚かせてやろうと強くその肩を叩く。すると、尾形はまるで誰かを待って神経を張り巡らせていたかのように、勢いよく肩を回した。
 その余裕のない形相に、宇佐美はかえって自分がぎょっとした。宇佐美と目の合った尾形が露骨に肩を落とす。そして前へ向き直り歩き始めた後ろ姿は、どこか愁いを帯びている。
 誰と期待したのかなど、明らかだった。

 呆気に取られた宇佐美は、再び尾形との距離を詰めて隣に並ぶと、ニヤつきながら彼を茶化し始めた。
「苗字さんだと思ったんだろ今」
「……」
「お前どんだけだよ。っていうか今も一緒に通勤してるんじゃないの?」
 先月二人で飲みに行った際、無事に彼女と恋人の仲に収まったことをなんてことないように告げた尾形は、宇佐美が根掘り葉掘り追及するにつれ顔を赤らめていった。

 宇佐美が以前、尾形に「応援する」と言ったのは嘘ではない。職場や居酒屋でアプローチしてくる女を冷たくあしらってきた尾形が、生まれ変わってなおそこまで執着する女とどうなるのかという興味本位がおよそだが。

 横断歩道の前で二人の足が止まる。澄んだ空の下のスクランブル交差点には、都会の雑多なざわめきが朝から響いていた。
「まさかまた何かあったの?」
 宇佐美へ向こうとはしない虚ろな目が、彼の鋭い問いで視線を落としていく。二人が付き合う前に一騒動あったことは聞いていた。その女が再び絡んできたのかと、宇佐美の眉間に皺が寄る。

 尾形の口から、重苦しいため息が漏れた。
「しばらく会ってない」
 ぼそりと呟いた尾形の言葉に、目鼻立ちの整った顔がぽかんと面食らった。
「え、何それ。喧嘩したってこと?」
 しばらくとはどのくらいか分からないが、一月前は尾形がまた彼女が作った弁当を食べていたことが頭に過ぎる。付き合い始めの初々しい期間を謳歌しているものと思っていた。

「一人にしてくれと言われた」
 尾形の絶望が、都会の喧騒の中でも静かに宇佐美へと伝わってくる。目が眩んだように手で顔を覆う尾形が、相当参っていることだけは確かだった。
 

 ***

 
 十九時過ぎに仕事を終えると、女子更衣室では週末行われる送別会について後輩が二次会の出欠を取っていた。人事異動が発表された先週から、年度末に向けて退勤時間が伸びている。週の半ばにしてぐったりとした疲労感を覚えていたが、今はこの忙しさで気が紛れていた。

「いつも可愛いバレッタつけてるよね、苗字さん」
 私服に薄手のトレンチコートを羽織ると、隣のロッカーで身支度を整える先輩が彼女に言った。産休に入る職員の代わりに先月異動してきたベテランの職員は、彼女に風当たりの強い女子職員のリーダーに臆することなく彼女に構ってくる。自分に矛先が変わることを恐れて彼女に極力関わらなかった人たちの態度が和らいできたこともあり、彼女は感謝していた。

「ありがとうございます。好きで何個も持っているんです」
「今日のも可愛いけど、前つけてたやつすごい可愛かったよね。花がモチーフのやつ」
「……ありがとうございます」
 胸がチクリと痛んだ。お気に入りのバレッタは、しばらく引き出しに閉まったままになっている。

 ロッカーを閉めるとき、扉裏の鏡に映る自分と目が合ってしまった。彼女はあの日から、鏡が怖い。否応なく、自分に瓜二つの女を思い出してしまうからだ。
 尾形が生まれ変わってなお、忘れられなかった女を。
 
「あの写真、私に関係あるんですよね」
 尾形の家で一夜を過した翌朝。ゆっくりと沈み込む皮ソファに座った彼女は、一口飲んだコーヒーをテーブルに置くと、隣に座る尾形にそう口火を切った。

 尾形は黙ったままだった。状況的に誤魔化すこともできなかったのだろう。彼はあまり嘘が上手くないことを彼女は知っている。寝室のドアを開けたときの尾形の強ばった顔が、彼がこの写真を彼女に見られてはいけなかったことを、本人に一瞬で悟らせてしまっていた。

 あんな写真に映る女が尾形と繋がりがあるとは考えられないが、自分とあの女に繋がりがあるのだとしたら。駅のホームで、彼女の名前を口にして詰め寄ってきた尾形と、全く彼のことが思い出せない彼女。ずっと腑に落ちなかった尾形の言う“過去”について、常識では考えられない憶測が、じわりじわりと説得力を持って、彼女の中で確信へと変わっていく。

 硬い沈黙が広がる部屋の中で、彼女の息が震えた。
「今私が考えてること、……笑われちゃいそうなほど、現実的にありえないのに、そう考えたら今までのことが全部、辻褄が合うんです」
「名前」
 尾形が膝の上の彼女の手を握ったが、彼女は止めなかった。
「だから、話してほしいです。こうなったまま、何事もなかったかのように尾形さんと付き合っていくこと、……私にはできません」

 知るのが怖い。尾形との幸せな関係が、知ることで変わってしまうのが怖い。しかし、彼に秘密があることを知ってなお、知らないままでいる方が怖かった。

「そうだよな」
 心を決めたように彼女を真っ直ぐ見据えた尾形は、一つ一つ、順を追って話し始めた。

 遠い昔、前世で自分は、地位の高い将校の妾の息子だったこと。
 二十歳になる前に陸軍に入隊し、戦地へ赴いたこと。
 戦後、自分の所属する師団がアイヌ人の隠した金塊を巡る争奪戦に参加したこと。
 自分は目的のために師団を背き、違う陣営へ参入したこと。
 そこで彼女と出会ったこと。
 自分たちは恋仲のような関係になったが、彼女に縁談が来て札幌で別れたこと。
 その後すぐに、自分は戦いで死んだこと。

 尾形はゆっくりと、言葉を選びながら話しているようだった。まだ伏せていることがあるような気がしたが、彼女は遮ることも聞き返すこともなく、耐えるように口を固く結んで聞いていた。

 九歳の時に高熱に魘される中で記憶を取り戻した尾形の周りには、前世から縁のある人間が父母をはじめに幾人もいる。そしてずっと彼女を忘れられなかった尾形は、昨年の十二月、生まれ変わった彼女と偶然の再会を遂げた。

 一通り話し終えた尾形の目は、彼女が混乱していないか反応を伺っているようだった。彼女の頭の中は異様なほど冷静だった。今まで不自然だと思っていたことが、ストンと腑に落ちていったからかもしれない。

 あまりにも冷静で、尾形への冷たい失望が覆い被さってくる。
「尾形さん」
 彼女の何かを見放したような冷めた顔に、尾形の瞳が恐怖に染まった。こんなにも自分を失うことを恐れる尾形の想いを、もう真っ直ぐに受け取れないのだ。そう思うと、腹の底にインクを垂らされたような黒い感情が溜まっていく。

「記憶のない私には、自分がその人の生まれ変わりだという認識はありません。どれだけ顔が似ていても、尾形さんから映る私がその人と同じでも……、私が思い出せない限り、その人は別の人だと思っています」

 彼が生まれ変わっても忘れられず、再会を喜んだのは、自分ではない。
 彼は自分を見ていたわけではなかった。自分を通して、前世で愛した彼女≠見つめていた。
 それが分かってしまったことが、彼女にとってはショックだった。
「少し、一人にしてください。」
 


 あの日から三週間が経とうとしていた。その間、お互い連絡さえ一度も取り合っていない。
 支店を出て駅へと歩いていく。生ぬるさを覚えるほどの柔らかな風が街を暖めていた。週末には東京も桜が開花するというニュースを思い出す。しかし、待ち遠しかった春が近づいてこようと、彼女の心には暗い影が落ちたままだ。

 終わらせたいわけではない。しかし、これから尾形とどう向き合っていけばいいのか、彼女には分からなかった。
「苗字さん?」
 後ろから上品な男の声で名前を呼ばれた。尾形のはずがないのに、ここが毎朝彼との分かれ道だったためか、彼女はびくりとして振り向く。

「……宇佐美さん」
「久しぶりだね」
 街灯に照らされた男が愛想良く微笑む。一度会ったことがある、尾形の同僚だった。
 

 ***

 
「ごめんね、急に呼び止めちゃって」
 店員への注文が済んだ後、彼女の向かいに座る宇佐美が申し訳なさそうに言った。尾形のことで話があるという宇佐美の頼みを断ることも出来ず、彼女は二人で韓国料理店の個室へと入っていた。従来の韓国料理のイメージから離れたシックで落ち着いた店内には、独特な香辛料の香りが立ち込めている。

「いえ。あの、このこと尾形さんには」
「まさか。君と二人で会うなんて言ったら掴みかかってくるよ」
「……そうですか」
 彼女が弱々しく俯く。尾形と旧知の仲の男とはいえ、尾形の知らないところで他の男と二人で会っていることが、彼女を罪悪感で居心地悪くさせていた。

「苗字さんは会社の送別会いつ?」
「金曜日です」
「うちと同じだ。何人くらい異動するの?」
 当たり障りのない話から始まった。以前食事したときにも、自分に気を使って宇佐美が話しやすい話題を広げてくれたことを彼女は思い出す。自分たちの会話が盛り上がるにつれて尾形が不貞腐れた表情になったのが、あのときはなぜかは分からなかった。

 水の入ったグラスから、水滴が滑り落ちていく。
「で、本題だけどさ」
 会話が途切れたところで宇佐美が切り出すと、彼女の表情が引きつった。
「聞いたんだってね。百之助から、昔のこと」
「……はい」
 彼女は目の前の男が、尾形と前世からの縁であることを聞いている。 

「驚いたでしょ。漫画みたいな話だし信じられないんじゃない?」
「いえ。尾形さんのことを思い出せないの、ずっとおかしいと思ってましたから」
「柔軟だね、苗字さんは。じゃあしばらく百之助に会ってないのって、まだ何か納得いかないことがあるの?」
 彼女がテーブルの下で手のひらを固く握りしめる。

 尾形は悪くない。彼女も頭では分かっている。自分が話せと言ったくせに、全て正直に話してくれた尾形から距離を取った自分の方が、よほど身勝手だ。

 頬杖をついた宇佐美が、形のいい唇に笑みを浮かべた。
「二人のことに口挟むわけじゃないけどさ。君にずっと会っていない百之助、ウケるくらい意気消沈してるんだ。あいつ口下手だから、苗字さんに上手く伝わってないんじゃないかと思って」
「……私はただ、尾形さんが記憶のない私にがっかりしたんだと思ったら、申し訳なくて」
「だから一人にしてって言ったの?」
「……」
「怒ってるんでしょ。百之助に」
 鋭い言葉が彼女の胸を一突きに刺す。言葉を失った彼女を見つめる怜悧な瞳に、先程までの優しさはない。

「昔から自分を知ってるっていう怪しい男が近づいてきて、その気にさせることばっかしてきてさ。晴れて恋人になったかと思ったら、その昔の自分って大昔に生きてた女で私じゃないじゃんって。記憶のない君からしたら押しつけも甚だしいよね」
 この数週間の葛藤をぺらぺらと言葉にされていくにつれ、自分の醜い感情が彼には見透かされているのだろう羞恥が、彼女の顔を熱くする。感じのいい人だと思っていた。しかし、敢えてデリカシーのない物言いをしているのだろう宇佐美に、彼女は自分の懐に土足で踏み入られたような不快感を抱いた。

「でもそんなに気にすること? きっかけはたしかに前世の君かもしれないけど、今百之助が付き合ってるのは苗字さんじゃん」
「宇佐美さんには前世の記憶があるんですよね?」
「まあね。百之助との思い出は碌なもんじゃないけど」
「じゃあ私の気持ちは分からないと思います」
「そうかもね」
 彼女が悔しさで目尻を上げて言い返すと、頬杖を降ろした宇佐美はグラスを手元に寄せて水を口につけた。

 尾形は悪くない。前世で自分が幸せにできなかった女を、生まれ変わり数十年経とうと忘れられなかっただけの、一途な男なのだ。
 その一途さが、今の彼女には苦しかった。
 ずっと彼に想われ続けたその女が、妬ましかった。
 記憶がないことにがっかりされて、今も記憶が戻ることを心の内で望まれているのだろう自分に、もう彼の隣で笑える自信がない。

「でも、一つ言えるのはさ」
 宇佐美が呆れたようなため息をつく。
 なぜ彼らは記憶を取り戻して、自分には記憶が戻らないのだろう。
 尾形にも記憶がなければ――。そこまで考えて、彼女の心にまた虚しさが沈んでいく。前世の記憶ゆえに執着されなければ、記憶がない尾形とどこかで出会ったとして、尾形はきっと、自分を好きにはならない。

「“遠い昔”から百之助を知ってる僕から見てて、あいつが今も、前世の君に執着してるようには思えないけどね」
 宇佐美が言い終えたところで個室の扉が開く。熱々と煮え滾る赤いスープを前にしても、彼女はスプーンを取る気になれなかった。

 
 ***

 
 今度こそ終わりなのかもしれない。
 彼女の香りがとうに消えたベッドに突っ伏しながら、尾形は今日も彼女から連絡が来なかったことに絶望を新たにしていた。

 忙しない一週間を終え、億劫でしかない会社の飲み会に参加し、二次会を断って帰宅したが、解放感などない。ぽっかりと穴の空いたがらんどうの心は、ひたすらに彼女を求め続けている。シーツの波に、あの日の甘い嬌声や、快感で蕩けた顔が浮かんでは気が狂いそうになっていた。

『少し、一人にしてください』
 彼女の言葉が頭に反芻しては胸が掻き毟られる。傷ついていた。以前の騒動の時のような、激しい怒りと悲しみではない。静かに傷ついた彼女は、ゆっくりと、しかし揺るぎない強さで腕を伸ばして尾形から距離を取った。何も反論できなかった。記憶のない彼女に過去の彼女を重ねたエゴの、ツケが回って来たのだと思った。

 脱ぎ捨てられたスーツや、ペットボトルのゴミが転がり荒れ果てた寝室。デスクの上の写真には、あの日から触れられずにいる。
 二枚を重ねていたことに意味はなかった。付き合い始める頃からはずっと、尾形はデスクに座ると二人で撮った写真ばかりを眺めていたのだ。

 初めの頃こそ、尾形は目の前の彼女の中に過去の彼女を見ていた。ふとした瞬間の、過去の彼女と同じ笑みや仕草に安堵した。しかし、日に日に距離が縮まっていくにつれて、過去の彼女の面影は薄れていき、今の彼女に愛おしさを募らせていった。記憶のない自分が彼女に出会っても、きっとまた恋に落ちるのだろう。そう思うほど、目の前の彼女は尾形の日々に光を灯していた。

 終わりにするわけにはいかない。しかし、“会いたい”のたった一言を打とうとするたび、彼女の静かな拒絶を思い出して指が止まる。
 灯りの消えた暗闇の中で、尾形の大きな瞳から涙が一筋流れ落ちていく。彼が記憶を戻してから、初めて流す涙だ。

 冷たい静寂に包まれた部屋の中で、短い振動音が響いた。 




冷たいラブロマンスを抱いて眠る