嘘つきの恋の終わり



【今日家行く】
 OKのスタンプだけ押して帰路についた。だいぶ日が伸びてきていることを感じさせる薄明の空の下、ショーウィンドウがハートに彩られた街中は甘い匂いを漂わせている。平日だからそこまで賑わうことはないと思っていたけど、この一大イベントに駆ける女の子や、恋人と幸せな時間を過ごすのだろう女の子の煌めきがやっぱり街を華やがせていて、手を繋いで前を歩く高校生カップルが眩しい。

 私にチョコレートを渡す相手はいない。くれる相手はいるけど。正確に言えば、自分が女の子たちからもらってきたチョコレートを押し付けてくる相手が。
 
 大学時代からの腐れ縁の尾形百之助は、不定期に私の部屋に来ては我が物顔でくつろいでいく。大した娯楽があるわけでもない1Kのソファに寝転んで、とりとめのない雑談をして、慎ましい食事を一緒に食べる。でも何もない。大学時代から女にだらしない尾形だけど、私は下着姿すら見せたことがないのだから。私に彼氏ができてからはさすがに来なくなった尾形は、昨年クリスマス前に別れたことを伝えるや否や「元気出せよ」なんて絶対思ってもいないことを言って(長い付き合いの中でも尾形のあんな晴れやかな笑顔を見たことがなかった)また私の部屋にあがり込むようになった。

 そんな男が毎年二月十四日だけは律儀に手土産を持って訪れる。紙袋に放り込まれた色とりどりのラッピングに包まれたチョコレート。高級ブランドに、市販品と遜色ない手作り。尾形に食べてもらうはずだった女の子たちの煌めきは、甘いものが嫌いな本人が一口も口にすることなく私に手渡される。女の子たちの恋い慕う気持ちを無碍にするなとLINEで窘めても、十分後にはアパートの前に来て私に押し付ける。まあ彼がちゃんと断らないのも、甘いものが大好きな私が結局もったいない精神で受け取るからだろう。

 もちろん私が尾形にチョコレートをあげたことはない。多分私が頬を染めて上目遣いでチョコレートを渡そうものなら、尾形はその日を最後に私の部屋へ来なくなる。そういう男なのだ。チョコレートをくれた人たちの誰かと付き合うことを考えないのか聞いても「めんどくせぇ」と宣う男だから、近い将来に以前関係を持った人から刺されても私は驚かない。

 アパートに着くと、暖房を入れて冷蔵庫にしまっていた鍋に火を入れた。会社の忘年会で当たったからやると言って尾形からもらった加湿器の稼働音が静かに響く。元カレの痕跡は、再び尾形が出入りするようになるとその痕跡にあっけなく塗り替えられていた。

 少し部屋の空気がぬるまってきたところでインターホンが鳴った。
「開いてるよー」
 声をかけるとすぐにドアが開く。入ってきた尾形へ振り向いた私は目を瞬いた。ダウンジャケットを着た尾形の手には毎年おなじみの紙袋がない。いつもふてぶてしくあがりこむくせに、どこかよそよそしさを纏って立ったまま私を見上げている。

「仕事早かったんだね。カレー食べる?」
「ああ」
「ご飯チンするから待ってて」
 平静を装いながらも胸はざわめいて、ソファへ向かう尾形を見ないで準備していく。でも手元はぎこちなくて無駄な動きばかりしてしまう。尾形の視線で背中が痛い。加湿器の湯気が柔らかく伸びる部屋に流れる、気まずい静寂。お互いの出方を伺っているとき特有の硬い沈黙が流れている。

 尾形がこの部屋へ来るようになったのはバレンタインがきっかけのようなものだった。大学卒業後は自然と距離が開きつつあった私たちだったけど、年末のゼミの同窓会で顔を合わせた時、私のアパートが尾形の会社から一駅だと知った。そしてバレンタイン当日「お前甘いもの好きだったよな?」と卒業後に初めて尾形から電話が来たときは間抜けな声が出た。

 こんな関係がずっと続くとは思っていない。どちらかに恋人ができればまた尾形は来なくなって、この部屋が尾形の中継地だった痕跡は次第に薄れていく。ここから甘い関係になるには、私たちは近くにいすぎてしまった。

「ねえそういえば聞いてよ。今日取引先との打ち合わせだったんだけどさ、」
「今年は全部断った」
 被さった言葉の意味は聞き返すまでもなかった。

 鍋から焦げた匂いがして慌ててコンロを切って蓋を開ける。煮詰め過ぎた。お玉で鍋底を掬うと黒い表面が見えて、今日の洗い物を憂鬱にさせる。

「そっかー、ちょっと残念。でもまあそれがいいよ。くれる人たちにも悪いし」
「何でか分からないのか?」
「なんで。何でか?ああ分かった!痩せろってことでしょ?心配されなくてもちゃんと続けてるから。今日だってお昼」
「本当に分からないのか?」
 頭の上で声が聞こえたから驚いて振り向いた。いつの間にかすぐに後ろに来ていた尾形と向き合う体勢になってしまって、逃げることを阻むように手首が掴まれる。

 決して私と男女の仲になろうとしない尾形にこんなふうに見つめられたことはない。それでも私の胸に黒くこびり付いた尾形への執着は、恋人ができても落ちてくれることはなかった。
「泣くなよ」
「泣いてない」
 いつになく優しい声色は、嘘つきのメッキを剥がしていく。

 言えるわけがなかった。
 毎年尾形が帰ったあと、貰ったチョコレートは全部捨てていること。
 好きだったチョコレートがどんどん嫌いになっていくこと。
 大学の卒業前に、私も尾形にチョコレートを渡そうとしたこと。
 でもそれを悟らせたら尾形にもう会えなくなってしまうから。他の女からのチョコを食べる図太い女を演じて、女の子たちの想いが放り込まれた紙袋の中に自分の想いも捨ててきたのに。涙で濡れたひどいはずの顔は、今日までの嘘と一緒に尾形の腕の中に包まれてしまった。

「私のチョコ、欲しいの?」
「お前のだけが欲しい。」
「何で今さら」
「お前に、男ができたとき」
 あの時はようやく幸せになれると思った。でも尾形がぴたりと来なくなった寂しさを新しい恋で埋めることはできなくて、彼氏も私の心が自分に向いていないことに気づいて、結局上手くいかなかった。

「そいつにはやるんだと思ったら、嫌だったから」
「……ばかじゃないの」
 子供っぽい尾形が可笑しくて吹き出した。間違った始め方をしてしまった私たちは、近すぎるのに遠くに離れていた。
 でも最後には、尾形から近づいてきてくれた。

 尾形が私に対して態度が変わったわけではない。大学時代からずっと同じ。きっと尾形自身ですら気づいていないところで、私を大事に想ってくれていた。
「で、くれんのか?」
「今から一緒に買いに行こうか。」
 尾形が食べれる甘さ控えめのものにしよう。ずっと渡せなかった愛の形、しっかり受け取ってよね。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る