女性社員Aの証言




 手続きの多い来客応対が終わった時には、他の女性社員は休憩から戻っていた。「あと書類見ておくからゆっくり行ってきなー」という先輩に簡単な引き継ぎをして、デスクの上の水筒を手に取る。同僚たちと談笑する休憩時間も楽しいけど、ご飯を食べた後に小説や漫画に没入できる一人の休憩時間の方が実は好きだ。密やかな楽しみを握りしめながら営業室のドアへ向かう。すると、後ろから私を呼び止める声がした。

「これから休憩か?」
 月島課長だった。私の推し上司。ワイシャツを捲りあげた腕が眩しい。
「尾形係長が上にいたら、2時からの会議を30分遅れらせると伝えてくれないか」
 課長の口にした名前にわずかな緊張感が走ったけど、笑みを作って返事をした。今、休憩室に尾形係長がいるのか。この時間だとおそらく二人きりになってしまうことを考えると、階段を昇る足が重くなる。

 女性社員の間で人気の尾形係長が私は正直苦手だ。無愛想でぶっきらぼうな物言いはちょっとしたやり取りの中でも私を怯ませてきて、尾形係長に何か話しかけなければいけない時には深呼吸してから彼のところへ向かうのが癖になっていた。後輩が誉めそやしてるあの見た目も怖いし。でも結婚してるんだよね。奥さんどんな人なんだろ。

 昼休みは人が行き交う二階の廊下はもう静かだ。休憩室の扉を開ける前に大きく一息つこうとした。
「ははっ」
 ドアの向こうから笑い声が聞こえてきた。他に誰かいるのだろうか。そもそも尾形係長はいないのだろうか。仕事はおろか飲み会の時ですら、尾形係長が笑うところなんて見たことない。気まずい時間を回避できると思った私は柔らかいため息をついてドアを開けた。

 お弁当とかカップ麺とか、色んな食べ物が混ざりあったのだろう匂いが流れてきた。丸テーブルと椅子がいくつも設置されたそこにはやっぱり尾形係長しかいない。椅子を引いて足を組み、スマホを見ていた尾形係長と目が合う数コンマ前。私は見たことのない彼の表情にどきりとしてしまった。口元が嬉しそうに緩んでいて、今笑い声をこぼしたのはたしかにこの人なんだと分かると驚きに胸を突かれる。尾形係長は突然私が入ってきたことに少し慌てた様子で、黒目をきゅっと細くしてスマホの上の指を動かした。

「いま月島課長から、14時からの会議は30分遅らせて始めると伝言がありました」
「そうか、分かった」
 足を組み替えて目の前のコーヒーに口をつける尾形係長は明らかに平静を装っている。数秒、言葉を続けていい猶予のような沈黙が流れたけど、私に気の利いたことを言えるわけがなかった。尾形さんの笑顔を見なかったことにするしかない。なんで私が恥ずかしくなってるんだろう。

 電子レンジの稼働音が休憩室に静かに響く中、私はやっぱり気まずさを噛み締めながら中で温められるお弁当を見つめていた。男性社員だと外へ食べに行く人も多いのに尾形さんは毎日お弁当なんだと、後輩が言っていたのを思い出す。机の上の黒のランチバック。尾形係長を極力遠ざけてきた私は、彼が家庭を持った人なんだと初めて実感した。

 聞き間違いではなかったはずの歌のワンフレーズが、頭の中で跳ねる。尾形さんがスマホのボタンを連打する直前聞こえてきた、子供でも覚えやすい、耳に残るメロディ。

「さっきのって、Eテレの番組の歌ですよね」
 しまったと思ったが時すでに遅し。私の方へ向いた尾形さんが大きな目をさらに見開く。唐突なの私の言葉を処理するのに時間を要しているようだったけど、私がいつも怯えている無愛想さや冷たい雰囲気はそこになかった。

「知ってるのか」
「甥っ子が好きで、実家で集まる時いつも観てるので」
 その時は甥っ子を膝に乗せて一緒に観ている。キャラクターやスタジオの色彩や踊りで子供を惹きつける番組に、大人ながら感心させられたり、自分の知っている歌に懐かしんだりしながら楽しんでいた。

「ちょっと来い」
 仕事の時のように呼びつけられて、電子レンジをそのままに尾形係長の元へ行く。立ち止まったところでも手招きされたからさらに一歩近づいたら、彼の手にするスマホの画面が見えた。

 これも知っている。子どもの写真を載せて家族で共有できるアプリだ。写っているのは女の子だ。フリルのついた赤のジャンパースカートが似合う、おめめパッチリの女の子。
「娘さんですか?かわいいですね」
「先月二歳になった。」

 一番上の動画をタップすると、おもちゃに囲まれた自宅らしき場所で女の子が歌い始めた。番組の最後に流れるあの歌だ。歌う喜びを知ったばかりの楽しそうな顔。それでいてまだ抑揚を上手く取れていない拙さがかわいい。
「すごくないか?まだ二歳になったばっかだぞ。」
「たしかに!よく歌詞覚えてますね。」
 目の前にいるのは本当に尾形係長なのだろうか。こういうのって親バカって言うんじゃなかったっけ。
「でも後半にいくにつれ歌詞が怪しくなるんだよな」
 覚えていないフレーズは急に喃語のようになって、また覚えているフレーズになると自信満々に大きな声で歌うのが子供らしくて、私も思わず笑ってしまった。

「かわいい……。尾形係長に少し似てます?」
「周りからは嫁に似てるって言われるけどな」
「なんだか尾形係長のイメージ変わりました」
「どういう意味だ」
「お子さんいるのは知ってましたけど、女の子のパパってイメージから遠かったので」
 小さな手を叩いてリズムを取る娘を愛おしそうに見つめる尾形係長。こんな一面があることを、会社の人はみんな知らない。

「これも見てくれ」
 もうとっくに電子レンジは止まっていることも忘れて見入る私に気を良くしたのか、尾形係長は違う動画を再生し始めた。きらきら星のメロディのアルファベットの歌だ。歌が好きなのだろうか。こっちは自信のあるフレーズになると、叫ぶような声量に変わる。

 女の子もかわいいな。子供を産むなんてまだ考えられないけど、こんなの見たら夢が膨らんでしまう。「Z」まで歌い終わり、私が「すごい!全部言えた。」と声をあげ、尾形さんが得意げに口角を上げた時。画面の上にトークアプリの通知が表示された。

【尾形名前 私も〇〇もパパが大好きだよ♡ 午後のお仕事も頑張っ……】
 突如、画面が真っ黒になった。唖然とする私に構うことなく、尾形係長はスーツのポケットにスマートフォンをしまう。
「まずい、もうこんな時間か」
 わざとらしく壁時計を見遣り髪を撫で上げた尾形係長は、私が休憩室に入ってきた時よりも動揺を隠せていない。

「飯まだなのにすまなかったな」
「いえ、見せていただきありがとうございました」
「……他の奴らに言うなよ」
 
 黒のランチバックを持って尾形係長がそそくさと休憩室をあとにする。一人になった私は、今まで勝手に怯えていた尾形係長と、この五分で私だけが知った尾形係長を結びつけるのに精一杯だった。でもこれからは、あまり気を張らずに尾形係長へ書類を持って行けると思う。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る