第二話



 線路沿いの飲み屋街を彩るネオンは、冬の夜の冷気の中で煌々と輝いている。
 午後に止んだ雪は、幸い街を薄らと白く染めただけで電車の運行ダイヤを乱すことはなかった。神田駅から徒歩五分。仕事終わりの一杯を求めるサラリーマンが行き交う通りを足早に歩いてきた尾形は、赤提灯のぶら下がった趣のある店の前で止まった。

《呑み処キラウシ》
 酔っ払いの声が外まで漏れてきている。もう一人の目当ての人物もいることを確信した尾形は、薄い引戸を開けた。

 活気のいい挨拶が聞こえ、店の中にいる客もこっちへ向く。日本酒の一升瓶が奥の棚にずらりと並んだカウンター席。その後ろに四人卓が三つだけあるこじんまりとした店だ。壁に貼り尽くされた手書きのメニューの中には、店主こだわりのアイヌの郷土料理も混ざっている。

 年配客三人組に、サラリーマン二人組。

 そしてカウンターの一番奥に、だらしない赤ら顔の見知った男が一人。
「あれ? 尾形じゃん!」
 カウンターを挟んで向かいに立つ店主。バンダナ下の三白眼が笑っている。促されるより先に門倉の隣へ来た尾形は、外気で冷たくなったチェスターコートを脱ぐと「熱燗」と言って座った。

「平日のど真ん中に珍しいな」
 キラウシという聞き覚えのある店名に気になった尾形が、ここで二人に再会して半年になる。驚きはありつつも、この二人との再会に感慨を覚えることはなかった。しかしそれ以降も、尾形は月に二回はこの店に足を運んでいる。日本酒に力を入れており、二、三十種類の銘柄を固定せずに取り揃えているこの店は、キラウシが腕をふるう料理もなかなかに絶品だ。気取らず、しかし喧し過ぎない店の雰囲気も嫌いではなかった。

 出てきた熱燗の徳利を取った門倉から盃に注がれると、尾形は思い切りよくそれを飲み干した。冷えた体に心地よい温かさが染み渡っていく。
「何だよ、ヤケ酒したいことでもあったのか?」
「今朝、名前に会った」

 店内が一瞬、無音になった。しかしすぐに、後ろから年配客たちの話し声が聞こえてくる。
 早々に本題へと入った尾形の一言で、二人が目を皿のように丸くした。

「マジかよ……。名前ちゃん、やっぱり生きてたのか!」
 門倉が声を張り上げた。生きているには違いないが、語弊のある言い方だった。

「どっちから気づいたんだ!」
「歳、歳は! もしかして、JKとか?」
「ジジイ! 何想像してんだよ!」
 目の前の中年男二人の狂喜乱舞ぶりに、尾形は白い目を向ける。どうしてこいつらは、今も変わらずこうも気持ち悪いほどに仲がいいのだろうと呆れながら。

 彼女を特に気に入っていたこの二人に話せば舞い上がることは想像できていた。しかし、予期せず再会した彼女の姿は仕事中も尾形の脳内を占領し、彼は今日一日、叫び出したくなるような情動に駆られていた。誰かに共有しなければ落ち着かない。

「いいなー、尾形だけ。っていうか、だったら今日名前ちゃん連れてくれば良かっただろ」
「あいつは、記憶が戻っていなかった」
 尾形は手酌した二杯目を煽ると、自棄になったようなため息をつく。
 

『あの……、すみませんがどちら様ですか』
 警戒心をありありと浮かべた表情でそう尋ねる彼女に、尾形はショックで何も言えなかった。彼女も尾形からの答えを待っていたが、後ろから誰かが彼女の肩にぶつかったのがタイミングだった。自分たちが相当邪魔な場所で足を止めていることに我に返った彼女は、躊躇いながらも『ごめんなさい、急いでいるので。』と頭を下げてそそくさと雑踏の中へと紛れてしまったのだ。底冷えする雪の降る道のりを、尾形は心まで凍えてしまいそうな心地で会社まで歩いた。

 記憶がないと装っているのではないか。彼女は今世では自分になど会いたくなかったのに、見つかってしまったことで慌てて嘘をついたのではないかとも考えた。しかし、尾形の知る彼女はそういった演技のできる女ではなかった。

 キラウシと門倉が戸惑った顔を見合わせる。この三人で彼女の話をするのは初めてではない。争奪戦の後、彼女は縁談の話が来ていた阿寒の旅館の一人息子と結婚したと、尾形は二人から聞いていた。数年後には永倉新八のところへ子供が産まれたと便りが来たらしい。

 尾形が望んだことだった。たとえ自分はあの闘いを生き残れたとしても、彼女と一緒になったところで彼女を不幸にするだけだ。あの陽だまりのような女は、血塗れた世界など無縁なところで人並みの幸せを手にした人生を送ればいい。そう思って手放したというのに、安堵に矛盾した寂寥感は尾形の心を締めつけた。

 彼女は自分の死を聞いて泣いただろうか。
 彼女の夫はどんな男だったのだろうか。
 月日が経ち、家族が増えていくうちに自分のことを忘れていったのだろうか。
 欠けた人間である自分に愛など不要だと思っていた。しかし、だったら百年以上前の女を、今も未練がましく引き摺っているのは何だと言うのだ。

「なあそれ、本当に名前なのか?」
「おい、キラウシ!」
 訝しげなキラウシの言葉に、項垂れていた尾形がジロリと睨み上げる。
 馬鹿を言うな。自分が彼女を間違えるはずがないだろ。
 そう一蹴してやろうと思ったが、彼女が記憶を取り戻していない今、自分が彼女を彼女だと認識したのは容姿と声だけだということに気がつく。
 考えもしなかった。しかし、彼女が前世の自分を認識していない以上、その二人の女を同一視するのは己のエゴなのではないだろうか。そこまで考えたら、尾形はアルコールで上昇していた体温がスっと引いていく。

 その人間を、その人間たらしめるものとは何だろうか。
 容姿か、人格か、記憶か、能力か、経験か。
 時代が違えば歩む人生だって全く異なるはずだ。今の日本に生まれた尾形は戦地に赴くこともなければ実弾の入った銃を握ることもない。卓越した射撃の腕前を矜持としていた彼にとっては、アイデンティティを失ったようなものだった。

 九歳で記憶を取り戻していの一番に会った前世を知る人物、つまり母親は今も健在だ。しかし、あの男≠フ庶子として産まれた尾形を茨城で育てた事実は、皮肉なことに前世と変わらない。
 高校生の時に通学中に車に轢かれ、一命は取り留めたものの顎に縫合痕が残った。
 大企業に入社した尾形を待っていたのは、かつての第七師団の面々であった。

 帳尻を合わせるように前世の自分と重なっていく人生に辟易していた。しかし今日、彼女と再会できた瞬間は初めて己の運命を喜べたのだ。ようやく会えた彼女が、自分に何の由縁もない、あの彼女とは全く別の人間だとは認めたくなかった。

 苦悶の表情を浮かべる尾形を見下ろしていたキラウシが、店の奥へと下がっていく。
 尾形はもう彼女に会えない気がした。あの駅の朝の利用者数を考えればその可能性の方が高い。今日の一件で自分を警戒した彼女が、電車の時間をずらしてしまうかもしれない。

 目の前の白子のポン酢に手をつけようともせず絶望を新たにする尾形を、肩肘をついた門倉がニヤついて眺めていた。
「愛だなぁ」
「あ?」
 赤ら顔の親父が気色悪いことを言うなと苛立ちを顕にする。彼女への執着の正体を他人に端的に言葉にされて、それを認められるほど彼は素直にはなれなかった。

「おい、何勘違いしてる。そんなんじゃねえよ」
「何で今更照れんだよ! 惚れた女が今世も生きてたら、一緒になりたいと思うのが普通だろ」
 己の感情を真っ直ぐに肯定されてるとかえってバツが悪くなって、尾形は前髪を撫で上げた。いつもだらしない酔っぱらいのくせに、たまに最もらしいことを言いやがると思いながら。

「別にあいつとどうこうなりたいわけじゃない。……ただ、悪かったと思ってるだけだ」
 縁談の話を直接彼女から伝えられた日。自分の胸の中で涙を流す彼女を、本当は誰にも渡したくなかった。しかし、己の彼女への特別な感情に、あの時の尾形は正直になるわけにはいかなかった。愛に向き合うことは、己が愛していた者を殺めたことにも向き合わなくてはならないからだ。罪悪感から目を逸らし続けていた尾形には、愛は最も遠ざけなくてはならないものだった。

「おじさん難しいことは分からねえけどさ」
 門倉が尾形のお猪口に注ぎながら言う。
「こいつには幸せになってほしいと思って身を引いたことだって、お前なりの愛だったんじゃねえの?」

 後ろの年配客たちの声が先ほどより響いている。外の寒さなんて忘れているようなその賑々しさが、尾形の感傷をより深めているようだった。

 店の奥からキラウシが戻ってきた。
「人生の先輩からのありがたいお言葉は終わったか?」
「揶揄うなよーキラウシ! まあ俺、なかなかいいこと言ったからな」
「お前にやる」
 キラウシが尾形の前に縦長の茶封筒を差し出した。何も書かれていない封筒は紙一枚ほどの薄さで、折った手紙などではなさそうだ。後ろを捲ると封もされていない。尾形は少し丸めるように封筒の端を持って上から覗き見た。
 チラリと見えたその中のものに尾形が瞠目する。慌てて中に手を入れる彼を、キラウシがしたり顔で眺めていた。

 中身を引き出した尾形は今日二度目の昂りを覚える。時代を感じさせる白黒の写真に映るのは、彼女だった。着物姿で椅子に座り微笑んでいる彼女は、尾形の脳裏に焼き付いて離れない彼女と寸分違わぬ姿だ。尾形はこの写真が、自らの遠い記憶の一片である、杉元たちと北見の写真館で撮ったものだとすぐに気がついた。

「先月夏太郎が来てな。お前もよく来るって話をしたら、これをって」
 土方歳三を慕っていた日泥の用心棒の名前に、尾形の眉がピクリと動く。
「おいちょっと待て。何であいつがこんなの持ってた。」
「怒るなって。夏太郎、永倉さんが亡くなって少しした後に一人であの札幌の隠れ家に行ったらしくてな。そしたら仏間の引き出しから、土方さんや名前や他の奴らの写真が出てきたんだとよ。それを夏太郎が引き取って、子供も孫も捨てずに取っておいてくれたのを、自分の曽孫として生まれ変わったあいつが持ってきてくれたわけだ。」

 古い写真だというのに色褪せや傷もなく、適切な方法で保管されてきたことが伺えた。尾形が彼女を忘れた日はない。しかし、この白黒写真に映る彼女の微笑みを見ていると、当時の記憶が色を持って鮮やかに呼び戻ってくるようだ。

「何の因果か、前世の顔なじみがこうして引き合うんだ。もう一度会えるさ。今は記憶が戻らない名前も、お前と過ごす中で前世のことを思い出すかもしれないだろ? その時見せてやれよ」

 客に呼ばれたキラウシが、その場を離れて注文を取りに行く。
 これではこいつらに見守られるようなものではないか。
 面映ゆさを誤魔化すようにお猪口の中を飲み干す。すると、隣の酔っぱらいが尾形の肩に腕を回して徳利を掲げた。

「よーし! そういうことだから今日はじゃんじゃん飲もうぜー!」
 鬱陶しく思いながらも振り払うことはしない。お節介な男たちが、心が折れかけていた自分を立ち直らせてくれたからだ。
 

 ***
 

 次の日から、尾形は彼女に再会できたあの日と同じ時間、同じ車両に乗った。通勤ならばルーティンが変わることはないだろうと信じて。

 降車後に階段へ向かう尾形にぶつかってきた位置から考えて、ホームを挟んだ反対側の電車ではなく同じ電車に乗っていたことはほぼ間違いないと考えた。しかし、朝は数分間隔で走る路線だ。その上同じ電車に乗れたとしても、十一両の満員電車の乗客の中から彼女を見つけるのは、干し草の中から針を見つけるようなものである。それ故、闇雲に時間や車両を変えるよりもあの日と同じ好機を待つ方が賢明だと判断して、低血圧の彼が冬の朝を今までより三十分早く起きて自宅を発っていた。

 降車後にいち早くホームの中央へ移り、暖房の熱気とともに外へ押し寄せてくる群衆の中から彼女を鵜の目鷹の目で探せど一向に見つからない。一本後の電車かもしれない。次の電車から降りてくる人々にも目を走らせるが、やはりいない。降りてから三本目の電車を見送った後、尾形は自分のやっていることは最早ストーカーではないかと我に返った。彼女を見つけたとしても、ここで待っている自分に今度こそ怯えて時間を変えてしまうかもしれない。しかし、彼女を探すための材料が微々たるものしかない尾形はなりふりを構っていられなかった。

 二週間何の成果も得られないまま、街が色めくクリスマスが過ぎ去る。キリスト教徒でもないくせに小売業者の商戦に乗せられやがってと、人々の浮かれ様を毎年斜に構えて眺めていた尾形だ。しかし今年のクリスマスは、胸に冷たい風が吹き込んでくるような侘しさを感じざるを得なかった。

 仕事納めが目前に迫り、やはり彼女があの日あの駅で降りたのは偶然のものだったのかもしれないと、尾形の意志を諦念が蝕み始めた時だ。その日もあの日と同じ時間、同じ車両に乗った。後ろでドアが閉まる音を聞き、ゆっくりと揺れ出す車両でつり革を握ろうとした尾形は息を呑む。人の群れを隔てた反対側のドアの前に、彼女の横顔が見えたのだ。

 やはり彼女は毎朝この時間帯の電車に乗っていたのだ。運命は俺に味方した。世界が俺は正しいと言っている。
 いつの日かと同じモノローグを刻みながらほんの数メートル先の彼女を観察する。天使の輪が浮き出ている黒髪を見て、相変わらず指通りが良さそうだと口元が緩みそうになった。人集りの間から覗けるほんの少しの姿だけで、清楚な雰囲気が滲み出ているのが伝わってくる。

 しかし、横の座席の方へと向いた顔が瞬きさえせずに硬直していることに、尾形は些か違和感を覚える。元々色白の顔が、更に血の気が引いて真白く見えるのだ。よく見ると、ドア横の手すりを凭れるように持っている。

 具合が悪いのか?
 次の駅に到着し、ドアが開いて人が入れ替わる。どさくさに紛れて彼女との距離をさらに詰めた。発車後、ぐっと薄くなった隔たりから彼女を覗き見た尾形は、その違和感の正体を知ることになる。

 彼女のコートの後ろが捲り上げられている。中に手を差し込んでいるのは、彼女の背後に立つ中年のサラリーマンらしき男だ。窓の外を眺めているふりをしているが、それがかえって彼女の方へ手を伸ばしている不自然さを強調していた。なぜ誰も気づかないのか尾形は不思議にすら思った。助けも求められずひたすら耐えていたのだろう。事態を理解した尾形は、俯いている彼女の姿がひどく弱々しく映った。煮え滾るような怒りが腹の底から湧き上がり、こめかみに血管が浮き出る。

 前にいる人間を押し退けた尾形が男の手を捻り上げたのと、男の絶叫が響いたのはほぼ同時だった。
「そいつから離れろ、おっさん」
 彼女が振り返る。涙の滲んだ瞳が、尾形を捉えると大きく見開かれた。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る