この恋に酔いはいらない




 お酒が似合う人、というのが尾形さんへの第一印象だった。
 仕事で溜まりに溜まったストレスを晴らしたくて、前から気になっていた居酒屋に一人で入った夜だ。案内されたカウンター席の隣は若いサラリーマンだった。綽々とお酒を楽しんでいる姿に見惚れていたら、静かな瞳と目が合った。

「よく来るんですか?」
 期待がなかったと言えば嘘になる。でも「まあ」っていう会話を広げる気のなさそうな返事に、最初は話しかけたことを後悔した。恥ずかしさから逃げるように料理のメニューを見つめていたら「迷ってるなら、百合根の天ぷらがいいぞ」とぼそりと聞こえて、顔を上げたら彼は素知らぬ顔でお猪口を傾けた。

 居酒屋キロちゃんで尾形さんと乾杯するようになって数ヶ月経っても、あの居酒屋を出たら駅で別れるだけの関係に、駆け引きを知らない私は甘んじていた。そんな折に彼を「尾形ちゃん」と呼ぶ店員のシライシさんが、私たちに知り合いがオープンしたばかりのカフェにぜひ行ってほしいとお願いしてきたのだ。


 混み合う駅の改札口で、すぐに尾形さんを見つけて心が波打った。いつも後ろに流している前髪を下ろした尾形さんを見て、私は初めて彼が童顔だということに気が付いた。ネイビーのシャツとグレーのパンツのシンプルなコーデは、スーツの時の尾形さんより細身に見せている。

「お待たせしました」
「どうも」
 尾形さんはいつになくよそよそしかった。キロちゃんで最初会った時とも違う。改まったように会釈して首を掻く尾形さんは、私の知らない顔をしていた。

 目的地に向かって並んで歩く間、降り注ぐ陽の光が、尾形さんが隣にいるだけで新鮮でこそばゆかった。居酒屋を出た時のひやりとした風とは違う、湿気を帯びた蒸し暑い風が街を吹き抜けている。
「晴れてよかったですね」
「ああ」
 日中に会う尾形さんに緊張してしまって、最初の頃の当たり障りのない会話に逆戻りしている。飲んでいるとたまに饒舌になって、たまに冗談を言っては私の反応に口角を上げる尾形さんは、いま殆ど喋らない。やっぱり本当はいやだったのではないかと不安が立ち込めてくる。きっとシライシさんは、いつもキロちゃんで尾形さんをそわそわ待つ私をアシストしてくれたんだろうけど。

 大通りから裏に入った静かな路地にそのカフェはあった。ガラス扉を開けると、コーヒーの香りよりも木や壁の新しい建物の匂いが鼻を抜ける。テーブルや照明が輝いている店内の一番奥の席で、尾形さんが初めて、私の向かいに座った。

「どうしよ、パフェ美味しそう」
 メニューの最初のページに映る、大きなグラスに盛られた季節のパフェは看板メニューらしい。お昼を食べてきたのにそそられてしまう。
「食えばいいだろ」
「こんなにはさすがに」

 口惜しいけど次のページに捲ろうとした。でも数瞬考えて、尾形さんに甘える視線を送る。
「一緒に食べてくれません?」
「何でそうなる」
「甘いもの嫌いでした?」
「……少しなら食える」
 店員さんにシライシさんから貰ったクーポン券を渡して注文した。店内は女性客が殆どで軽やかな笑い声が聞こえてくる中、私たちだけはまだ少し、空気を固くしている。

「尾形さんってこういうカフェ入ることありますか?」
「ない」
 尾形さんが無愛想に返す。探りを入れるようなことを聞いてしまった。キロちゃんで少し深入りした話になっても、尾形さんが女性関係やそういう過去について私に話したことはない。だからどこかで、自分は特別なのではないかと驕る気持ちもある。

「お前はどうなんだ」
「行きますよ。友達と遊ぶ時はこういうお店が候補にあがりますし。飲みに行くのもお洒落なイタリアンとかが多いです」
「柄じゃねえだろ」
「失礼な!でもたしかに、今はキロちゃんみたいな気取らないお店の方が好きかもしれません」
 誰にもキロちゃんのことを話したことはない。気のいい店主もシライシさんも温かく迎えてくれるあのお店が、もう私の特別な場所になっている。

 尾形さんはコーヒーを飲む姿も様になっていた。食べ方もだけど、所作に品のある人なんだと思う。
「尾形さんは同僚と飲みに行ったりはしないんですか?」
「仕事終わりまで会社の奴と顔突き合わせて飲んでも美味くねえだろ」
「尾形さんらしい。じゃあ私が最初話しかけた時も本当は嫌でした?」
「やかましそうな奴が来たと思った」
「ひどい!」
「でもまあ、……お前と飲むのはそれなりに楽しい」
 尾形さんがカップに口をつける。私はその言葉の真意について都合のいい解釈を巡らせながらも、舌に広がる苦味で落ち着きを取り戻そうとした。尾形さんと距離を縮めたいのに、この人は距離感を間違えたら、あのお店にも来なくなってしまう気がする。

 メロンがふんだんに盛り付けられたパフェは目の前にするとかなりボリュームがあって、尾形さんも圧倒されていた。でも、一口目の丸くくり抜かれた果肉だけで、食べ切れるかの不安は吹き飛んでしまった。贅沢な甘さが口いっぱいに広がっていく。
「美味しい!」
 尾形さんがもう一本のスプーンを手に取った。掬一口入れると表情が微かに和らいだ。キロちゃんでもよく見る表情。
「あ、崩れちゃう」
「先に外側食えよ」
 尾形さんが笑いながら落っこちそうな果肉を掬い上げる。いつもは日本酒を分け合っている私たちが、今はフォトジェニックなパフェを分け合っているのが何だかおかしい。でも、パフェの甘さがこの時間をデートらしくしてくれている気がする。

「この後時間あるか?」
 底のアイスを一人で掬っていたら、既にスプーンを置いた尾形さんが聞いた。
「ええ」
「お前がこの前言ってた映画行くか」
 尾形さんが私に向けたスマホには、最寄りの劇場の上映スケジュールが開かれている。
「いいんですか!?」
 好きな漫画の実写化だから、漫画は滅多に読まないらしい尾形さんは興味がないと思って提案しなかったのに。覚えてくれていたことが嬉しい。最後に口にしたコーヒーまで甘い気がした。
 


 映画を観て、同じ商業施設の本屋へ入って、インドカレー屋を出た頃には、いつもキロちゃんを出る時と同じくらいの時間になっていた。
 待ち合わせた駅へ近づいていくにつれて寂しさが募っていった。ずっと尾形さんと一緒にいたのに、まだ帰りたくない。

 心地よい夜風が尾形さんの前髪をさらさらと撫でる。アルコールの入っていない私たちは、またちょっと改まった空気になっていく。次を期待してもいいのかな。こういうのって男の人から誘ってもらうまで待つべきなのか。何も言ってこない尾形さんに焦れったさを感じるのは、今日で尾形さんをもっと好きになってしまったからだ。

 改札の前で止まって、もう一度尾形さんと向き合う。
「今日は尾形さんのおかげですごく楽しかったです」
「そりゃどうも」
 尾形さんが照れたように目を伏せる。間があって「ああ、その」と何か言いかけた尾形さんに、期待しながら待っていた時。

「尾形くん!」
 よく通った高い声が聞こえて、びっくりして振り向いた。私と同じ歳くらいの女の人が、手を振ってこっちへ駆け寄ってくる。
 尾形さんが気が抜けたようにため息を漏らした。
「お前か、驚かせんなよ」
 そのひと言で、自分の顔がぴしりと強ばったのが分かった。
「びっくりしたー!ここで会うと思わなかったんだもん!」
 綺麗な人だ。長い付き合いなのか尾形さんと女の人の距離感は、明らかに私と尾形さんのそれより近い。華奢な手が容易く尾形さんの肩に触れて、お腹の底に黒いものが渦巻いた。

 言わないだけで、尾形さんだって異性の友達くらいいるに決まってるのに。目の当たりにして心がざわざわしている。
「最近キロちゃん行けてないけどみんな元気?」
 なけなしの自信が音を立てて崩れた。なんだ、あの居酒屋で仲良くしてるの、私だけじゃなかったんだ。他の女の子とも飲むんじゃん。尾形さんにとって、私は特別でも何でもなかった。

「仕事も落ち着いたし来週行くね!」
 ようやく女の人が去っていくと、私たちの間には気まずい空気が流れた。分かっている。私が勝手に期待して、思い上がっていただけ。
 何か言いたげな尾形さんに丁寧にお辞儀をした。
「今日はありがとうございました。じゃあまたキロちゃんで」

 あの人が来るならもう行かないかもしれない。へそを曲げてるわけじゃないけど、行っても自分が惨めになるのが分かるから。
「おい、何か勘違いしてるだろ」
「何がですか?してませんよ」
 笑みが壊れないうちに改札に向かって歩き始めた。シライシさんにお願いされたから尾形さんは来ただけなのに。金曜日の夜に一緒に飲んで今まで何も発展しなかったのがいい証拠だ。わざわざ新しいワンピースなんて買ってバカみたい。でもシライシさんも、期待をもたせるようなことしないでほしかった。

 改札を抜けてホームへ足早に向かう。エスカレーターを駆け上がろうとしたら、ぐんと後ろから腕を引かれた。
「待てよ」
 驚いて振り向いた。追いかけてきた尾形さんの表情が、いつになく切羽詰まっていたから。
 初めて、尾形さんに触れられた。掴まれたところからみるみる熱がのぼっていく。

 その気がないなら追いかけてこないで。また勘違いしちゃう。
 後ろで発車のメロディが響いて、それに負けじと尾形さんが声を張り上げた。
「俺が白石に言ったんだよ!あんたと、どうすれば……」
 やけくそなくせに言い切らない言葉は、息が止まるほどに甘かった。今までこの人が焦ったり必死になるところなんて、想像もできなかった。いつも静かな瞳は私を真っ直ぐに射抜いて逃がそうとしない。

 距離を測り間違えるのが怖かった。でも、特別になりたいなら、隣に甘んじないで早く向き合えばよかったんだ。
「私も尾形さんに、ずっと言えなかったんです」
まだ、一緒にいたいって。

 お酒に強い私たちは、酔いを言い訳にはできなかった。だから私たちの恋愛は、こうして健やかに始まるしかなかったのかもしれない。

「送ってく」
 お互いの熱い手のひらが重なって、指が絡まる。昼間の熱気を残した夜風が、尾形さんの髪をさらさらと撫でていた。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る