赤く実る




 忙しない足音が響く。テレビから流れるエンタメニュースに、彼女の好きな俳優が映っている。ベランダに出た彼女を呼び止めようとして、やっぱりやめる。俺とは正反対のタイプの容姿に今さら卑屈になることもないが、自分から見せてやるほどのお人好しでもなかった。

 トーストとコーヒーの香りが広がったリビング。カップの中に仄かな甘みを覚えて、今日から輸入雑貨店で買ったと言っていた豆に変えたことに気づいた。会社まで電車で一駅だからといって、あまり悠長にはしていられない。オリーブオイルの効いたハムエッグも平らげてシンクへ行くと、色違いの皿とマグカップが入っている。食事を作ってもらった方が洗い物をする。

 同棲開始時に取り決めたルール通り袖をまくって蛇口を捻ると、ベランダの屈んだ後ろ姿が振り返った。
 開いた窓から、水やりを終えた彼女が戻ってくる。

「トマト実ついてきたよね」
「そろそろ防虫剤必要だな」
「この前作ってたやつ?」
 ニンニクと鷹の爪の入った瓶を思い出したのか彼女が苦笑いする。今年も始まった家庭菜園は順調だ。最初はスーパーで買えるものをわざわざ手間をかけて育てなくともと思った。しかし、去年の夏にプランターで赤く実ったミニトマトを食べた俺は、この前ホームセンターへ行きプランターを買い足して他の野菜まで植えていた。青臭くて瑞々しいトマトは、スーパーで買ったものからは決してしない、田舎の畑で祖母が育てた苗のトマトをその場で食べた時と同じ味がしたからだ。

「今日も帰り遅い?」
「多分な」
「ご飯いらないならちゃんと連絡してねー」
「分かってるよ」
 これもルールの一つだ。些か反抗的に聞こえたかのか、キッと睨みつける目を作った彼女は指で俺の脇腹を突いてそのまま寝室へ向かった。まあ、昨日うっかり連絡しそびれた俺が悪い。最近は残業続きで共に夕食を食べれていない。もう少しして繁忙期が落ち着いてきたら自分が夕食を作って彼女を待てる日も増えるだろう。

 いつも十分早く彼女が起きるのに、結局俺が先に家を出る。洗面所の前を通り、まだ鏡の前で支度している彼女に「じゃあな」と声をかけて玄関へ向かう。革靴に足を入れたところで、また忙しない足音が近づいてきた。

「待って」
 見送られるのなんて久しぶりではないだろうか。化粧した顔だが唇だけ薄い気がする。躊躇った様子で俺を見ているかと思えば、肩に手がのって彼女の顔が近づいてきた。玄関の段差は自分たちの身長差を縮めるから、彼女が寄せた唇をたやすく受け止める。

「行ってらっしゃい」
 目を瞑ることも忘れていた。彼女が見たことがないくらいはにかんでいる。最初の一ヶ月は毎朝、玄関前でどちらからともなく唇を重ねていた。俺がいつもより早く家を出たり、慌ただしく用意している彼女の手を止めさせるのも悪くて、いつの間にかその習慣は途絶えていった。

 朝に相応しくない感情が湧き上がるままに、彼女の肩を引き寄せた。深い口付けを繰り返すと彼女の淡い吐息に理性が飛びそうになって、スーツのポケットの中のスマートフォンの振動でようやく我に返った。

「今日は定時で帰る」
 惚けた顔をして「はい」と呟く彼女に満足して部屋を出た。初夏の匂いを纏った爽やかな風が心地よく吹いている。二年目になる同棲に、ルールを一つ追加してもいいだろう。忙しい朝といってもほんの数秒だ。このなだらかな日々が続くためにも、決めごとは大事だろ。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る