二匹と一匹
尾形は眉を顰めた。朝からしとしとと振り続けていた雨は、夕方には地面を叩きつけるような土砂降りになって帰路を急ぐ彼の足元を濡らした。本当ならさっさと衣類を脱いで革靴を乾燥機にかけるところだ。しかし、先に帰っていた恋人の姿を見るなり、もっと言えばソファに座る彼女の膝の上の“それ”を見るなり、尾形は自らに纏わりつく鬱陶しい湿り気を忘れるほかなかった。
「おい、何だそいつは」
「猫ちゃん」
今日の夕飯でも聞かれたかのように彼女が答える。そんなことは見れば分かった。オレンジ色ともとれるそのトラのような茶色い毛色の生き物は、眠っているのか丸まったまま、尾形の方へ顔をあげようともしない。
玄関で靴が乱れ、彼女の傘が横倒しになっていた理由を察した尾形はため息を落とす。
「どうして家にいる」
「そこのタバコ屋さんの前でね、一人で震えてたの」
「飼い猫かもしれねえだろ」
「それならお家に帰るでしょ。しかもすごい痩せてるんだよ?」
彼女が口を尖らせる。そっと近づいて覗き込んでみると、なるほど、野良なら独り立ちした頃だろうか。背中の肉がなくて骨が浮き出ているのを見ると、狩りに苦労してきたのだろう。ぐるぐると喉を鳴らす音が聞こえてきて、猫にとってすっかりそこが心地良いことを知る。
「引っ掻かれたのか」
白い手の甲にできた傷なんてどうでも良さそうに、彼女は柔らかく撫で続ける。
「お風呂入れる時ね。怖かったんだと思う。でも洗面器に張ったお湯に入れたら目細めて鳴いてたんだよ。それからドライヤーで乾かして牛乳あげたらすっかり懐いちゃった」
可愛くて仕方がないのだろう彼女から「ねえ、みーすけ」と聞こえて猫の性別を知った。相変わらず年寄りみたいなネーミングにもっとマシな名前はないのかとツッコミを入れたがったが、すっかりご執心の彼女に尾形はそれどころではない。
「まさか飼うのか?」
尾形の咎めるよな声に危機を察知したのか、猫がようやく顔を上げた。顔を埋めている時は気づかなかったが、鼻から下、胸元、前脚が白い毛で覆われている。毛並みは若々しいのに、顔つきは愛らしさよりも修羅場を潜ってきたかのような野性味を感じる。現に喉を鳴らす音とは違う高い唸り声をあげて、針のように細い瞳孔で尾形を睨んでいる。
彼女が「大丈夫だよ」と言って指であごの下を擽った。これではまるで自分が悪者のようだが、また外へ放り出せと言っているわけではない。ただ、ここで飼うには尾形は“彼女を”案じないわけにはいかなかった。
「そうだよ?そのために連れてきたんだし」
「おい」
「大丈夫」
尾形の言葉のその先を阻むように彼女が被せた。真っ直ぐな瞳に見つめられたらそれ以上何も言えない自分は、宇佐美が言うようにやはり彼女にとってチョロいのかもしれない。
リビングに入った時から分かっていた。彼女はその重さを知った上で、濡れた猫を拾い上げたのだ。
「明日は忙しいねー。病院行って、ペットショップで色々買わないとね」
彼女の甘い声に切ない懐かしさが込み上げて、胸が握られたかのように苦しくなる。
尾形が彼女と同棲し始めた頃、ここにはハチワレの老猫がいた。元々一人暮らしの彼女が飼っていたその猫は、尾形とも良好な関係を築いていた。高齢と病気が重なり死んでしまった時の、魂が抜けたかのような彼女を思い出す。それだけで、尾形は二度とペットを飼う気になどなれなかった。優しすぎる彼女は、どうしたって先に命が尽きる生き物に情を注ぎ過ぎるに決まっている。
止めなければこのままずっとあやし続けていそうな彼女の腕の中で、猫が尾形を見つめている。一挙手一投足を見逃すまいとした眼光は、まだ警戒を緩めていない証拠だ。
「お風呂入ってきて」
「お前まだなんだろ?先入れよ」
「いいの?じゃあ二人で親睦深めててね」
彼女が部屋を出ていく。静かになったリビングで、猫相手に気まずさを覚えた。冷蔵庫の中の夕飯を食べる気にもなれない。背中を盛り上げた猫から目を離さず立ち尽くしていたが、平静を装って視線を逸らし、ゆっくりと、距離を空けてソファへ腰を落とした。猫から彼女のシャンプーと同じ香りがするのが、何だかおかしい。
彼女と同棲する前から猫は嫌いではない。猫もまた然り。おそらく尾形自身の雰囲気や程よい距離感ゆえに、猫が自ら彼の足元に擦り寄ることも少なくなかった。
「まあなんだ、その。……お互い色々あるだろうが、上手くやってこうぜ」
それにしてはずいぶんぎこちない挨拶だが。
「でもな、あれは俺のだ。もう傷つけるなよ」
「ナ〜」
返事でもしたかのような猫が前足を伸ばしておしりを突き上げる。尾形の口元に薄らと笑みが浮かんだ。毛並みを整える日々が、朝起きたらいつの間にかベッドの中にいる日々が、楽しみでないわけではないのだ。
撫でてと言わんばかりにソファに寝そべった猫に、そっと触れようとした。
「ォアッ!!!」
途端、本性を見せたかのように尾形の手に小さな牙が食い込んだ。
「だっ!」
引っ込めようとした手を猫は逃がさなかった。前足で爪を立てて掴み、後ろ足で夢中で蹴ってくる。まさに狩りの時のそれだ。
「バカ!何しやがっ、おい!」
甘噛みなんて優しいものではない。まだ小さな猫なのだ。だからまだ、じゃれる時の加減を知らない。
「仲良くやってるー?」
「爪切りどこだ!」
浴室の方から聞こえてくる呑気な声に向かって叫ぶ。二人と一匹の騒がしい日常が始まろうとしていた。