続き




 俺は猫だ。狩りが厳しい日が続き、街でヒトからエサをもらい飢えを凌いでいた。そんなさすらいの俺を、雨が降りしきる夕方に一匹の雌が拾い上げたのだ。

 その雌に連れられて初めて入った人間の住処は、目がチカチカして落ち着かなかった。湯を張った桶に入れられる時に引っ掻いてしまったのは許せ。でかい水たまりに突っ込まれるなんて今までなかったのだからビビるだろ。

「今日からうちの子だからね、みーすけ」
 皿に注いだ白い液体を舐め終えた俺に、雌が満足そうに言った。何がみーすけだ。俺は猫だぞ。草を掻き分け土を蹴り鼠に飛びついて生きてきた俺が、人間の住処に居着くわけないだろ。そう答えても、雌は微笑んで俺を抱き上げる。膝の上に俺を乗せた雌に毛並みを整えるように撫でられているうちに、意識が微睡んできた。まあ飯に困らないなら少しくらいここにいてやってもいいか。

「まさか飼うのか?」
 いつの間にか眠りこけていたらしい。俺を歓迎していない低い声で、失いかけていた野生を取り戻す。そこには雨の匂いを纏った雄が立っていた。俺は鼻がいいから、この住処の雌の匂いに混ざった別の匂いに気づいていたが、こいつがそうか。匂いからしてこいつらは家族ではなさそうだから番いってことか? 

 雄は俺を警戒した目で睨めつけてくる。自分の縄張りによそ者が来て怒っているのだろう。俺を連れてきたのはお前の雌だぞ。俺の安寧を邪魔するなら許さないと、隙を見て牙を剥こうとした。だが、女がいなくなると雄は俺の近くへゆっくり近づいてきて友好を図ってくる。その距離感といい話し方といい、この男が猫との接し方に相応に慣れていることに、街をさすらってたくさんの人間を見てきた俺は気づいた。

 こいつ、近くで見ると人間のくせに猫みたいな雰囲気がある。あいつは自分のものだと言って、俺との間に序列をつけようとしてくるのは雄のプライドってやつか? 伸びてきた手に反射的に飛びつくと雄が短く叫んだ。許せ、習性だ。仕返しとばかりに雄に爪を切られる間、俺が叫んでも雌は「ごめんねー」とばかり言って助けてはくれなかった。まったく屈辱だ。やっぱり気が済んだら出ていってやる。



 人間の家での暮らしが始まると、昼間は二人ともどこかへ出かけることが多かった。おそらく狩りだろう。もうエサを探し歩く必要のない俺はこのままでは野生を削ぎ落としていく気がして、雄―ヒャク―がどこからか持ってきて組み立てたキャットタワーというもので爪を研いで過ごした。物足りず、箱の中から出てくる白い紙を次々引っこ抜いたりゴミの入った箱をひっくり返したり、カーテンといわれる大きな布を裂いて遊んでいると、だいたい先に帰ってくる雌―ユメ―が悲鳴をあげる。あとから帰ってきたヒャクが「またお前は」とため息をつく。

 叱られたり、新しいおもちゃを買い与えられたりしながら、俺はユメとヒャクが困ることをしなくなっていった。帰ってきたユメに「お利口だったね」と抱きかかえられると悪くない。草を掻き分け土を蹴り鼠に飛びついて生きてきた俺がこうもお行儀よくなってしまうのだから、適応とは恐ろしいものだ。

 ユメとヒャクと俺で一緒にいる時、俺はだいたいユメの膝の上にいるから、ユメの前でヒャクと遊んでやることはあまりない。ヒャクは俺のことでユメに対して「まあお前が楽しそうだから飼ってよかったよ」みたいなスタンスでいるが、実はこいつはユメがいないところで結構俺に甘い。たまにヒャクが先に帰ってくると、俺に餌をやりながら「ママは今日遅いってよ」と話しかけている。お前その歳でママはないだろ。朝はヒャクの方が家を出るのが遅くて、俺の背中をぽんぽんと軽く叩いて「じゃあ頼んだぞ」と言って扉を閉める。この家を俺が任されているみたいで少し気分がいい。しっぽのついているあたりを指先で柔らかく掻かれるのも、分かってるな〜と思いながら喉を鳴らしている。

 おやつをよくくれるのもヒャクだ。ユメがいなくなった隙にニヤニヤしながら俺におやつを舐めさせては、ユメが戻ってくると知らんふりをする。戻ってきたユメは俺の口の匂いですぐに気づくのだが。
「ちょっと百ちゃん、またチュールあげたでしょ!」
 おやつをあげすぎるなとヒャクを責めるのは、俺の健康のためらしい。ユメがヒャクを叱るのはそれくらいで、こいつらも気づくとよくじゃれ合っている。

「ほら、お前はもういいだろ」
「ォアー!」
 ユメの膝の上にいる俺をキャットタワーに移動させたヒャクに、俺が抗議の声を上げてもヒャクは勝ち誇った顔でユメの膝の上に頭を乗せる。そこは俺の定位置なのに! でも 「みーすけ怒ってるでしょ」と言いながら満更でもなさそうなユメを見てると、まあいいかと思えて毛繕いを始めた。自慢だった爪はいつもヒャクに切り揃えられているが、俺はもう鳴いて嫌がることはない。


 
「いつまで怒ってんだよ」
「怒ってない」
 珍しくユメとヒャクが同時に帰ってきたかと思えば、いつも和やかな部屋の空気が張り詰めた。ユメがエサを用意しながらも、俺はそれどころじゃないことを察知する。

「家にめんどくせぇ事情があるのは言ってただろ。お前と引き合せるにはまだ早いと思ってただけだよ」
「だったらそう言ってくれればいいのに。勇作さんと会う日をずっと同僚とのご飯って嘘つかれてて、一緒に住んでる恋人なのに何も知らないなんて、勇作さんの前で恥ずかしかったよ私」
「言ったらどうせお前は気になって色々聞いてくるだろ」
「それもう実家じゃなくて私のことめんどくさいと思ってるじゃん!」

 やめろやめろ! 何の話をしているのか分からないが、いやな空気に危機感を覚えて、俺は二人の間に入って大声で鳴いた。ユメもヒャクもバツが悪そうに俺に視線を落として黙りこくる。人間も喧嘩するんだな。

「ごめんね、大丈夫だよ」
 ユメが俺を抱き上げると、怒りとは違う悲しい目をしていた。「お風呂先入っていいよ」と言ってヒャクに背中を向けると、ヒャクが黙ったまま出ていく。ユメの身体から力が抜けて、俺たちはソファに沈んだ。しばらく俺の頭に鼻を押し付けてじっと匂いを嗅いでいたユメは、風呂場の扉が閉まる音が聞こえると話し始めた。

「別に、弟さんのこと紹介してって言ってるんじゃないの。でもやっぱり、あんなに百ちゃんのことを慕ってる弟さんのこと、弟さんとばったり会ったから知るんじゃなくて、百ちゃんの口からちゃんと聞きたかったんだ」

 俺に愚痴をこぼすユメは、ところどころ声に抑揚があった。兄弟のことってそんなに大事なことなのか? 俺はもう同じ母親の乳を飲んで育った兄弟の記憶も朧げになっているから、人間とそのへんの感覚が違うのかもしれない。だが事の云々よりも、ヒャクが嘘をついて自分に隠していたことにユメはしょんぼりしているのだろう。

 かわいそうなユメをあやしているうちにヒャクが風呂を出て、二人が会話もなく入れ替わる。すっかりユメの肩を持っている俺はどういうつもりだとヒャクを睨みつけていたら、伝わったのか「何だよ」と不貞腐れたように言った。意外にユメよりヒャクの方が、俺の伝えようとしていることを汲み取るんだよな。

 ソファに座る俺の隣に腰を下ろしたヒャクは、俺を抱き上げはせず背中を撫でた。
「会わせたくなかったとかじゃねえよ。……ただ、勇作さんみたいな人をあいつに紹介するってなったら、……あいつ、ああいう方が、タイプだと思うから」

 なるほど、雄のプライドってやつか。勇作ってのがどんな男か知らないが、ヒャクは引け目があるのだろう。猫の俺にも理解しやすい気持ちだが、それはユメに失礼だぞ。“セッタイ”とかでいつまでも帰ってこないお前を、俺が眠ってからもずっと待ってるユメが他の雄に靡くはずがないだろ。第一、お前ら俺に打ち明けてないで相手にそう言えよ。思ったことをただ伝えるだけのことが難しいなんて、人間とはめんどくさい生き物だ。

 風呂から出てきたユメが部屋へ来て、二人が顔を合わせる。お互い気まずそうだったが、さっきのいやな雰囲気にはならなかった。どちらも早く諍いを終わらせたがっている。

 まったく、世話の焼ける飼い主たちだ。俺があくびを一つして、ヒャクの膝にのっかると二人の空気がふっと緩んだ。こんな喧嘩、猫も食わねえから早く終わりにしろよな。ヒャクが何か言いかけて、ユメの声と重なる。
「何だ?」
「いいよ、先」
「……勇作さんに、三人で会ってほしいんだ」
「うん。でも、無理しなくてもいいんだよ。私も百ちゃんの気持ちとか、考えられてなかった」
「違う。俺が勇作さんに、お前のことをちゃんと紹介したい」

 勇作さんに都合のいい日を聞いてみると言って、ヒャクがスマホを持ってきて指を滑らせる。ユメは泣きそうに少し顔を歪めながらも、ヒャクの隣に座った。言葉が足りなくても、ユメの気持ちを汲み取ってすぐに行動する、お前のそういうところがユメも好きなんだろう。あとは二人でよろしくやれよと鳴いて、俺はキャットタワーにのぼった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る