壊す炎




 自分でも役に立てるところを見せたかった。
 夜に向けて薪を集めていた矢先だった。地面に下ろしたはずの足がぐらりと傾いたかと思った瞬間、踏み止まることなんて不可能な勢いで急な斜面を滑り落ちてしまったのだ。幸い怪我はなかったけど、下駄で今自分が転がってきた斜面を駆け上がるなんてできるはずもなく、元いたところへ戻れるよう山の中をさまよった。

 ずいぶん杉元さんたちと離れてしまったみたいで、呼んでも自分の情けない声だけが虚しく響く。本当は一人になってしまった森で声なんてあげたくない。私には熊と戦う術も武器もないのだから。山へ沈んでいく斜陽の眩しさに途方に暮れていると、高いところから「おい!」と、怒鳴るような声が落ちてきた。

 銃を担いだ尾形さんが崖から私を見下ろす姿に、恐怖と焦りがほどけていく。
「向こうの斜面を、滑り落ちてしまって」
「何やってるんだ間抜け」
 結局また足を引っ張ってしまった。情けなくて、でも他の誰でもないこの人が助けに来てくれたことに安堵して、涙が溢れてしまう。
「そこで待ってろ。動くなよ!」

 尾形さんは斜面の緩やかなところから迂回して泣きべそをかく私のところまで降りて来てくれた。その頃には空は薄闇が溶け、鳥のさえずりはすっかり止み、木々のざわめきだけが森の中に響いていた。

「ごめんなさい。早く杉元さんたちのところに、」
「ろくに足元が見えねえのにまた転がり落ちたいのか?」
 そう言われてしまったら何も返せなくて、私は尾形さんと、そこで一番大きな木の下に腰を下ろした。小樽を出てから、尾形さんと二人きりになるのは初めてだった。

 薪を落としてきたから焚き火もおこせない。永倉様の御屋敷では火鉢の火が消えると不服げに私を呼びつける尾形さんは、夜の森の寒さにじっと耐えていた。昼間の暖かな日差しなんて嘘だったかのように、凍てつく風が容赦なく吹き抜けてくる。なるべく身体の熱を逃がさぬよう縮こまっていると、尾形さんがその身に纏っている外套を脱いで私に投げて寄越した。

「そんな、大丈夫ですから!」
「いいから着てろ」
 尾形さんは頑なだった。深い緑の生地からは尾形さんの匂いがして、鼓動が早くなる。それでも一人で暖を取るのは忍びなくて、私は尾形さんとの間にあったそれなりの空間を詰めた。

「一緒に被らせて下さい」
「は?」
「そうしなきゃ、お借りできません」
 尾形さんは深くため息を落とした後、仕方なさそうに開いた外套の裾を自分の背中に回してくれた。触れた肩から体温が伝わって、胸に火を灯す。尾形さんと一つの布にくるまった私は、自分のうるさい鼓動を聞きながら雲の間に瞬く星を数えていた。

 永倉様の御屋敷で飯炊きとしてそれなりに役に立てていた私は、敵との戦いを繰り広げる旅路ではただの足でまといだ。憎まれ口を叩きながらもいつも私を助けてくれる尾形さんが、私に情を寄せているなんて自惚れていない。分かっていながらも、誰とも距離を置くこの人のことを自分だけは理解したい、近づきたいと思ってしまうのはおこがましいのだろうか。

「杉元さんたちに心配かけてしまってますよね」
 狩りができないなりに役に立とうとした私に、杉元さんは「そこで待っててくれればいいよ」と止めてくれた。でも私だけ何もしないわけにはいかないと動いた結果がこれなのだから、世話がないだろう。

「銃剣を貸すかって聞かれたんですけど断って良かったです。そうじゃなきゃ落ちた時になくしてたと思います」
「杉元が助けに来た方がよかったか?」
「どうしてですか?」
「いや、いい」
「何ですか?言ってくださいよ」
 質問の意図が分からないまま、尾形さんはむこうを向いて黙ってしまった。自分がわざわざ探し出してやったのにと気を悪くしたのかもしれない。尾形さんとの接し方が分かってきたつもりだったのに、最近こうして何気ない会話の中で急に臍を曲げてしまう。

 夜が深まっていく。外套の中は二人の体温ですっかり温まって、森の静寂に耳を澄ませる余裕ができてきた。でもいくら目を瞑っても眠りに落ちることはできなかった。尾形さんも起きているのが、隣から聞こえてくる微かな呼吸の音で分かる。

「お前、何で俺たちと一緒にいるんだ?」
 何の気なしに聞いているような、至極当然な質問だった。それなのに今日の失態もあって、さっきの質問よりずっと自分が責められている気になってしまう。

「半年前に両親が他界して、」
「それは前に聞いた。俺が言ってるのは、こんなお尋ね者集団と命懸けの旅なんざしなくとも、お前ならいくらでも真っ当に生きていける道があるだろってことだ」
 尾形さんは遠回しに、この旅から抜けろと言っているのだろう。山で傾斜を転げ落ちて泣きべそをかいている女が、弱いなりに死の覚悟すらできていないことを、この人は見透かしている。

 このままでは近いうちに街に置いていかれる。尾形さんと温度を分け合う今、私にとっては元いた世界に戻って、もう二度と尾形さんと会えなくなるほど残酷な未来はなかった。

 喉が干上がったように乾いて、膝の上の手は震えていた。雲に隠れていた満月が現れて、木々から眩さを覚えるほどの光が差し込んでくる。

 呆れられるかもしれない。何を勘違いしてるんだと、鬱陶しく思い口もきいてくれなくなるかもしれない。それでも、他人に抱いたことのないこの感情を尾形さんに伝えて、その上で跳ね除けられるならそれでいいと思った。

「お慕いしております」
 月明かりに照らされた尾形さんの、夜空より真っ黒な瞳が揺れた気がした。ひた隠すつもりだった感情を剥き出しにした私は、どんな顔をしているのだろう。

「だからどうか、お傍に、いさせて」
 蚊の鳴くような声の吐露は、最後まで言い切ることはできなかった。私の肩を木に押し付け尾形さんが、噛み付くように唇を塞いだから。性急で、余裕のない口付けだった。初めて知る感触に戸惑いながらも、尾形さんからそこへ触れてくれたことに頭がくらくらして、尾形さんの隊服に縋るように掴んだ。

 何度も唇を啄んだ尾形さんは、厚い手のひらで頬を包んで、鼻と鼻が触れ合うその距離のまま私に言う。

「人の気も知らないで、お前は」
 今までに聞いたことのない、熱に濡れた声だった。真っ黒な瞳には抑えきれない情欲の炎が灯っている。

「全部あげます。尾形さんになら、」
 私の言葉を飲み込むようにもう一度、余裕のない口付けが降りてくる。
 同じ感情を求めたりなんてしない。慰み者でもいいから、どうか。そう思いながらも、尾形さんと心まで繋がることに夢を見てしまうのは、やはり欲深な女なのだろうか。

 静寂が広がる森の中で、私たちの息遣いだけが響いている。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る