流れる青




 インターホンを鳴らすと出てきた百ちゃんは、また背が伸びたような気がする。三年間違うクラスで顔を合わせることが減った今、久しぶりこうして目の前に立った。幼い頃は私より背が小さかった百ちゃんの面影はどんどん薄れていく。

「イオン行かない?」
「行かない」
「何してたの」
「勉強」
「じゃあいいじゃん」
 百ちゃんが私の後ろのギラギラと光る青空を見て顰め面をする。たしかに自転車を数十分走らせるには陽射しの強い日だ。
 真面目な顔のまま「溶けるぞ」と言う百ちゃんにおかしくなったけど、百ちゃんの部屋で遊ぶことを提案すると、ため息をついて財布とスマホを取りに行った。冗談めかして言ったけど、ちょっと本気だった。昔は夏休みに散々入り浸った百ちゃんの部屋が今はどんな様子か、もう何年も入ってないから知らない。

 暑かった。とにかく暑くて、自転車を走らせながら受ける風も熱風のようで爽快さはなかった。
「何しに行くんだよ、イオンに」
「ゲーセンでっ、エアホッケーする」
「いつも負けるから、もうやらねえって、言ってただろ」
「子供の時でしょ? 今やったら勝てるもん!」

 項から流れ落ちる汗が鬱陶しい。叫ぶように喋りながらペダルを漕いだけど、結局私たちは、イオンへの中間地点にも満たない駄菓子屋で足を止めた。イオンができてからだいぶ姿を変えた駅前だけど、私たちが駅前へ行く時に通る商店街は時が止まったように、古びた個人商店を連ねている。そこも昔ながらの駄菓子屋の構えを残して、今も地域の子供たちの居場所になっていた。

 私たちが来た時に店の前で輪を作っていた男の子たちはすぐに駆け出していって、店内は珍しく私たちだけだった。百ちゃんと私は当然のように二人とも冷蔵ケースからラムネを手に取って、店主のおばさんにお金を渡した。煤けたコカ・コーラの赤いベンチに並んで座ると、昔もよく百ちゃんと夏休みに二人でラムネを飲んだ日々を思い出す。蝉の声が響いている。瓶の中は小さな気泡が浮き上がっていて、透き通ったその向こうで、もくもくとした積乱雲が堂々と夏の青空を流れていた。

「あの人がね、今日また家に来るって」
 ラムネを傾ける百ちゃんは黙ったままだった。口数が少なくて誤解されがちだけど、百ちゃんが黙って聞いてくれている時の沈黙に私は安心して、誰にも言えないことが淀みなく話せてしまう。

「心狭いよね。お母さんの幸せが応援できないって。再婚相手と上手くやってる友達だっているのに。でも学校から帰ってきて、玄関に男物の靴が並んでいるだけで憂鬱になっちゃうの」
 三人で出かける時、私の行きたいところや食べたいものがないか気遣ってくれる母の恋人は、いい人なんだと思う。長年一人で苦労した母にも幸せになってほしい。でも、既に私に対して父親のように振る舞うあの人と、それを笑って見てる時のお母さんが、どうしても好きになれない。「友達と約束してるから」と嘘をついて逃げる私を見送るお洒落したお母さんは、娘を止めようとはしなかった。

 甘い炭酸が身体にしみる。見上げた空には子供の時と同じく眩しい夏が広がっているのに、心の中は、あの頃のような健やかさを失っている。
「そんなもんじゃねえの? 知らねえけど」
 百ちゃんが傾けた瓶の中でビー玉が泳いでいる。彼の家の事情を考えたら、無神経な愚痴かもしれない。でもこういう時、他の誰かに話してもきっとこんな気楽な言葉は返ってこないだろう。

「居心地悪い時は俺の家来ればいいだろ」
「百ちゃん部屋に入れてくれないじゃん」
「それは、」
 百ちゃんが困るのを分かっていて意地悪を言った。中学では私を苗字で呼ぶようになった百ちゃんは、高校へ行ったらこうして渋々遊びに付き合うこともしてくれなるかもしれない。このまま月日が流れて、そのうち百ちゃんが他の女の子を部屋にあげるかもしれないと考えると、私は心臓がぎゅっと縮こまる。

「幼なじみのままで、いたくない」
 頬に熱が集まる。あの頃のような健やかはないのに、駆け引きするにはあまりにも、今の私は幼なかった。むこうを向いてしまった百ちゃんはしばらく黙っていたけど、ラムネを飲み干すとベンチの上に瓶を置いた。

 向き直った百ちゃんは見たことのない、真剣なくせに照れた表情をしていた。うるさいほど響く自分の鼓動が、百ちゃんの鼓動のような錯覚を覚えてしまう。
「ただの幼なじみだと思ってねえから、入れなかったんだろ」
 本当は分かっていた。でも、私の拙い吐露に、百ちゃんらしいぎこちない言葉が返ってきたことが嬉しい。

「手出せ」
 百ちゃんに言われて、おそるおそる手を差し出した。冷たい瓶を握っていたのに汗ばんでいる気がして、一度引っ込めようとしたけど、すぐに百ちゃんの手のひらが上から重なる。

 もう、ずっと触れていない手だった。自分の手をすっぽりと包む手は骨ばっていて、こんなに大きくなったことに驚いた。甘い熱がじわじわと、炭酸のように痺れとなって、全身に広がっていく。

「こういうのはまず、手繋ぐとこからなんだろ?」
 チャリだと繋げねえからな。そう言って握りしめる感触はしっかりしているのに優しさがあって、私はもうずっと、百ちゃんのぶっきらぼうな優しさに救われてきたことに気づいて涙が溢れそうになった。もっと大人になったら、恋に夢中になる母へ寛容になれるのかな。そう思うくらい、もう百ちゃんに全部明け渡したくなっている。

 あの頃より少し大人になった空に、積乱雲が流れていく。蝉の声が幾重にも重なって、青くさい私たちをすっぽりと包み込んでいた。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る