甘言蜜語




 尾形が師団通り沿いのその甘味処に初めて訪れたのは、北海道の長い三寒四温が過ぎたばかりの、春の昼下がりであった。

 同僚の宇佐美に連れられるようにして来たその店は、至って変わらないごく普通の甘味処である。甘いものを好んでは食さない尾形は壁に張り出された品書きを見てもそそられるものはなく、無難な汁粉を頼んだ。宇佐美はみたらし団子を。こうして休暇に宇佐美と行動を共にすることは珍しくはなかった。自分に害をなす可能性をはらんだ変わり者として互いを認識している二人に、同志としての信頼など欠片もない。しかし、真面目過ぎる新兵を揶揄って遊ぶなどの付き合い方が、この二人に悪友の如き妙な親しさを持たせていた。

「あの、すみません」
 今しがた注文を取った若い女給が、また二人の席に来た。店は日曜ということもあり賑わっているが、前がけをして表に出ているのは彼女一人だけだ。注文した品を持ってきたわけではないらしい。

「先程、神永様というよくここへ来られる軍人の方がこれを忘れていかれて、ご迷惑ですが、もしご存知の方でしたらお届けしてほしいのです」
 女が両手に大事そうに持っている煙草の箱は、酒保(兵営の売店)で買えるものだ。神永という名に尾形はすぐに、いつもへらへらとした一等卒の顔が浮かぶ。

「分かりますよ。気を遣わせてしまいすいません。ちゃんと届けますのでお預かりしますね」
 宇佐美が煙草を受け取る。よそでの猫を被った宇佐美の愛想の良さに、尾形は鼻白んだ。女は丁寧に礼をして呼ばれた客の元へ向かう。注文を取り、店の奥へと引っ込んでいく女から、宇佐美は目を離さない。

「なるほどねえ」
「何がだ」
「最近ここの甘味処の女給が、師団で噂になってる」
 ついて来いと言うから何かと思えば、くだらない。男所帯で女に飢えている兵士たちのそういった噂話に、尾形は一度も興じることはなかった。きびきびと働きながら客一人一人に笑みを向ける女を、さりげなく目で追う。まだ幼さの抜けきっていない顔立ち。雪のように白い肌と薄い唇が、品の良さを滲ませている。たしかに、何人かの男の客がちらちらと彼女に視線を運び声をかけているところを見ると、甘味が目当てで来ている客ばかりではなさそうだ。女が注文の品を運んでくる。それ以上の興味は湧かない尾形は、喉を焼くような甘い汁粉を食べるだけだった。

「賭けようか」
 だから帰り道、彼女から受け取った煙草の箱を宙に投げて歩く宇佐美が言ったことに、尾形は眉をひそめた。
「どっちがあの子と逢い引きできるか」
 これを持ち出すために今日自分を付き合わせたのだと分かると、くだらなさに鼻で笑った。宇佐美があの女を気に入ったことは好奇に光る目で明らかだったが、自分がその賭けに乗ったところで何の得もない。

「アホくせえ。付き合ってられるか」
「まあモテない上に腰抜けな百之助に女が口説けるわけないか」
「あ?」
 しかし挑発には弱かった。正確には、同じ階級で、互いに「こいつにだけは負けるか」と張り合っている宇佐美からの挑発は、覿面であった。

「誰がモテねえだ。お前よりは女が寄ってくるんだよ」
「百之助が女の子と話してるところ見たことないんだけど」
「これで分からせてやる。いくらだ」
「三円」
「上等だ。負けても吠え面かくなよ」
 あんな女どうでもいい。でもこいつから金が巻き上げられるなら乗るなら充分だと、尾形は百戦錬磨の如き大見得を切ったのだった。


 尾形が宇佐美の挑発に乗ったことを後悔するまでに時間はかからなかった。女の口説き方など知るわけがない。尾形にとって色恋など、己の人生で最も必要ない、知ろうともしてこなかった感情である。他人に心を寄せることなど馬鹿げている。たとえ女と逢い引きしたところでその先どうこうなるつもりもないが、いまさら不戦敗を申し出るなど意地でも御免だ。

 次の日曜日。尾形が気が進まないまま甘味処へ出向くと、女が顔をほころばせて迎えて、思わず視線を逸らした。この手の何の穢れも知らないのだろう無垢な笑みが、尾形は苦手である。

「いらっしゃいませ。今日はおひとりなのですね」
「まあ、はい」
 店は前回よりも空いていた。時間帯なのだろうが、女と距離を詰めるために会話が必要なことを考えると、このくらいの店の落ち着きようがちょうどいいのだろう。宇佐美も今日来るのだろうか。

「ご注文はいかがなさいますか」
 また汁粉にしようとして、喉を焼く甘さを思い出し、壁に貼られた品書きへ目を移した。
「じゃあ、くず餅で」
「かしこまりました」

 女が席を離れると、尾形はこれから自分が射止めなくてはならない女を、窓の外を眺めるふりをしながら観察した。二十歳は超えていないだろう。以前、宇佐美と市内にあるカフェーに入ったことがあるが、あそこで見た、慎ましやかにと教育を受けたのだろう女給たちよりもあどけなく見える。それでも給仕を一人で回しきびきびと働いている姿は、女を気丈な娘に見せた。
 朗らかさの中にしとやかさのある声で客と話している。尾形の前の卓に座っていた客が帰り、女が食器を片付けて卓を拭く。窓の外からツバメの鳴き声が聴こえると、顔を上げて、そして尾形と目を合わせて微笑んだ。もうすっかり春ですね、とでも言うように。誰にでもこういうことをしていれば勘違いする男も出てくるだろうと、尾形は心の中で冷ややかになった。

 目的のためにこの女を口説くだけの自分が絆されることはない。しかし、何を話して逢い引きまで距離を詰めればいいか分からず、その時点で宇佐美から遅れを取っているのだろうことに焦りが募る。

 飴色の粉をかけた餅は寒天のようになめらかだった。くず餅を浸す黒蜜がやはり尾形にはいささか甘過ぎたが、くず餅の食感の軽やかさのおかげで喉越しが良かった。勘定の際それを伝えることにしたが、いざ彼女と向かい合った今、言葉が上手く出てこないまま口をもごもごさせている。

「あ、その、美味かったです」
「気に入っていただけたなら嬉しいです」
 ここで宇佐美なら「気に入ったのはそれだけじゃないんだけどさ」とか歯の浮くような台詞で口説きにかかるよだろうか。自分が口にすることを考えただけでぞわりと肌が粟立つ。しかしこのままでは先を越されてしまうと、尾形は無理に言葉を続ける。

「気に入ったのは……それだけじゃ」
「はい」
「…………茶も」
 これは本心だ。初めて来た時に気づいた。茶葉がいいのもあるだろうが、兵舎の生活で飲むことはない丁寧にいれた味がした。

 彼女が花開くように笑う。その眩しいかんばせに、尾形は居心地の悪さとは違う、照れくささに近い感情を初めて覚えて身体がかっと熱くなった。胸の奥がこそばゆい。自分に向けられる純真な笑み。誰にでもこういう女なのだ。俺は心など動かされるものかと、平静を装って店を後にする。
 ――甘いものなど好きではないのだ。


***


 宇佐美との賭けに勝つために、尾形は甘味処へ通った。宇佐美とは店の中で鉢合わせることはなかった。自分がどのくらい彼女と親しくなっているのか聞き出そうとしてはニヤつく宇佐美に余裕を感じて腹が立つ。早くこいつを出し抜かなくては。尾形にとってはただそれだけであるはずなのに、自分を迎える笑顔が胸をこそばゆくさせる。彼女のいる空間が落ち着かない。自分へと話しかける声が鼓動を早くする。軍の生活の中でも、彼女のことが頭に浮かぶ時間が増えていく。やめろ、甘いものなど好きではないと雑念の如く振り払おうとも、尾形の思考は休暇のひと時の甘さに絡め取られていった。

「こちら、よかったら食べてください」
 彼女が尾形に小さな紙袋を差し出したのは四度目の勘定の時だった。それなりの世間話を交わせるようになった。何度も店に足を運ぶ自分に、彼女も親しみを持って接しているのが伝わってくる。

「うちで作った柏餅です」
 尾形の手を取って紙袋を握らせた彼女は、「でもみなさんには内緒ですよ」と小声で言って微笑んだ。
 こういうことを、誰にでもするのだろうか。いや、少なくとも他の客に触れたりはしていなかったはずだ。彼女との距離の詰め方に慎重だった尾形は、その悪戯な笑みに後押しされる。

「――さんとお呼びしても構いませんか?」
 常連客が「――ちゃん」と呼ぶ彼女の名前を、世間話を交わすようになってからも尾形は口にできずにいた。どの頃合いで切り出せばいいか分からなかったのだ。

「もちろんです。そしたら、」
「尾形です」
「尾形さん」
 初めて彼女が、自分の名前を声にする。軍帽のつばをもって深く被り直した尾形は、「こちらいただきますね」と言って戸をくぐった。
「またお待ちしております」

 ぬるい風が吹く向こうで、ようやく花開いた桜が枝を揺らしている。そんな北海道の遅い春を眺めながらも、尾形の手の甲はずっと、自分に躊躇いもなく触れた、やわらかな感触を覚えていた。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る