その花を手折らないで



※モブ女→夢主⇄尾形の話。夢主の名前が変換されます。
※作中に反倫理的、犯罪を仄めかす描写があります。



 尾形百之助を紹介されたのは、名前の職場の最寄り駅で一緒にご飯を食べた、冬の夜だった。
 
 駅の改札前で、名前が前を歩いていた黒のコートを着た男へ駆け寄って、肩を叩いたのだ。振り返った顔に私は見覚えがなくて、最初は名前の職場の人間かと思った。私たちより少し歳上に見える、草臥れた、とっつきにくそうな男。ああいうタイプには自分から近づきたがらないはずなのに、彼女が屈託なく話しているのが驚きだった。
 
 追いついた私に名前が男を紹介する。「どうも」と言って頭を下げた尾形という男は、私に興味なんてなさそうだった。私の挨拶もおざなりだったと思う。感情の起伏のなさそうな虚ろげで真っ黒の瞳に、気味の悪さを覚えたからだ。
 以前、名前が映画館へ落としていった定期を、同じ映画を観ていた人が走って届けてくれたことを聞いていた。それが尾形だったらしい。以来レイトショーで顔を合わせては感想を語り合う仲だと話す名前に、尾形は薄く微笑んでいた。
 
 ホームへ上がる前、尾形は「またな」と言って、名前の頭に手を置いて去った。ごく自然な触れ方だった。その馴れ馴れしさにざわざわとした不快感が胸の中を蠢いて、名前に呼ばれるまで、私は尾形の背中から目が離せなかった。
 
 暖房の効き過ぎた電車へ乗ってからも、名前は尾形について喋り続ける。
「尾形さんの会社とうちの職場が近くてね、お昼どこ食べに行くかって話になった時に『裏通りの定食屋が美味しい』って言ってたの。職場の子たちはみんなお洒落なイタリアンに行きたがるけど、私も定食屋の方が好きなんだよね」
 
 映画の趣味も合うんだと言って、私の観たことない映画をいくつも挙げる。この前配信で観ていた、名前が絶対選ばなそうな映画が尾形に勧められたものだと気付いた私は「でもさ」と言って、話を遮った。
「あまり男の人と仲良くなったら、××くん心配になっちゃうんじゃない?」
 ガタンと、線路を踏んだ電車が大きく揺れた。ふらついた名前を華奢な腕を持って支える。体幹が弱い名前は最近一緒に通い始めたピラティスでも全然同じポーズを保てなくて、私は手を上げて片足で立っていられない名前に吹き出さないよう必死だった。
 
「大丈夫だよ。尾形さんとは別にそういうんじゃないもん。尾形さんに私が彼氏いること言ってるし」
 疚しさなんてなさそうに名前は言ったけど、本当のところ怪しいと思った。尾形と話している時の名前の瞳は、ガラス細工が陽の光に反射しているようにきらきらしていた。ああいう表情を、私は久しく見ていなかった。
 
「××くんとはどうなの最近」
 でもこれ以上、尾形の話をしたくなくて話題を変えた。
 名前の彼氏とは何度か三人で食事をしたことがある。人の良さを取ったら何も残らない男。名前の愚痴は増えていくけど別れる決定打もないまま、それなりの月日が流れている。
「全然ダメ。旅行のこともずっと言ってるのに、何も計画立ててくれないんだよ?」
「なら私と行こうよ。二人で浴衣着て食べ歩きしよ」
「そうしようかな。――と行った方が絶対楽しいし」
 
 電車を降りて小さな駅を出ると、川沿いに高い土手の上を歩いていく。河川敷の乱暴な風は、つんとする冬の匂いがして鼻先を冷たくした。
 
 気の合うはずの女友達と行ったはずの旅行が、意見の違いや宿泊先の過ごし方の違いで険悪になったという話をたまに聞く。そんな懸念が浮かぶまでもなく間口の狭いアパートの玄関を過ぎ、階段で三階まで上がる。
 私たちの家。鍵を回して電気をつけると、見慣れた内装にほっと息をつく。五年前に二人で選んだ家具は、馴染み切ってそこに佇んでいる。
 
「明日のご飯何?」
「さっき食べてきたのにもう明日の夕飯の話?」
「外食も好きだけど――の作るご飯が一番美味しいんだもん」
 名前が悪びれもなく子供みたいに笑う。お揃いのマグカップが並んでいるキッチンに、名前は洗い物以外では立たない。ルームシェアを始めた時にちっとも料理ができなかった名前に、それ以来私がやらせてこなかった。
 
 お互いの自室よりもリビングに二人でいる時の方が多い。仕事の愚痴も、デートの話も、名前はここで何でも私に共有してくる。お風呂を沸かしに行ってからソファに座った名前が、誰かにメッセージを打っているのが後ろから見えた。
 
 尾形のことは定期を拾ってもらったこと以外、今日まで何も知らなかった。あの手を思い出して、また胸のざわつきがぶり返す。
「明日久しぶりにお弁当作ろうか」
「いいの?」
 無邪気な笑顔が振り返る。名前は気付かない。“親友”の感情にも。そのせいで自分がどこにも行けなくなってることにも。

 ***

「尾形さんですよね? こんにちは」
 メニュー表も見ずに店員に注文した男へ声をかけた。顔を上げて会釈した男は、二ヶ月前に会った私をちゃんと覚えていたようだ。
「ご迷惑じゃなかったら、相席しても構いませんか?」
 数瞬間を置いて「どうぞ」と言った尾形は明らかに私を歓迎していないけど、躊躇わずに向かいの席に腰を下ろす。
「ありがとうございます。今日仕事でこっちまで来たら、偶然尾形さんが入っていくところが見えたので」
 
 本当は尾形の職場から後をつけてきた。オフィス街の定食屋はサラリーマンでひしめき合って、店員は混雑に負けじと声を張り上げるから、店の中は活気づいている。お互い愛想や世間話で場を取り繕わない私たちの間にだけ、張り詰めた空気がただよっていた。
 
 名前が夕食を外で食べて帰って来る日が増えた。会社の後輩や彼氏だと話す名前は香り立つような上機嫌を隠しきれていなくて、スマートフォンを盗み見たら案の定、会っていたのは目の前の男だった。
 
「名前がいつもお世話になってるみたいで、ありがとうございます」
 尾形は答えない。静かな黒い目は、これが友人からの感謝なんかではないことに気づいている。
「でもあの子天然なところがあるから、尾形さんにご迷惑をおかけしたりしてませんか?」
「天然、まあそうですね」
 何かを思い出したかのように鼻で笑う尾形が癪に障る。お前があの子の何を知ってるっていうの?
 
 注文が来て「すみませんがお先に」と言って箸を割った尾形は、食べながらぽつりぽつりと話し出す。
「待ち合わせしたところと、全然違う場所にいたりはします」
「昔から方向音痴なんです」
「へえ。でも迷惑なんかじゃありませんよ。そういうところもいいと思ってるので」
 平然と名前への好意を口にする尾形に、怒りを通り越して呆気にとられてしまった。名前をもう自分の女にでもしたつもりなのだろうか。

 今までにも名前に粉をかける男はいた。でも大半が、恋人がいることを知れば大人しく引いた。あんな彼氏よりマシな男はいくらでもいるだろうけど、真面目な名前が目移りすることはなかった。
 でも、この男は違う。この男に惑わされている名前が日ごとに心あらずになっていくから、私は今日ここまで来ている。
 私の注文が来た時には尾形はあらかた食べ終えていた。言うべきことを言い終える前に席を立たれてはまずい。
「尾形さん、名前から彼氏がいることは聞いていると思うんですけど、そのことについてはどうお考えなんですか?」
 尾形の箸が止まる。ジロリとこっちを見るこの男に自分の立場を分からせたくて、私は言い淀むことなく続けた。
「口を挟みたくはないんですけど、名前の彼氏とは仲良くさせてもらってて、変な心配をかけたくないんです。あの子は可愛くて誰にでもあんな感じだから、よく男の人が勘違いしちゃって。彼氏に一途な子なので尾形さんが何か期待してるのなら」
「聞いてないのか?」
 じっと見据えてくる尾形が遮るように言った。その言葉の意味が分からなくて、ここまで言われたのに尾形の口ぶりは余裕をはらんでいて、嫌な汗が背中を伝う。
 引き戸を開け閉めする音や、店員の挨拶や、厨房で油が跳ねる音が、全部鬱陶しい。
 
 尾形の口角が弧を描いた。名前の前で浮かべた笑みとは違う勝ち誇った表情に、胸の中がカッと熱くなる。
「別れたの?」
「本人に聞けよ」
 混乱する私に構うことなく、尾形がまた食べ始める。
 そうなればいいと思っていた。でも絶対、私より名前に近づくことのできない彼氏に安心していた。名前に自分を選ばせた男への嫉妬で、唇がわななくのを堪えるよう奥歯を噛み締める。
 
「ひとつ聞いていいか?」
 伝票を手に取った尾形は、店内の音に掻き消えてしまうくらい声を落として言った。
「あいつの右の耳が弱いのも昔からなのか?」
 憎しみが噴き上がる私をまたほくそ笑んで、尾形はさっさと席を立つ。手元の味噌汁でもかけてやればよかった。握り締めた拳に爪を食い込ませながら、私は頭の中で尾形をすり潰した。

 
 その夜、名前に尾形と会ったことを伝えた。洗濯物を畳んでいた名前は手を止めて俯いていたが、少しすると腹を括ったように顔を上げた。
 
「まだ付き合い始めたばかりだから。もう少ししたら言うつもりだったの」
「何ですぐ言ってくれなかったの?」
「だって――、尾形さんのことよく言わないじゃん」
「当たり前でしょ? 名前に彼氏がいるって分かってるのにあんな馴れ馴れしい人。結局名前とそうなることが目的だったじゃん」
 
 感情的にならないよう努めても、棘のある言葉が口をついて出てくる。今まで自分の恋愛を全て私に話していた名前が、尾形のことは隠していたのが殊更にショックだった。
 
「違うよ。尾形さんが××くんのことずっと気にしてたから言ったんだよ?『彼氏に心配させるからもう会わない方がいい』って。だから私、」
「何それ。はっきり付き合って欲しいって言うよりすごい卑怯な言い方なの分からないの?」
 あいつ、見た目に違わず姑息な男だった。その気にさせるだけさせて、試すように名前に選ばせるなんて。
「何でそう悪く取るの!? 私が尾形さんを好きになったから、××くんと別れただけなのに」
 頑なに尾形を庇う名前は、言い合いの末に興奮して涙ぐんだ。肩を震わせて潤んだ目で私を睨む名前は、もしかしたら初めて、本気で人を好きになったのかもしれない。
 
 何を言われようと尾形との恋愛を私に邪魔させない。
 今までの名前にはなかった強情さは、私たちの間にたしかな溝を作っていった。
 
 ***

 名前が尾形と一緒にいる時間が長くなっていくほど、名前が遠のいていくのが怖かった。
 
 こんなことが知られたら軽蔑される。でも、自らの感情を押し込めて守ってきたものを台無しにしてしまうことへの理性よりも、尾形にのめり込んでいく名前のことをせめて把握していたいという欲が、上回ってしまう。
 
 その日も浴室からのシャワーの音に焦燥感を覚えながら、真っ暗な部屋の中で名前のスマートフォンに以前盗み見たパスコードを入れた。トークアプリを開くと、やりとりは十五分前の尾形からのメッセージで止まっている。
 
【明日何時頃来る?】
【夜この前行った居酒屋行かないか?】
 
 毎日他愛ないやりとりを続ける意外にマメな尾形に苛立ちながら画面を遡っていたが、一昨日に尾形から数件URLが連投されているところで指を止めた。
「何これ」
 そのうちの一件を開いた私は、ぴしりと顔が強ばったのが分かった。
 不動産会社のサイトだった。築浅に見えるマンションの写真と間取りが表示されていて、名前と尾形の会社の最寄り駅から一駅の1LDKらしい。
 尾形が同棲という形で、私から名前を引き剥がそうとしている。
 
 「――がいないと何もできないよ」と笑う名前に満たされながらも、幼い頃から結婚に夢を見ていた名前とのルームシェアが、延々と続かないことも分かっていた。それでもよかった。でも、名前が尾形を選んで私から離れていく将来に現実味が帯びると、心臓がぎゅっと握り潰されているかのように苦しい。
 
【ありがとうございます!二番目のところ、お風呂が広そうでいいなと思いました】
 
 名前はこうして尾形が物件を探していることが嬉しくて、もう私のことなんてどうでもいいのだろう。たとえ恋愛感情で結ばれる間柄になれなくとも、誰よりも名前に大事にされていることを拠り所にしてきた自分が、ひどく惨めだった。
 
 これ以上見ても虚しいだけだと思ってトーク画面を閉じようとした時、スマートフォンが短く震えた。
 
【何してるんだ?】
 
 バナーに表示されている新着メッセージ。ひゅっと喉が鳴って、動揺のままに電源ボタンを連打した。情けない自分の表情が暗転した画面に映っている。
 
 メッセージが既読になってしまった。内側から胸を叩かれているような鼓動を打ちながら、私はもう一度震える指でトークアプリを開いた。
 名前に盗み見ていたことがバレてしまう危機が迫って、ぐらぐらと床が揺れる。
 
 どうしよう。名前になりすまして返信してしまおうか。それで自分の返信ごと消してしまえば。でも、名前が戻ってきてからやり取りに行き違いが生まれてきたらどの道ばれてしまう。
 静かな部屋で、自分の荒い呼吸だけが聞こえた。
 
 尾形のメッセージを長押しする。消してしまえば元には戻せない。しばらく逡巡していたけど、風呂場のドアが開く音が聞こえて、慌てて削除のボタンを押してしまった。ベッドの上へスマートフォンを元通りに置いて、逃げるように部屋を後にする。大丈夫。名前がその前に来ていた尾形からの連絡を返信すれば、そこまで怪しまれることはない。
 
 そう、名前の入浴前に尾形からメッセージが来ていたから、名前が返信するまで来ることはないと踏んで開いたのに。
 
 少し焦りが弛んだところで単純な違和感に気づいて、もう一度スマートフォンへ振り返った。
 
 付き合う前からの二人のやり取りを全て遡った。【仕事が長引いて今帰り】【新人の歓迎会でした】と毎日自分のことを報告し合っている二人が、改めて相手に今何をしているかを聞くメッセージを送ったことは一度もなかったはずだ。
 スマートフォンに繋がれた充電コードが床下へと伸びている。最近、睡眠アプリのせいか電池の減りが早いと言っていた。
 
【何してるんだ?】
 
 ぞわりとした悪寒が走って、二の腕が粟立った。もし、もし“私への牽制”だとしたら? 
 部屋の暗闇からさらに真っ黒なあの双眸がこっちを見ている気がして、私は慌てて扉を閉めた。
 
 名前にそれとなく確認させる方法もある。でも確かめたところで、自分も同じことをしている証拠を尾形に握られているのだ。
 
 尾形がメッセージのことを名前が言及しないか。名前が部屋に入ってから、私は心を縮ませて一夜を過ごした。
 

 ***


 初めて来た街は私たちの住む街と似ていて、駅を出てしまうと繁華街のような賑わった場所はなかった。初夏の日差しが短く落とした影を踏みながら、街に馴染んだパン屋やクリーニング屋を通り過ぎ、やがて人通りのない住宅街へと入っていく。
 
 首筋に汗が滲むのに、暑さは感じなかった。二人とばったり出くわさないか神経を尖らせながら、ゆっくり歩いていく。
 こんなことをしてどうするというのだろう。見つかれば、今度こそ言い逃れができない状況になるというのに。
 
 異常な男だと、初めて会った時に直感していた。その直感が確信に変わっている今、私は妙な昂りを覚えている。名前を案じながらも“やっぱり”と、尾形を否定したくてたまらない自分がいるのだ。
 
 グレーのアパートが見えてくると、足を止めて唾を飲み込んだ。住所は知っていた。方向音痴な名前に、尾形がメッセージで住所を送っていたから。忍び足で正門に入り、部屋のドアが連なっている玄関側ではない、庭の方へと回る。
 誰かが出てきて呼び止められないか怯えながら、一番奥の105号室の前へ来た。聞き慣れた、でもしばらく聞いていなかった澄み切った笑い声が隔たりなく響いてきて、思わず身を竦ませた。
 
 紺色の厚いカーテンで片側が閉ざされている窓は、もう片側が網戸になっていた。二人の声がすぐ近くで聞こえて、指先まで鼓動が伝わってくる。
 
 何をやってるんだろう、私。戻らなきゃ。我に返って怖気づきながらも、カーテン側の窓に身を隠して網戸の向こう側へと目を凝らす。ぼんやりと輪郭が見えて、さらに顔を近づける。
 
 暗色系の家具が最低限置かれた部屋はすっきりしていて、その中にベッドの縁を背もたれにしている尾形と、後ろから抱えられるように座る名前がいた。二人で一つのスマホを覗き込んでいる姿に胸の奥が冷えたけど、画面を見つめる名前は時折擽ったそうに笑い声をあげている。
 自分の腕よりずっと太いその腕がお腹に回っているのに、安心しきってくつろいでいる名前。私が初めて尾形と会った日から、二人が親密な時間を過ごしてきたことを改めて思い知らされた。あの日からしこりを残したまま、家の中で硬い空気をただよわせた私たちとはまるで違う。
 
 前はあんなふうに、私に笑いかけてくれていたのに。
 この男のせいで。
 当たり前のように名前に触れる尾形への嫉妬で、目の奥に力が入る。
 
「可愛いね仔猫。里親さん見つかるといいけど」
「顔の広い奴だから大丈夫だろ」
「でもいいなー、仕事から帰ってきてうちに猫いたら」
「ペット可のところにするか?部屋」
 尾形の言葉で、私は昨日のもう一つの衝撃を思い出した。
 よく見たらシンプルな部屋の所々には、名前の好きなキャラクターのぬいぐるみや、うちで使っていたはずのタオルケットが置いてある。ほとんど毎週末名前が泊まりへ来ているそこは、男女が共に暮らす甘い雰囲気が伝わってきた。
 
 今、名前は幸せで仕方ないのだろう。私のことなんて顧みないくらいに。むしろ私に尾形との恋愛を反対されて気まずくなっている今、同棲は渡りに船なはずだ。
 
 向かい側から強い風が吹いてきた。網戸を抜けた風は閉ざされたカーテンを靡かせるから、慌てて身を屈めた。地面に蹲る自分の惨めさに瞼が熱くなってくる。
 名前が尾形と過ごしているところを見て傷つかないはずがないのに、どうして来てしまったのだろう。
 
「尾形さん、そのことなんだけど」
 先ほどまでとは違う、名前の改まった真剣なトーンの声が聞こえてきて顔を上げた。
「尾形さんと暮らせるのはすごく嬉しいの。ただ、すぐには難しいかなって」
「同居人のことか?」
 尾形の言い方には悪意があった。自分のことで私たちに距離ができたことは聞いているのだろう。
 
 再び部屋を覗くと、名前は尾形の腕から抜けて隣に三角座りしている。
「今気まずいからって、尾形さんのところに逃げるようにしてルームシェアを解消するのは嫌なんだ。それに──は私にとってもう家族のようなものだから。やっぱり離れることを考えると辛くて」
「同居をやめたって友達は続けられるだろ」
「もちろんそのつもりだし、近い将来尾形さんと暮らしたいよ?でもその前にもう少し、──と過ごす時間がほしいの」
 
 涙が頬を伝って、地面へと落ちていく。
 もう、私のことなんて邪魔なんだと思っていた。でも、今は尾形との同棲より自分との時間を選ぼうとしている名前を知っただけで、一生告げるつもりのない愛が報われるように嬉しい。
 
「それに私、料理全くできないんだよ?尾形さんと暮らす前に少しは──に教えてもらわないと迷惑かけちゃう」
「そんなの俺がやればいいだろ」
「でも」
「何か吹き込まれたのか?」
「何かって、……──に?」
 尾形の声は鋭さを帯びていた。尾形の方を向く名前の表情は見えないが、部屋に広がる冷えた沈黙で、名前が尾形の機嫌を損ねたことに緊張しているのが伝わってくる。
 
 恋人を監視しているような男だ。食い下がったり声を荒らげるかもしれないと思い固唾を呑んで見守る。
 
 でも、少しすると尾形は名前に笑みを作って頭を撫でた。
「冗談だ。そうだよな。もっとお前と一緒にいれたらと思って言ったんだが、急だったよ」
「ううん、探してくれてたのにごめんね」
「別にいい。いつでもそれなりのところは空いてるだろ」
 ほどけた空気の中で名前が安心して笑って、私も肩から力が抜けた。
 
 表面上は名前を尊重している。でも、ああやって私のことを問い詰めるあたり、やはり普通ではないのだ。そのことに早く、名前が気づいてくれれば。
 
 尾形と暮らすまでに名前が心変わりすることに、淡い期待が胸に膨らむ。すると、尾形が名前へと向き直って、華奢な肩を掴んでキスをした。
 
 思わず声が漏れそうになって口元を抑えた。こういう場面を見ることだって充分ありえたのに。いざ目の前にすると狼狽えてしまう。逃げ出したい気持ちとは裏腹に、足元が縫い付けられたようにその場から動けない。
 
 素直に口付けを受け止める名前の表情は健気で、少しも美しさを崩さなかった。二人の唇のすき間から舌がのぞいて、興奮と嫉妬で胸が熱く痺れていく。尾形はベッドの縁に名前を押し付けるように執拗な口付けを繰り返していたが、やがてその骨ばった手を名前の服の中に滑り込ませた。
 
「今?」
「時間なんか決めてないだろ」
「じゃあ窓閉めて」
 
 尾形が慣れた手つきで服を剥いていくと、形のいい胸がこぼれ出た。一緒に暮らしているのに、長らく見ていなかった白い肌が露になる。
 細いくびれを撫で上げてから思うままに揉みしだく尾形は既に昂っているようで、余裕のない息遣いが聞こえてくる。名前が開いたままの窓を気にして、一度こっちへと視線を寄越した。でも私に気づく前に、尾形がつんと尖った頂を吸い始める。
 
「あっ、あ」
「声、抑えないと外に聞こえるだろ」
「んっ、んん、ダメ」
 
 制止を求める声はむしろ欲情を煽っているようで、尾形は名前を窘めながらも、もう一方の先端を意地悪く指で弄んでいる。
 
 男に快感を植え付けられていく名前の姿を見ているだけで、火傷した皮膚に爪を立てるように心が痛い。それなのに、尾形が啄むたびに揺れる乳房を、たまらなく触りたい卑しい自分もいる。
 
 尾形が名前の腰を抱いてベッドに乗せあげる。脱がされたスカートとショーツが床に落ちると、口の中の水分がみるみる干上がっていった。しなやかな曲線を描いてた脚が割り開かれて、腰を屈めた尾形が太腿を抱える。
 
 つま先がピンと伸びたと同時に、名前から聞いたことのないトーンの、悲鳴のような甲高い声が響いた。
 
「あっ、あああ、ンンっ、ひ、ゃあ、あ、あ、だめぇ、溶けちゃう、あつぃ、とけちゃうぅ、」
 はしたない水音と艶かしい声が、交わって届いてくる。下着の中の自分の秘部が、じわじわと湿りを帯びていくのが分かった。額を網戸に押しつけるように凝視している私は、後ろめたさが甘い背徳感に変わっていく。
 
 甲高い声をあげた名前が咄嗟に手で口を塞ごうとしたが、尾形が引き戻して掴んでしまった。
「ほらズルしない」
「は、離してっ、あっ」
「十秒。我慢できたら離してやるよ」
「ぃ、あっ、あ、でき、できないよぉ、あっ、あ、ぅう、あ゛、ん、んんんっ、んっ……、あっ、それダメ、んん、あ」
 
 尾形は震える太腿に挟まれながら執拗に愛撫を続けた。上半身を弓なりにして耐える名前は、すぐに押し寄せてくる快感に呑まれて嬌声をあげてしまう。思い出したように声を抑えて、また呑まれて。とても十秒なんてもたなかった。
 
 少しするとが首を横に振って、大きな波に理性を明け渡した。

「あ、ああっ、も、イク、イッちゃう、んんん゛、」
「おいおい、全然我慢できてないだろ」
「だって、んん、きもちいの、むりぃ、んぁっ、ぁっ、」
「ちゃんとごめんなさいしながらイけよ」
「ぅう、ごめ、ごめんなさっ、あっ、我慢ぇきないのに、イッちゃう、ごぇんなさ、あ、ぁ、あ゛あああぁっ、も、イク、イキます、あ、あッ……!!」
 
 名前が背中を大きく仰け反らせて達したのが分かった。ようやく腕を解放されて脱力したようにベッドに沈んだが、すぐにまた腰を浮かせる。
「ひあ゛ぁああ、も、もぉイッだ、イギました!んっ、指ぐちゅぐちゅ、ゃ、ゃめっ、」
「手離したのに声抑えないのか?」
「んんん゛っ、ぁ、ううっ、んああっ、奥、トントンしなっ、」
 蜜壷を指で掻き回す尾形の声は上擦っていた。はしたない水音が大きくなるにつれて、自分のそこが煮え滾るように熱くなっていく。達しそうになると手を止めることを繰り返して名前を狂わせていた尾形は、四度目でようやく彼女を絶頂に追いやった。
 
 上体を起こした尾形が名前に覆いかぶさって口付ける。さっきまで名前を執拗に攻め立てていたくせに、まるであやすような優しい口付けだった。名前が尾形の頬に触れて小さく何か言うと、尾形が背中をこっちへ向けたまま服を脱ぎ始める。
 
 広い肩幅と、引き締まった背中。そして赤黒く膨張した猛りに目を奪われた。
 あれが今から名前を――。
 名前の中に入ることのできる男が、妬ましくて憎い。私が男なら。あそこにいたのは私だったのに。
 
 枕元のチェストを開けた尾形は避妊具をつけて、名前のそこにあてがって、湿り具合を確かめるように擦りつける。名前が焦れったそうに顔を上げていたが、腰を押し進めた尾形を飲み込んでいくのが漏れ出る声で分かった。
 
 二人の手が重なって、尾形の腰に名前の脚が巻きついて抽挿が始まる。尾形の動きは名前の中を味わうような、緩慢な動きで名前に快感をもたらそうとするような丁寧さがあった。名前は淫らに腰をくねらせて、それを享受している。
 
 尾形が名前の片脚を自分の肩に乗せて跨り直し、律動を早めた。名前はもう、窓のことなんて忘れているかのように喘ぎ続けている。
「あんっ、ん、これっ、すき」
「知ってる」
「あ、ああっ、ま、まだダメ、あっ、んん、あ、あ、あっ」
 
 尾形が片脚を支えるもう一方の手で、傾いた肢体の上で揺れ動く乳房を揉みしだいている。繋がった部分からの水音と、肌が肌を叩く音が私の情欲を掻き立てる。
 下着の中に手を入れて、濡れそぼったそこへ指を這わせた。名前の快楽に溶けた表情。せめて名前と求め合っている錯覚に触れたかった。
 
 名前の限界が近づいて、尾形は脚を掴み直して追い打ちをかけていく。シーツを掻いて悩ましげな顔をした名前を見つめながら、割れ目を前後する指を早めていった。尾形が名前の太腿に自分の腹を数回打ちつけると、名前は全身を痙攣させて達した。
 
 息を乱す名前を仰向けに戻して尾形が抱きしめる。耳に唇を寄せて何か囁くと、名前が擽ったそうに身を捩ってキスをした。身体を繋げているだけではない、愛を交している二人の温度が伝わってくる。また胸が軋むように痛んで、自分を慰めていた熱が虚しい。
 ここで私の愛だけが、ただ宙ぶらりんになっている。
 
 上体を起こした尾形がまだ果てていない自身から避妊具を抜き取った。粘膜で濡れた抜け殻のようなそれをゴミ箱に投げると、惚けた表情のままの名前が顔を上げる。
 
「え?」
 再びそこへ宛てがう尾形に、全身から血の気が引いていった。
 
「いいよな。俺と一緒に住みたいって、そういうことだもんな」
「待って、ダメ!やっ、ぁあ、んんん」
 尾形は焦る名前を無視して、猛りを彼女の腹の中へ収めていく。腰を引いて逃げようとする名前は覆い被さってきた尾形の下に呆気なく閉じ込められてしまった。
 
「抜いてっ、あっ、あ、尾形さ、あっ、抜いて、ねぇ、あぁ、あ、あっ、ううっ、」
「はあっ、すげえ熱い」
 名前を抱きしめたままの尾形は避妊具越しでない柔肉の快感に浸っているようだったけど、名前の爪が尾形の腕に食い込むと腰を前後させ始めた。今までとは比べものにならない勢いの、割れるような音を立てて名前に打ち付けていく。
 
「お願い、んぁっ、ああっ、らめっ!ダメなの、今日、ほんとにっ!ああ、ぁあ、ひぃ、くる、ぁ、ああぁ、ダメッ、きちゃう!!う゛ンンン、ゃ、やめっ、」
 
 名前は喘ぎながらもさっきまでの甘い嬌声とは違う、必死な声色で懇願していた。それにすら尾形は興奮しているようで、一心不乱に、射精するためだけの動きを早めていく。
 
「あ゙あ、出る」
「いやっ!あ、あ、やらやらっ!!ぁあ、やぁ゙、あああああ゙っあ、あ゛――!!!」
 
 唸るような声を出した尾形が、とどめをさすように突いて動きを止めた。名前の手がぱたりとシーツに落ちる。
 「うそ、ぁ、ぁ」と、悲壮な声を漏らす名前が奥へ欲を吐き出されている間、私は息ができなかった。
 尾形が自身を引き抜いた瞬間、白く濁った欲液が名前の中からどろりと溢れ出す。そのグロテスクな光景に口元を押えてしゃがみこんで、せり上がってきた酸の強い胃液をコンクリートの上に吐き出した。

 窓の中から、子供みたいな啜り泣きが聞こえてくる。
「ひどい、……やだって言ったのに」
「こうしないとお前はあの女から逃げれないだろ」
 当然のように尾形が言って、胸が凍りついた。
 尾形にとっては手段なのだ。私にはできない、名前を逃がさない方法。利己的な独占欲に憤りを覚えながらも、私には尾形の腹積もりが理解できてしまう。
 
「尾形さん、何言って」
「それにお前、こんなところ覗く奴とこれからも一緒にいれるのか?」
 暗い、油のように重い声なのにはっきりと耳に届いた。
 名前に言ったんじゃない。窓の外でしゃがみこんでいる私に聞こえるように言っているんだ。
 
 気付いていて、わざと見せていた。
 
「それ、どういう……」
 自分の身体が砂になっていくような心地がした。守り抜いてきたものが、音を立てて崩れていく。
 可哀想な名前。信用していた二人からいっぺんに裏切られて。尾形からはこれからも逃げれない。
 
 部屋の中から足音が近づいてくる。愛おしい日々の終わりを悟った私は、俯いたまま顔を上げれなかった。
 




冷たいラブロマンスを抱いて眠る