第三話




 ベッドに寝転んだ尾形は、まるで魂が口から抜け出ているかのような長いため息を漏らした。仕事納めは明日だ。この仕事を選んだ時に待遇面で唯一のデメリットであった年末年始の休みの短さを、尾形は今年、特に恨めしく思う。

 ベッドサイドに手を伸ばしそれを手に取る。時を切り取った、小さな白黒写真の中の微笑み。いつまた会えるだろうかと毎晩飽きることなく眺めていたその笑みに、今日間近で見た、涙を浮かべ大きな目を見開いたあの表情が重なり胸が軋んだ。
 
 尾形が男の腕を捻り上げたことで車内は騒然とした。
 堅気とは思えない有無を言わさぬ目に怯んだのだろう。男は言い訳を述べることもなく観念したように項垂れていた。他人に無関心だった人々が彼女を気遣い男と距離を取らせ、男は数人のサラリーマンたちに囲まれる。次の駅へ着くと、男の腕を引いて下車する尾形の後をついて彼女も降りた。彼女の顔色がまだ青白かったため、男を突き出すのは自分だけでいいと尾形は言ったが彼女は首を横に振った。

 目撃者の自分でさえ事情聴取となると数時間も拘束されなければいけないのだ。被害者の負担は相当なもので、これでは泣き寝入りする被害者が大半というのも納得だと思いながら、痴漢など今まで他人事だった尾形は仕事へ行ってからもずっと彼女のことを案じていた。

 ようやく二度目の再会を果たせたというのに、彼女と会話を交わす時間などないに等しかった。彼女がほんの数週間前に会った自分のことを忘れているとも思えず、なぜ自分が近くにいたのか警戒されているかもしれない。この機を逃すまいと行動を取ればまるで自分が下心で彼女を助けたようで、被害で傷ついた彼女と接点を持とうなどできるはずもなかった。

 やるせなさにまたため息をついて写真をベッドサイドへ戻す。するとその上に置かれたスマートフォンが振動音を響かせた。

 知らない番号からの着信だ。登録されていない番号からの着信は調べてからでないと出ない尾形だが、今日の出来事からしてまさかと、はやる気持ちを抑えて応答のボタンを押す。
「はい」
「もしもし、夜分遅くにすみません。苗字です。」
 ガラス細工を思わせる、少女のような透き通った声だ。

 彼女だった。向こうからの予想外のコンタクトに、口の中から水分が干上がっていく。
「どうも、尾形です」
「尾形さん、今お時間少しよろしいですか?」
「ええ。あの、どうして番号」
「あれ? 警察署で言われませんでしたか? 私からお礼がしたいから、連絡先を教えてもいいかと」
「……ああ」
 うんざりするほど同じようなことを質問される聴取の中で聞かれたかもしれないが、思い出せない。

「ご迷惑でしたか?」
「そうじゃない。そんな気を遣わずとも構わなかったのに」
「いえいえ。あの、本当に今日はありがとうございました。お忙しい中、事情聴取まで協力していただいて」
「礼を言われることじゃない。当然のことをしただけだ」
 自分がこんな台詞を吐く日が来るとは思わなかった。自分を古くから知る向かいの席の同僚が聞いたら笑い転げるかもしれない。

「とんでもないです。実は、改めて何かお礼させていただきたくて。恐縮ですがご住所などお教えいただければと思ってお電話したんです」
「別にいい」
「そう言わずにどうか」
「礼がされたくて助けたわけじゃない」
「もちろんそれは分かっています。でも尾形さんには本当に感謝してるんです」
 律儀なところも頑ななところも変わらないなと、声を立てずに笑みをこぼした。

「……食事」
「え?」
「仕事終わりに食事に付き合ってもらうとかは駄目か?」
 尾形なりの、一か八かの賭けだ。お礼の品を受け取れば、おそらく彼女とのやり取りはそれっきりになってしまうだろう。しかし食事に行けば親交を深めていくことに繋げやすいと思ったからだ。

 電話の向こうで、逡巡しているのだろう沈黙が続く。
「すまない、難しいならいい。そしたら」
「あ、いえ! ……分かりました! そしたらお日にちは、」
 引き止めるような焦った合意に、尾形がほくそ笑んだ。
 

 ***
 

 翌日、同僚たちからの誘いを突っぱねた尾形が彼女と待ち合わせたのは、会社の最寄り駅のビル内にある居酒屋レストランだった。

 グレージュのコートが昨日とは違うものであることに尾形が気づくと、彼女は苦笑いで「コート、証拠品として提出しなきゃいけなかったんです。」と言った。昨日は倒れてしまうのではないかと思うほど弱りきって見えたが、電話の声と同じく顔色も生気を取り戻しているようだ。

 カジュアルな内装の店内は年末ということもあり賑やかしく、二人のテーブルだけが、互いの関係の薄さを店員でも悟れるような緊張感に包まれていた。彼女はメニュー表を見ながらも気を遣って尾形に食べたいものを選ばせようとするので、尾形がひとまず定番のメニューを何品か選んで注文した。

「まずは改めて、昨日はありがとうございました」
「ああ」
 写真の中ではない生身の彼女が目の前にいる。白磁の肌に、薄い唇。艶のある髪。しかしあの頃より少し痩せている気がする。
 心奪われるままに彼女に見入る尾形を、彼女もその大きな瞳で様子を伺うように見つめていた。

「それでその、思い出したんですが。私、少し前に尾形さんとこの駅のホームでお会いしていますよね」
 尾形の表情が固まった。自分から言い出すつもりではあったが、彼女からすれば恐怖しか抱かなかったであろう初対面のことを本人から切り出され、手のひらに冷や汗が滲む。

「ああ、そうだ。覚えてたんだな」
 動揺を悟られないよう笑顔で返すが、表情筋がヒクヒクと動いて、下手な作り笑いになっているはずだと確信した。

「あの時、どうして私の名前を知っていたんですか? 私、あれより前に尾形さんにお会いしたことはないと思うんです」
「それはだな……あんたは覚えてないかもしれんが、ずっと昔に会っているんだ」
「昔? 子供の頃ってことですか?」
「まあ、そんなところだ」
「……はあ」
 苦し紛れの言い訳に、彼女の表情が初めて再会した時と似た警戒を滲ませたものに変わった。まずい。ここで終わらせないためにも、自分への警戒心はここで解かせないといけないと、尾形の中に焦りが募っていく。

 店員が飲み物と料理を運んできた。カプレーゼとアヒージョに一旦気がそれた彼女を見ながら、尾形はスーツの内ポケットに手を入れる。
「じゃあ、とりあえず乾杯しましょうか」
「待ってくれ」
 まだ納得していないだろう彼女に制止をかける。尾形がそれを彼女に差し出すと、受け取った彼女は不思議そうに目を瞬いた。

「……名刺?」
「あの時はあんな風に呼び止めてすまなかった。だが、俺とあんたが面識があるのは本当なんだ。……あと、俺は怪しい者じゃない。あんたに付き纏って、昨日あの電車にいたわけでもない」
 最後は半分嘘のようなものだが、ここで終わらせるわけにはいかない尾形は彼女の信頼を得るためにも必死だった。

 彼女はきょとんと目を丸くして尾形の話を聞いていた。やっぱり俺では駄目か。そう思った時、突然緩んだ唇から「ふっ」と笑いが吹き出た。
「ふふっ、あははっ」
 遠い記憶と同じ、聞いているこっちが擽ったくなるような笑い声だ。尾形は条件反射のようにむず痒くなって、前髪を撫で上げた。

「笑うところあったか?」
「すみません。でも、怪しいものじゃないって名刺を貰ったの初めてで」
 再会してから初めて笑った彼女に心が解かれていく。普段殆ど揺れ動くことのない感情が、彼女を前にすると右往左往してしまう。

「ごめんなさい。尾形さんのことを怪しんでいたわけではないんです。ただ、尾形さんに会ったことがあるなら忘れるとは思えなくて。ちなみにいつ頃ですか?」
「……相当昔だ」
「何でそこ濁すんですか」
 彼女がまたクスクスと笑った。胸に温かい何かが濁流のように押し寄せてくる。これが愛だということを、今なら認めることができる。

「尾形さん?」
「すまない、何でもない。食べようか。」
 瞼が熱くなる感覚がしながら尾形は微笑んだ。
 二人のグラスが重なる。

 俺はもう、彼女には関わらない方がいいんだろうな。
 彼女への愛おしさに胸を焼かれながらも、尾形は俯瞰してそう思った。

 記憶の戻っていない彼女をあの頃の彼女と重ねているエゴを自覚しながら、彼女の全てが欲しくなっている。自分はこの時代では無害な人間の皮を被ってはいるが、あの頃の所業が消えるわけではない。そんな自分では相応しくない彼女を、相応しい相手との未来を奪ってまでものにして、彼女を幸せにできるのか。

 そして何より、彼女が記憶を取り戻した時、その顔から笑顔が消えて、思い出したくもない昔の恋人の如く拒絶されることが恐ろしい。
 尾形の心中をよそに、互いの仕事のことや地元の話をしているうちに二人の雰囲気はだいぶ柔らかくなっていた。彼女の両親は健在らしく、それだけでも尾形は安堵した。

「昨日のことですけど、」
 彼女が急に緊張感を戻して切り出した。
「ああ」
「あんな満員電車の中で、どうして尾形さんは気づいてくれたんですか?」
「別に、なんてことはない。あんたがいると思ったら、様子がおかしかったから近くへ寄ってみただけだ。」
 やはり彼女はまだ、自分がたまたまあの場に居合わせたことに疑念を抱いているのではないか。身構えた尾形に、彼女は眉を下げて笑った。

「そうだったんですか。……実はあの人、初めてじゃないんです」
 尾形は言葉を失った。駅員へ突き出した時、彼女は一度もそんなことは言わなかった。
「乗車駅が同じで、数ヶ月前から被害を受けてて。時間や乗る車両を変えても、少しすると見つかっちゃうんです。だからあの日も、耐えるしかないって諦めてました」

 尾形は自分がこの数週間、同じ電車同じ車両に乗っても彼女を見つけられなかったことに合点がいった。
「ごめんなさい、こんな話聞きたくなかったですよね」
「いや、今聞いてよかった。あの場で聞いてたら、多分あいつを二、三発はぶん殴ってた」
「それは駄目です!」

 彼女の顔色がサッと青くなる。あの剣幕の尾形ならやりかねないと思ったのだろう。
 ピザが運ばれてきたが、どちらもカッターを手に取ろうとはしなかった。向こうの席で、忘年会に盛り上がる若い男女の笑い声が響いている。

「被害そのものもですけど、誰も気づいてくれないのが辛かったです。でも当たり前ですよね。みんな自分のことで精一杯で、他人を気にかける余裕なんてないですもん。手を上げても相手にシラを切られたら、その場にいる人たちも聞く耳を持ってくれないと思うと、怖くて」

 俯く彼女が更に華奢に見える。両親が病で亡くなることも、盗賊に攫われることもない現代で、彼女はあの頃とはまた別の苦難を強いられていた。自分があの男を捕まえなければ今日もまた彼女は怯えて、人知らぬところで涙を流していたのだろう。

「だからあの時尾形さんが助けてくれて、本当に嬉しかったんです」
 顔を上げた彼女の瞳は微かに揺れていた。春の木漏れ日のような優しくて柔らかい笑顔が、身を引くことを考えた尾形の胸を一直線に射抜く。

 自分のそばで笑っていてほしいと、今度こそ自分が幸せにしたいと思うのは、やはりエゴなのだろうか。

「……そしたら、これからは毎日俺と同じ電車で通勤すればいい」
「え、いえ! さすがにそこまでのご迷惑は」
「違う。俺がそうしたいんだ。あんたがもう危険な目に遭わないように」
 尾形の言葉で、彼女が瞬きもせず黙る。
 エゴだから何だ。
 たとえ記憶を取り戻した彼女に拒まれても、また振り向かせてみせる。彼女にも自分と共に未来を歩きたいと思わせてみせる。

 決意を固くした尾形の申し出を、遠慮していた彼女も最終的には受け入れて頭を下げた。
「そしたら、これからよろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
 尾形が薄く微笑むと、彼女が笑顔を返す。あの頃と変わらない。人の心を包む、花が綻んだような笑みだった。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る