アイラブユーのないプロポーズ




 お互いに気を許し合い、相手を異性として悪くはないと思っている。そんな男女が恋人にならないまま友達として関係を留めることは、そう珍しいことではないのだろう。その関係の居心地の良さに、恋へ発展させることを足踏みしてしている。交友がゆっくりと途絶えていくことはあるかもしれないけど、恋の終わりは往々にしてぶつ切りで、元あった形に戻れることはまずないのだから。

 私もそんな一人。「お互い三十まで独身だったら結婚しよう」という尾形への提案も、半分は本気だった。ずるい私は、どの異性より一緒にいて楽しい男友達を繋ぎ止めていたかった。「冗談じゃねえぞ」とでも返しそうな尾形は「いいぜ」と言って、意外にも軽く私との約束にノってくれた。尾形も結構酔っていたからかもしれない。結婚なんて興味ないようなことをいつも言っていたから。その約束はそれきり持ち出されることはなかったけど、その後も私たちの関係は熟成されていき、尾形は私にとって失うには耐え難い存在になっていった。

 好きになった人に好きになってもらう。あるいは、好きになってくれた人を好きになる。これが歳を重ねるごとに難しくなって、純粋な恋の末に結婚することのハードルの高さに遅らせばせながら気づいたのは、あの約束の満期一年前だった。

「何でこんなに上手くいかないんだろー」
 ジョッキを持ったままテーブルにつっ伏す二十九歳の私の向かいには、やっぱり尾形がいた。今回(も)なぜダメになったのか聞きながら、「だから打ちっぱなしコンクリートの部屋に住んでる奴やめとけって言っただろ」と分かったようなことを言って、嘆く私を肴にウイスキーを飲んでいる。

「だって〜。すごい優しかったし」
「すいません。水一杯ください」
 尾形が店員さんに声をかける。互いの職場から近いこのお店が行きつけになってずいぶん経つ。私に恋人ができると「次はフラれんなよ」という憎まれ口を最後に会わなくなって、別れたことを伝えると週末にはここで待ち合わせている。尾形に彼女がいたのは結構前だ。私のこと言えないくらいすぐに別れてたくせに。

「まだ大丈夫だよ」
「飲み過ぎだ。それで明日また頭痛で寝込むんだからこれぐらいにしとけ」
 尾形が私から飲みかけのハイボールを取り上げて、代わりに店員さんの持ってきたジョッキが前に置かれた。冷たい水を喉に流すと少し冷静になって、こんな酔っ払いに尾形はよく付き合ってられるなと我に返ってしまう。枝豆の殻のような私の恋の残骸を、尾形は全部知っている。

「明日」
「あ?」
「映画行く予定だったの。ずっと観たかったやつ」
「好きな監督のやつだろ? 俺が行ってやるよ」
 こういう時、この男を「好きだな」と思い知らされてしまう。「俺にしとけよ」なんてクサいセリフを言うわけがないし、私が言い寄るものなら逃げてしまいそうな男がこうやって優しいから。何でも言い合える、一緒にいて楽な女友達というポジションを守りながらも、細い期待を断ち切れずにいる。

 客の波が引いて店内が少し静かになった。尾形がグラスを煽ったあと、何か考えている顔をして間を持たせている。
「そいつと結婚する気だったのか?」
「そりゃ、……上手くいってたらね」
 尾形から核心に触れるようなことを聞かれてどきりとした。結婚がしたいわけではないのかもしれない。尾形以上に好きになれる人がほしい。そんなこと考えて恋をしようとしたって、上手くいくわけがないのに。

「昔、ほら、お前言っただろ。三十まで独身だったらって」
 もう尾形はあんな話を忘れていて、たとえ覚えていても本気にしているわけないと思っていた。尾形から異性としての好意を示されたことは一度もなかったから。お酒で温まっていた胸が大きく波打っている。

「俺は結婚なんて興味ないが、……お前がしたいなら、あの通りにして構わないぞ」
 目を泳がせる尾形はそう言ってウイスキーを飲み干した。結婚なんて興味ない。実家の話を引き合いにしてそんなのことを言いながらも、この男は一人で生きていくことを貫くには存外寂しがり屋なことを、私は知っている。私とこうして会ってくれるのも決して、私のことを好きだからじゃない。

 妥協案にしかなり得ない約束をしたのは自分のくせに。いざ、尾形にとって私との結婚が妥協案だと突きつけられるとすごく悲しくなった。私はジョッキの水を流し込んで、財布から出したお札をテーブルに置く。
「何してる」
「私は、私とだから結婚したいって人と結婚したいんだよ。私だけが好きな尾形と結婚したって虚しいだけじゃん!」
「は、おい待て、お前」

 立ち上がる私に尾形は何か言っていたけど、勢いよく店を出てきてしまった。あーあ、やっちゃった。やっぱり飲み過ぎていたのかもしれない。意気地なしの自分がしがみついた、一緒にいて楽な女友達というポジションも自分で終わりにしてしまった。成就することのない恋なのだから、いつかはこうするしかなかったのかもしれない。呆然としたまま帰る間、涙は一滴も出てこなかった。いい大人になると失恋でも泣けなくなるらしい。

 翌朝、起きると頭に鋭い痛みが走って朝から活動を停止させた。そのくせ昨日のことが鮮明に蘇って、ベッドの中でのたうち回っている。

 もう二人で会えることはないだろうなと思いながら、尾形と知り合った大学時代からのことを思い返した。何かに悩んでいる時、お前があれこれ悩んでいることは取るに足らないことだと言うように、邪険な態度の中に優しさを忍ばせて接する尾形が好きになった。でも、彼女ができて、そのあと何の未練もなさそうに別れた尾形を見てから、尾形との繋がりが切れることが怖くなったんだ。

 頭痛が引いてからも大きな喪失感でベッドから起き上がれなかった私を呼んだのはインターホンだった。宅急便には早い時間で、怪訝に思ってドアホンを見たら尾形で驚いた。忘れ物はしてないはず。LINEにも何も来ていなかったし。というか、あんなこと言ってしまった昨日の今日で顔を合わせるの、すごく気まずいんだけど。家まで来るなんて、修復不可能なこの友人関係を惜しいと思ってくれているのかもしれない。そう思ったら取り返しのつかないことをしてしまったことに自分が許せなくて、すっぴんにパジャマのまま出ることに躊躇う余裕もなかった。

「寝てたか?」
「起きてた」
 青空から光が差し込んでくる。その健やかな眩しさに、お互い気まずさを持て余して黙りこくってしまう。でも、私が「どうしたの?」という前に、尾形がジャケットのポケットに手を入れた。

 出てきたのはベルベットの小さな箱だった。尾形が私に見せるように中を開けると、一粒のダイヤモンドが煌めいている。
「これで分かるだろ」
 驚いて言葉の出ない私に、やっぱり尾形はぶっきらぼうで言葉足らずだった。昨日の流れでこれだけ言えば、私に分かってもらえると甘えている。

「サイズは合ってるはずだ」
「どうして?」
「前にお前が雑貨屋でサイズ測ってたの覚えてた」
 それってずいぶん前、私が尾形とあの約束を交わすよりも昔のことじゃない!? ふざけて左手薬指に嵌めた指輪のサイズを覚えてたってこと!?

 唖然とする私に、尾形は不服げに言った。
「お前は勘違いしてるが、俺は適当な考えでああ言ったんじゃないぞ。こんなもの前もって買っておくくらいには、お前|が《・》いいと思ってる」
 無骨で尾形らしい言葉は、ずっと自分が望んでいたものだった。夢の情景のような目の前の輝き。でも、受け取る前に言ってやりたいことはある。

「じゃあ、何でそう言ってくれなかったの? そしたら、」
「お前のそばに、ずっといるために決まってるだろ」
 いい大人の女から、涙が溢れ出てくる。聞くまでもなかった。失うにはあまりに惜しい人との関係を硬直させたままでいたのは、私も同じだから。

「すっぴんでパジャマの時に、プロポーズ受けたくないな」
「不満ならやり直してやるよ。でも今約束してくれ」
 泣きながら受け取った指輪は、ぴったりと私の左手薬指に嵌った。尾形の親指が涙を拭う。

 頬が初めて、尾形の手のひらの温度を知る。遠回りした末に唇を重ねた私たちを、朝日が照らす。このひたむきな口付けを知ることに、遅すぎるなんてない。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る