いとおしき日々



※ロストバージン・バースデーの後日談のようなお話です。



 あの日から一週間が過ぎようとしている土曜日の話。
 お客さんで賑わう昼間の台湾レストランで、私は小籠包を食べている。気をつけていたのに中のスープに熱いまま舌で触れてしまいぎゅっと目を瞑った。すると尾形くんが、卓に置いてあるピッチャーから私のコップに水を注ぐ。坦々麺とのセットを頼んだ尾形くんのお皿はもう空になっていて、私だけがもたもた食べているようで申し訳なくなる。さっき観に行った映画について、原作ファンとして満足した私ばかり感想を話していたせいだ。だって、普段は映画に対しての評価が辛めの尾形くんが、終わった後「結構良かったな」と言ってくれて嬉しかったから。
 
 そんな私の気持ちをすぐ悟ったように、「ゆっくりでいい」と言う尾形くんの口元は少し緩んでいた。
 尾形くんが自分の水を静かに飲む。そして、予め聞こうと用意していたのだろうことを切り出した。
「今何か欲しいものあるか?」
「んー、このあと本屋には行きたいけど、それ以外は特にないかな」
「……あのコーヒーメーカー高かっただろ」
 不意の言葉にちょっとドキリとした。尾形くんへの誕生日プレゼント。ミニマリストなだけに物を買う時はこだわる尾形くんに、なるべくいいものを贈りたかったのだ。
「この後なんか買ってやる」
「お礼ってこと!? いいよ別に」
「俺の気が済まないんだよ」
「あ、そしたらこのご飯奢ってくれたら嬉しいな」
 黙ったまま、尾形くんの視線がテーブルに落ちる。納得していない顔。家でのお祝いだったし、そこまで無理をしたわけじゃないのにな、と思いながら残り二つの小籠包を頬張る。エビ炒飯も美味しい。家でもこういうふうに作れればいいんだけれど。
 
 尾形くんにご馳走様してもらいお店を出てから、手を繋いで近くの商業ビルに入った。前より私たちが親密になったことを、尾形くんの手のひらの温度でより一層思い出す。この一週間、あの夜の記憶を大事に開いては、尾形くんの優しい触れ方や荒い息遣いが頭の中によみがえってきて恍惚としていた。だから今日、尾形くんに会った時すごく照れくさかったのに尾形くんはいつもと変わらない様子で、私だけ舞い上がっていたのかなと思うとちょっぴり寂しい。
 
 一階はバレンタインフェアで特設会場が開かれていた。気になるけど一人で買いたいから我慢。女性客が列をなす横を通り過ぎて、八階の本屋を目的にエスカレーターに乗ろうとしていた。でもジュエリーショップの並びで尾形くんが足を止める。ショーケースの前へと腕を引かれると、その中に銀色のダイヤが光るシンプルなネックレスがおすまししていた。
 
「欲しいのがあったら買う」
「え!?」
「違う店がいいならそこ行く」
「お礼さっきしてもらったじゃん」
「……お前にこういうの買ったことないから」
 尾形くんがショーケースの中をじっと見下ろしていると、店員さんが来て声をかけられる。たしかにアクセサリーはもらったことない。でもまだ付き合って半年も経ってないのだから、別に普通じゃないのかな? 好きなブランドがあるほど詳しくもない(というか同世代の女の子たちに比べて疎いと思う)けれど、繊細なデザインのネックレスはどれも私の好みだ。でも、凛と煌めくアクセサリーたちの隣に置かれた値札はどれもその美しさに自信を持った金額で、私がプレゼントしたコーヒーメーカーよりも全然高かった。
 
「あったか?」
「うーん、可愛いけど今はいいかなあ」
「それはどこで買った」
 尾形くんが私の小指に嵌められたピンキーリングを見て言う。
「これ? 雑貨屋だよ」
「指輪の方がいいか?」
 尾形くんが、私に自分の贈ったものを身につけてほしいのかなと思った。クリスマスに尾形くんに贈った名入れボールペンを尾形くんが会社で使う時、そこにほんの少し私の存在があるようで嬉しいのと同じかもしれない。
 
 そう考えているうちに、これなら欲しいと思うものがぱっと閃いた。でも尾形くんがいいと言うと思えなかったから、そのわがままを呑み込む。一応、指輪の並んだショーケースを見てみる。私が欲しいものはここには置いてなさそうだ。
「こんな高いところの、何でもない時に貰えないよ」
「そうか」
「お礼なんて気にしないで。私の誕生日の時に楽しみにしてます」
 表情を変えないまましゅんとしている尾形くんに、何だか申し訳なくなって少し生意気を言った。愛されていることを実感していても、こういう時上手におねだりできる彼女にまだまだ私はなれないのだと思う。
 
 本屋で新刊を買ってから無印良品やロフトを見て、最後にカフェに入った。限定のホットチョコレートを一口飲んだ尾形くんは、表情で「甘すぎる」と言って私に返した。バレンタインはビターチョコにした方がいいかもしれない。そうやってのんびりとデートをして、尾形くんのアパートに着いたのは夕方だった。
 だいぶ日が伸びたと思う。雲が薄らと桃色に染まった甘い夕空はノスタルジーを感じて、今ここにある幸せを切なくさせる。晩ご飯を作らなきゃ。でも少し疲れたのと、ホットチョコを飲んできてしまってお腹が空いていないのとでキッチンに立つのも億劫だった。映画のパンフレットを読もうと思ってバッグを開く。それより先に、後ろのベッドにのぼった尾形くんに引き上げられて、二人で寝転んでしまった。
 
 尾形くんの胸に閉じ込められると、深く息を吸い込む音が聞こえた。寝る前にベッドに入ることなんてなかったのに。私もこの一週間、ずっと恋しかった尾形くんの匂いを吸い込む。見上げたら自然と唇が重なった。お互いの舌を吸っているうちに尾形くんの手が、私の服をたくし上げていく。
 
「今するの?」
「嫌なら後にする」
 そう言いながらも、尾形くんはブラジャーを外す手を止めない。この前より身体をはっきり見られてしまうのが恥ずかしかったけれど、帰ったらこういう流れになることを何となく分かっていたし、どこかで期待していた。セックスを遠ざけていた尾形くんが求めてくれるようになったことが嬉しい。一度快感を覚えた身体は与えられる刺激に悦んで、尾形くんをほとんど痛みなく受け入れる。空に薄闇が広がっていくことにも気づかず、私たちは長い時間愛し合った。
 
 嵐が過ぎ去った後、もう一度尾形くんの胸の中に入ると微睡みが落ちてくる。このまま目を閉じたら晩ご飯が作れなくなる。起き上がろうとしても「まだいいだろ」と言って私を離さない尾形くんは、こんなに甘えたがりだっただろうか。
 
「今週、尾形くんのことばっか考えてた」
「すけべなことだろ」
「違うもん。……それもちょっとだけど」
「それで? ナニしたんだよ」
「もういい!」
 真面目に話したのに茶化されたから、尾形くんに背中を向けた。こういう下ネタを前は言わなかったのに。やっぱり私ばっかり、会わない間に尾形くんのことを考えていたのだと思うと悔しい。
 
「俺もだよ」
 尾形くんが静かに言って、私の肩に顔を埋めた。
「……えっちなこと?」
「そうじゃない。頭ん中、気づくとお前がいる」
 言葉が私の胸に、深く染みていく。照れ屋のはずの尾形くんのこの言葉は、ほとんど口にしない「好き」よりも、私に気持ちを伝えてきた。
 
 幸せ過ぎるとたまに怖くなる。私たちは今、恋愛の一番きらきらした楽しい時間を過ごしているのかもしれない。お互い、ここにある輝きの先で別のものを築きあげていく経験がないから、余計に。
「尾形くん」
 それでもこの愛を、枯らさずに育てていく。そういう決意めいた気持ちで、私は振り返って、さっき呑み込んだ言葉を口にした。
 二人がリングをはめる度に、私たちにまっすぐな光が射すように。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る