囲めなかったもの




「久しぶりだなぁ」
 快活な笑みに眉をひそめて、それからちょっとほっとしてしまった。髪の長い大男はヴィランみたいなファーのコートを着るとますますカタギには見えなくて、アパートの小さな玄関に立っているのが似合わない。

「今日休みだろ? 美味い焼肉屋があるから行かないか」
「もうご飯用意してるから無理」
 焼肉、という響きにそそりながらもぴしゃりと断ったのは、夕飯の用意を始めていたからだけではない。二ヶ月前にうちに来たのを最後になんの音沙汰もなかったこの男を、優しく迎えるのが癪だから。

 房太郎の視線がキッチンに移った。コンロの上の土鍋を見るなりぱっと目を輝かせる彼に「しまった」と悟る。
「鍋か、いいな! 鍋なんてもうしばらく食ってないな」
「一緒に食べるなんて言ってないけど」
「鍋なんて人と食うものだろ」
 一人で喜ぶ房太郎は家にあがるなりコートを脱ぐと包丁を握って、あれよあれよと用意の続きを始めた。鶏肉を煮込んでいた土鍋に、ねぎに白菜、水菜にしめじにが次々と放りこまれていく。本当に自分勝手な男。ただでさえ狭いキッチンが子供用に見えてくる。まあ、こうしてうちへ来てご飯を食べる時は手伝ってくれるのは嬉しい。材料代には多すぎるお金を置いていくのはやめてほしいけど。

 腐れ縁の白石が私の働く居酒屋へ房太郎を連れてきた時、相当なすけこましだろうなと察した。余裕のある愛想の良さやその奥に潜んだ冷たさに、好きになったら一気に沼底まで引きずり込まれるような危うさを感じ取ったのだ。だから、房太郎が一人でお店に来ても白石に連絡先を聞き出して電話してきても、相手にしなかった。どうせこうやって粉をかけている女は他にもたくさんいる。カウンターで肘をついて私に語ってくる彼の夢物語も聞き流していたのに、無邪気な男はとても器用に私の内側へ入り込んできた。

 ローテーブルにカセットコンロを置いてその上に鍋を座らせる。冷蔵庫からビールを出すと、後ろから抱きしめられて長い髪が視界を遮った。
「気が利くな」
「房太郎に買っといたわけじゃないし」
「照れるなよ。そういうところも気に入ってるけどな」
 これ以上のことはしてこない房太郎の意外に紳士なところは信用している。だからこそ二ヶ月も私を放っておけるこの男は、口先だけで私を彼女にするつもりがないと分かるから憎らしい。だったら心を寄せてなんかやるもんか。そう意地になっている時点で、私は既にとらわれている。

 向かい合って座り食べ始めると、特売で買った鶏もも肉を入れたごく普通の水炊き鍋を、房太郎は何度もうまいと言っておたまをよそった。くたくたになった野菜にぽん酢がよく合う。一人で食べる時よりも身体の奥底からあたたまっていく気がした。彼の美味しそうに食べる上機嫌な顔が、また私をちょろい女にするのだ。

 ずるいと思う。いい加減、彼と会えない寂しさに振り回されるのをやめたいと思っていたのに。その寂しさをすっぽり埋められてしまう。
「やっぱり決めた」
 ビールをあおった房太郎が私を見据えて言った。
「お前を俺の妃にする」
「ぶっ」
 口に入れたばかりの豆腐を吹き出しそうになった。彼が今まで私に聞かせてきた夢物語からして、これはプロポーズなのだろう。王国の妃にするつもりの女に水炊きでプロポーズってどうなんだろ。

「お前と食べる飯が一番うまいからな」
「飯炊きにちょうどいいと思ってるんでしょ」
「いや? 飯のこと抜きでもいい女だと思ってる」
 臆面もなくこういうことが言えてしまうこの男がやっぱり憎らしい。冗談とはいえ、また彼のペースにのせられたくなかった。

「言ったじゃん。私は自分のお店を持つって」
 お金だけ置いて母親が家に帰ってこないような思春期を過ごした私は、この街で老夫婦が営んでいた小さなお弁当屋が拠り所だった。店主が亡くなりお店を畳んでしまった今、私がこの街でお弁当屋を開きたい。言わば、私は私の王国を作るつもりなのだ。今はここを拠点に全国を飛び回っているけど、いつか気に入った土地に移り住んで自分の国を作るつもりだという房太郎にはついていけない。

「そこなんだよな」
 房太郎が納得したように頷く。互いの夢を叶えるには一緒にいることは難しいと分かるはずなのに、あの時も私の夢を応援してくれた。周りの人たちが房太郎の夢を冗談だと思って笑っても、私は絶対に笑わなかった。大仰な夢の裏にある彼の孤独を、痛いほど理解できてしまうから。

「俺がお前こだわるのは。大人になっても夢を持ち続けられる奴はそういない」
 純粋に夢を抱いているからこそ言える口説き文句に、私はとうとう黙ってしめじを噛み締めるしかなかった。だったらここにあなたの国を作ってよという言葉は声になることなく、鍋から立ちのぼる湯気とともに消えていく。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る