海の丘




 国道に延々と連なる大渋滞は、いっそ降りて歩いてしまった方が早い徐行でしか前に進ませてくれなかった。
「全然動かないねー。後ろの車長野ナンバーだ。何時に出てきたのかな」
「はるばる来たって他に行くところねえのに」
「そんなことないでしょ」
 郷土愛のない恋人の言葉を否定する。行くところはある。でも、観光スポット同士の距離が遠すぎて観光客に優しくないのだ。その中の一つ、海沿いの街にある海浜公園には、ネモフィラが見頃のこの季節になると人がなだれ込むように押し寄せる。

 百ちゃんが動かない前を見ながらあくびをする。付き合いはじめたばかりの一年前は、私がネモフィラデートに提案した手前、渋滞に申し訳なくなって沈黙が流れるたびに何か話題を探していたのを思い出す。今年もこうなることが分かっていたから、人ごみの嫌いな百ちゃんを誘いにくかった。それを彼は気づいていたのかもしれない。昨日の夜、一緒に暮らす部屋でふと思い出したように「今満開らしい」と言ってきた百ちゃんは、多分、前から開花情報をチェックしていた。もっと早く言ってくれれば慌てないでお弁当を作れたのにと、心の中で文句を呟く。

「ネモフィラソフトも並ぶかな」
「あれ青いだけでネモフィラ関係ねえぞ」
「百ちゃんは食べないのね」
「……お前の少しもらう」
 澄み通った青空からの日差しが眩しい。今の私たちは、お互いがそばにいる時の沈黙に居心地の良さに甘えて、旅先でのイレギュラーもやり過ごすようになっている。

 ようやく駐車場に車を停めて入場すると、最初に向かったのはサイクルセンターだった。去年も、ネモフィラの咲く丘までここで借りた自転車を走らせた。
「ねえ、今年は二人乗りがいい!」
「去年お前が一人用がいいって選んだんだろ」
「だって、重いと思われたら嫌だったから」
「まあ散々上に乗ってんだから今更だな」
 百ちゃんの脇腹を手刀で叩くと小さく呻いた。向きを揃えてずらりと並ぶ自転車の中から、前後にハンドルとサドルがついた二人用を選んでバッグを前カゴに入れた。普通の自転車より小さな車輪だけど、ほんとに大人二人乗せて漕げるのかな。
 
 スタート地点で私が前に乗って百ちゃんが後ろに跨り、「せーの」と合わせてペダルを漕ぎ出すと、不安定によろめいて笑ってしまった。「真面目にやれよ」と言う百ちゃんも声が笑っている。気を取り直して踏み込むと、タイヤがアスファルトを踏む音を立てて車輪が前へと回り加速していく。数回漕ぐうちに軌道に乗った私たちは、風を切って菜の花畑の前を走り抜けて行く。百ちゃんがすごく漕いでくれているのがペダルの軽さで伝わってきた。

 東京の大学から地元へ戻ってきた百ちゃんと違って、私は一度も県外へ出たことがない。この土地に強い愛着があるわけではないけれど、百ちゃんとのデートで色んなところに改めて行ってみると、やっぱりいいところだと思う。多分百ちゃんも。美しい景観や伝統行事は、それこそ地元を愛する人たちの努力で守られている。

 噴水が飛沫をあげる池を通り過ぎて、森林の中の木陰道をしばらく爽快に走っていた。子供が猛スピードで私たちを追い越していく。同じように自転車を走らせている人は多いけれど、これだけ広い公園のコースだと混んでいる感じはしない。

「漕ぐのサボってるだろ」
「らくちんー。でもまずい。坂だ」
 なだらかに始まったはずの上り坂は私たちの脚にすぐ負荷をかけてきた。日頃の運動不足が祟って息が上がる。押して歩こうかと思ったけれど、百ちゃんは降りようとしなかった。意外に負けず嫌いなのだ。息を合わせてペダルを踏み、峠を越えて、またまっすぐな道に出る。まるでRPGのように二人で旅を進めている感覚が楽しい。

 森林を抜けると、わずかに塩っぽい匂いの風が流れてきた。右には深い色の大海原が広がって、いつもより賑やかな街を見守っている。ハンドルのベルを鳴らすと風が光った気がした。
「綺麗だね」
「前見ろよ」
 一瞬振り返ったら、百ちゃんは陽に照らされた海面に目を細めていた。漁港のある街で生まれ育った百ちゃんには、他の人よりも海は近い存在なのかもしれない。

「見えてきたな」
 桜の木が葉を伸ばし始めるこの季節の変わり目に、ここにはもう一つの海が広がる。空の色が溶けたかのような青い可憐な花が、幻想的なまでに丘一面に咲き渡るのだ。

 自転車を止めて、ネモフィラに囲まれた遊歩道を歩いていく。この美しさをスマホで残すことは限界があると知っていながらも写真を撮っていたら、百ちゃんが少し離れたところから私が写真を撮っている姿の写真を撮っていた。そういえば去年はまだ一緒に撮れなかったなと思って、近くにいた人にお願いしたら、百ちゃんは照れながらも私の隣でカメラに映った。ここには毎年同じ景色が広がっているけれど、それを目に映している私たちは変化している。繋いだ手は、お互いハンドルを握っていたからかいつもよりも熱かった。

 風が吹いて、花たちが波立つように揺れる。ここへ来るたびに、私はまたこの地が少し好きになる。

 麓でお弁当を食べてから、私たちは淡い水色のソフトクリームを食べた。爽やかな甘さはやっぱりこの花の味がする気がして、私はスプーンですくって恋人の口に運びながら春の終わりを楽しんでいた。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る