第四話



 逃げるように電車を降りた。
 追ってくることはないはずだ。身体を縮こまらせる寒さが、噎せ返りそうなほどの暖房の風を受けていた彼女をかえって落ち着かせる。それでも今しがたまで彼女を襲っていた恐怖と不快感は、雪に情緒を感じさせる余裕など持たせなかった。乱れた息が、白く染まって空へと消えていく。

 また時間を変えないと。
 雑踏の流れに従いながらホームへの階段へ進んでいく。すると一瞬足元がよろけて、身体の重心がぶれた彼女は前を歩く人に衝突した。

「っ! ごめんなさい!」
 慌てて謝ると男が勢い良く振り返った。まずい、怒られる。肩を竦めた彼女を、猫を思わせる大きな目が捉えた。

 男は自分を見て、何か驚いたかのように息を呑んだ。文句を言ってくるのではないかと身構えた彼女だったが、まるで時を止めて自分を見つめる男を不審に思い、彼女も様子を伺う。

 光を入れる隙を見せない夜闇に塗られたような瞳が、男の雰囲気に影を落としているのは間違いなかった。眉骨の高い上瞼を囲うような形の眉。通った鼻筋の先は少し丸みを帯びている。短い髭を蓄えた顎の両脇に走る縫合傷は、古いものだろうか。ツーブロックの髪を後ろに流したオールバックと相まって、凛々しいというより厳つい印象を抱いてしまう。しかし、その一度見たら忘れないであろう特徴的な造形は、絶妙なバランスで均整を取っていた。

 男の口角が上がる。表情に乏しそうな顔が、自分を見て喜びの感情を顕にしている理由がますます分からなくて戸惑う。

「名前だろ? 俺だ、尾形だ」
 自分へ詰め寄る男の気迫に、彼女は圧倒されるしかなかった。面識はないはずだ。男が名乗ったオガタ≠ニいう名に心当たりもない。それなのになぜ、この男は自分の下の名を知っているのだろう。

 怖い。どうしよう。
 警戒で全身を強ばらせる彼女に気づいた男が一歩後ろへ引いた。話の通じない人間には見えないが、男の気に触ることを言ったら逆上してくるのではないかと思うと恐ろしい。しかし、この状況で彼女が男にかけられる言葉は一つしかなかった。

「あの……、すみません。どちら様ですか?」
 そう恐る恐る口にした途端、男は絶望の崖に突き落とされたかのような、酷く傷ついた顔をした。詰め寄られて困り果てている自分がまるで悪者のようで、謂れのない罪悪感に見舞われる。だが本当に身に覚えがないのだから仕方ない。言葉を失った様子の男を見つめていると、後ろから誰かが彼女の肩にぶつかった。

 苛立ったような初老の男の顔がちらりと見えたが、すぐに急ぎ足で過ぎ去って行った。自分たちが往来の激しい階段のすぐ側で足を止めていることにようやく我に返ると、自分を邪魔に感じた人たちに平謝りしたくなるような居たたまれなさに襲われる。

「ごめんなさい、急いでいるので」
「待て、おい!」
 場所を変えて話すことを提案する余裕などなかった。男の横を通り過ぎて逃げるように階段を降りていく。追いかけてくることを危惧して、一番下まで降りてからは人混みを縫うように小走りした。改札の前で一度振り返ったが、男の姿は見えなかった。

 何だったのだろう。
 雪が舞い散るいつもより静かな駅前を歩く間も、自分の心音はなかなか落ち着かない。
 自分が忘れているだけなのだろうか。しかし男の気迫は、面識がある£度の間柄だった人間を見つけたものではなかったはすだ。例えるなら、そう――。

 彼女は男の真っ黒な瞳を思い出した。夜闇に塗られたような瞳。あの瞳に見つめられたのがつい先ほどのことなのに、なぜか夢の中のような、はたまた遠い記憶のように思えた。

 
 ***

 
 雪のためか、ロビーもいつもより閑散としていた。
 来店客が記入した書類を窓口係の後輩から受け取る。まだ不慣れな後輩をサポートしている彼女は、データ入力の前に記入に不備がないかを慎重にチェックしていく。
 するとすぐ隣で、かなり重さのあるものがぞんざいに置かれた音がした。

「これ今日までにやっておいて」
 彼女がその分厚いファイルの中を確認することを待つこともなく、言い捨てた女性の上司は自分のデスクへと戻っていった。彼女もファイルには触れず、誰にも聞こえないほどの小さなため息をついて再び画面へ向かう。

「また苗字さんに押し付けてきたの? 他に手空いてる人いるんだからその人たちに頼めばいいじゃんね?」
 隣の席に座る彼女の一つ上の先輩が、囁くような声で彼女に話しかける。
「でも今そんなに急ぎの仕事持ってないし大丈夫です」
「半分手伝おうか?」
「ありがとうございます。でもそしたら××さんが注意されちゃいますから」
 彼女が笑みを作ると先輩は申し訳なさそうな表情になったが、「無理そうなら言ってね」と言い残して自分の仕事へ戻っていく。

 女子職員のリーダーを担っている上司に、彼女が辛く当られるようになったのはほんの些細なことがきっかけだった。外野からすれば取るに足らない幼稚な嫌がらせ。しかしその小さなコミュニティで上手く泳いでいかなければならない者にとっては、相応のストレスである。表立って庇う同僚はいない。みな自分に矛先が向かないよう、息を潜めてやり過ごしている。安全な立場から面白がっている者さえいることも、彼女は気づいている。

 今の支店に異動してきてまだ数ヵ月。およそ三年間隔とはいえ異動があるだけまだ救われるが、それでも上司は少なくともあと二年はこの支店に在籍するはずだ。先の長さに、彼女の中で鉛玉を飲み込んだような、逃げられない重苦しさが渦巻いていた。
 
 終業後、更衣室で着替えを終えた彼女はバッグの中からスマホを取り出した。するとメッセージが一件、大学時代の友人から来ている。
“お疲れ〜! 金曜の夜空いてる?実はね、この前行くって言ってた街コンで彼氏できたんだ。名前に色々話したくて”
 可愛らしいクマのスタンプ絵文字が添えられたメッセージ。彼女の胸がドキリと跳ねた。
 定期的に顔を合わせている、大学時代に親しかった四人組。卒業後すぐに結婚し今は一児の母である子、彼氏との交際が順調な子がいる中で、しばらく恋に音沙汰がなかったのは彼女とこの友人だった。いい加減今年のクリスマスまでには彼氏を作ろうねとお互い自虐的に慰め合っていたが、友人は有言実行を果たしたらしい。

 会えば報告や惚気話が待っているのだろうと思うと、返事すら億劫になってしまう。来月四人で会う時は、自分だけが文字通り変わりない¥況なことを考えるともっと辛い。友人は何も悪くないことは分かっている。しかし自分だけ誰からも必要とされていないようで惨めで、友人の幸せを素直に喜べない自分の狭量さもつくづく情けなかった。

 クリスマスムード一色の街を虚しくなりながら歩いていく。オレンジゴールドのイルミネーションに彩られた街路樹は、枝に積もった雪のせいか一層幻想的だ。しかしその中を吹く冷たい風は、孤独でかさついた彼女の胸にはじんじんと染みた。

 帰宅してから作り置きの料理で簡単に夕食を済ませた後、先ほどのメッセージになんと返そうか、文字を打っては消してを繰り返す。すると画面上に、違う人物からのメッセージ通知が入った。
“久しぶり!今から家行っていい?”
 友人よりよほど唐突なメッセージだが、躊躇ったのはほんの数瞬だった。すぐに返事を打って、少し散らかっている部屋を片付け始める。
 クリスマス、一緒に過ごすか聞いてみようかな。

 昨日までは頭には浮かんでもすぐに払拭していた考えが彼女を誘惑する。向こうにも今、恋人がいないのなら疚しいことはない。しかし彼女は、この関係を決して友人には話せないでいる。

 一時間後にインターホンが鳴ると、彼女は駆け寄ってドアを開けた。
「ごめんねー、急に」
「ううん、大丈夫。近くにいたの?」
「そう、取引先と飲んでた」
 彼女が迎え入れたスーツ姿の若い男は、我が物顔で部屋へとあがる。その姿に否応なく孤独が和らいで安堵を覚えてしまう。男がソファへ腰を下ろすと、彼女は食器棚からマグカップを出してティーバッグを開けた。

「朝、雪びっくりしたね」
 他愛ないやりとりをしながらポットを沸かす。しばらく前に別れた彼と、やり直したいと思っているわけではない。しかし彼が美味しいと言っていた紅茶を今も切らさずに買っている自分が、本当はどうしたいのか、もうよく分からなくなっている。

 二四日のことを切り出そうと、湯気立ったカップをテーブルに持っていこうとした時だ。ソファにいたはずの彼の足音が、すぐ後ろで聞こえた。
 骨ばった手が彼女の服の中へ入り込んでいく。その感触に、彼女は今朝の電車内での十数分を思い出して肌が粟立った。

「ちょっと……、何?」
「ねえ、いいじゃん」
「紅茶入れたんだけど」
「後で飲むから、ほら」
 そう言って彼がスカートを捲り上げると、彼女はもう拒む気力もなかった。

 この人に何を期待してたんだろう。
 前はまだ、ここまで露骨に手早く持ち込まれることはなかったのに。
 彼に好きに揺さぶられながら、彼女は彼を迎え入れたことを悔いていた。

 いつもそうだ。もう会わないと決心を固く結んでも、自分が無価値に思えてしまう自信のなさに、誰かにそばにいて欲しいと思ってしまう孤独に、彼は入り込んでくる。しかし、そんな彼を跳ね除けられず受け入れてしまうのは、ひとえに彼女の弱さだった。

 男の気の済む頃には、キッチンの紅茶は冷めきっていた。
 

 ***
 

 年末の朝の駅は、大晦日にかけて日ごとに人が減っていくのが分かる。学校が冬休みを迎え、企業も続々と仕事納めに入るからだ。しかし、休業日前に駆け込む来店客で窓口が大混雑するのが銀行である。彼女は憂鬱に身体を重くしながらも、ホーム地面に貼り付けられた号車案内に従って自らを会社へと連れていく電車を待っていた。

 線路の向こうから、頭を出した電車が長い胴体を連ねて近づいてくる。その景色を眺めていた彼女が、ふと視線を感じて後ろへと振り返る。
 自分の心臓が、胸を突き破るように跳ねた。いる。彼女がここ数ヶ月逃げ惑っている男が、彼女を先頭にした乗車待ちの列の一番後ろにいたのだ。その姿に、数週間前の恐怖が蘇って背筋が凍りついていく。もう遭遇しないようにと、電車の時間を不規則に変えていたのに。

 列から抜けて他の車両に乗るか。いや、それでもついてこられてしまえば同じだ。
 冷静さを失った頭でオタオタと考えていると、あっという間に電車が風を切ってホームへと入ってきた。ドアが開き二、三人が降りたと同時に、彼女は少し空いている反対側のドアの前へと、人を掻き分けて強引に進んでいく。

 お願い、来ないで。
 ドア横の手すりを掴んだと同時に電車が発車した。つり革が揺れる車両内を、人の壁の隙間からそっと見渡すが、男の姿はない。
 開いたドア付近にいるのだろうか。

 今日は諦めたのかもしれない。そう気を弛めたのも束の間、彼女の臀部に何かが触れた。

 一瞬で離れたと思いきや、再びコートの上から、偶然と言われてしまえばそれまでのような感触が続けざまに伝わる。この感触を彼女は知っている。ゾッと血の気が引いていく彼女を嘲笑うかのように、臀部に触れる手は次第に表面を擦る手つきに変わった。強ばった身体は呼吸もままならなくなっていく。

 手すりを握りしめながら痴漢に耐える自分に、気づく人は誰もいない。彼女はこの時いつも、これだけ大勢いる乗客たちがみな顔の描かれていないマネキンのように見えてくるのだ。よく痴漢の体験談などで賞賛される、男の手を掴みあげて「次の駅で降りてください」と言い放つ勇敢な女性のように自分もなれないかと、彼女は何度も考えた。しかし男がシラを切り、挙句でっち上げだと騒がれたら、他の乗客たちは自分を信じてくれるのだろうか。そう思うと行動に踏み切れず、十数分自分が耐えればいいだけだと、諦めとともに声を飲み込んできた。

 二駅目の停車駅を発車すると、男はコートをたくし上げ、スカートの上から感触を味わうように指に力を入れて揉み始めた。薄くなった布越しに男の手のひらの生暖かさが伝わってきて、嘔吐感が込み上げる。

 結局自分はどんな時も、抵抗もできなければ、助けを求めることもできない。その弱さが情けなくて、一点を見つめ続けている視界が涙でぐらついていく。

 すると突然、後ろから断末魔のような絶叫があがった。
「そいつから離れろ、おっさん」
 続けざまに鼓膜を震わせる、平坦で冷たい、しかし怒気を孕んだ声。彼女が振り返る。潤んだ瞳に映ったのは、彼女が夢に出てくるまでに怯え続けた男の腕が、まるで搾った雑巾のように捩じ上げられている姿だった。
 そしてその背後で男の腕を掴み上げている人物の姿に、彼女はさらに目を見開く。

「大丈夫か。」
 夜闇に塗られたような真っ黒な瞳が、彼女を見下ろしていた。
 

***
 

 ベッドに転がる身体は熱を帯びていた。コンサートの後のような、頭の中だけが会場から離れられないでいるときような、ふわふわとした心地が彼女を包んでいる。
 天井にかざしているのは、社会人がビジネスシーンで用いる小さな紙だ。印字された企業名を見て彼女が内心ぎょっとしたのは、そこがエリート集団と名高い大手の証券会社だからである。

「尾形、百之助」
 指でなぞるように口にするが、やはりその名前に覚えはない。
 ホームで尾形にぶつかったあの日から、結局彼に繋がる記憶は何も引き出せなかった。また会った時のことを考えた恐怖心と、あそこまで詰め寄ってきた彼が何者か知りたい興味が拮抗していたが、忙しい日々の中でその衝撃も次第に薄れていった。
 そんな折に、オガタと名乗った男は再び彼女の前に現れた。

 数ヶ月耐えてきた痴漢から救い出してくれた尾形に、初めて会った時の恐怖心が払拭されてしまうのも無理はなかった。誰にも聞こえなかった小さな悲鳴に、彼だけが気づいてくれたのだから。

『違う。俺がそうしたいんだ。あんたがもう危険な目に遭わないように』
 ほんの数時間前の尾形の言葉を思い出す。
 どうしてこの人は、自分にそこまでのことをしてくれるのか。彼女は自分が尾形の知人というより、いつぞやの命の恩人なのではないかとも考えた。しかし、そこまで大きな人助けをした記憶もない。尾形に聞いてもはぐらかされてしまうのは照れなのか、それとも自分に思い出してほしいからなのか。

 助けられたとはいえ、旧い知人だと言って今後も接点を持とうとしてきた男に、もっと慎重になるべきだったかもしれない。しかし、毎朝同じ電車で通勤することを申し出た尾形の表情は、彼女を思いやる誠実な想いが言葉よりも如実に語られていた。そんな彼が自分に危害を加える人間には思えず、尾形と会う中で何か思い出せるのではないかと期待して彼女は申し出を受け入れた。

 枕に頭をのせた彼女の伏し目は、脳裏に焼き付いて離れない尾形をじっと見つめている。

 笑うと少し可愛かったな。
 心の中で呟いてくすりと微笑む。何もいいことがなかった一年だと思っていた。しかし、最後の最後に舞い込んできた幸運は、温かい毛布のように彼女を優しく包み込んでいた。
 

 ***
 

 乗車駅のホームへ降り立つ時、電車へ乗り込む時、今でも胸がザワザワと騒いで、彼女は思わず辺りを見渡してしまう。

“おはようございます 今乗りました”
 それでもトークアプリで送ったメッセージに、すぐ“了解”と返信が来て少し落ち着く。無設定のアイコンから得られる彼の情報はないが、それが逆に彼らしいと思ってしまう。
 数分後。次の駅に停車すると、軽快なメロディと共にドアが開いた。彼女が奥へ進まずなるべく手前で待っていたのは、この駅も開くドアが右側だからだ。

 乗客が乗り込んでくる。その中から尾形を見つけた彼女が、はにかんだように微笑んだ。
「おはようございます」
「おう」
 目の前に立つ、背の高いがっしりとした尾形の姿に安心する。こうして電車の中で待ち合わせることに照れくささを覚えながらも、被害から日が浅い今、自分を守ってくれる存在がそばにいることが何より心強かった。

 電車がゆっくりと動き出した。新年を迎えて間もない、橙色の朝日に照らされる東京の景色が窓に流れていく。彼女はそれを眺めるふりをしながらも、尾形に何か話そうとあれこれ考える。満員電車では当然の密接した距離感が、知り合って間もない異性とでは気恥ずかしくなってくるからだ。昨日は沈黙に耐えきれなくなって、明け方にあったわりと大きかった地震について話そうとした。しかし尾形と目が合うと、喉元まで出かかっていた言葉は引っ込んでしまった。「地震、気づきましたか?」なんて話が続かないこと、言わなくてよかったと思った。

「髪型」
 急に降ってきた言葉に驚き、彼女は尾形を見上げた。初対面の時はそれどころではなかったが、彼の渋い声は妙に色っぽくて、不意に話しかけられると正直心臓に悪い。

「今日は違うんだな」
 そこでようやく自分のことを言っているのだと理解して、彼女は思わず自分の後頭部に触れた。いつもは上半分だけを掬ったハーフアップにしているが、今日はシンプルなヘアアクセを使って低い位置でお団子にしている。

「はい。今日は少し時間があったので」
「……いいな、それ」
 何の気なしに言ったような一言だ。それでも尾形が女の髪型を褒めるタイプの男には見えないため、彼女には意外だった。
 こういうことがサラッと言えてしまうのなら、やっぱりモテるんだろうなと思った。
「ありがとうございます」

 少し頬が熱くなったのを感じながら彼を見る。改めて見ても整った顔立ちだ。猫を思わせる相貌にどこか野性味を感じるのは、猫自体が人間の生活に溶け込みながらもその片鱗に野性の生き物らしさがあるからだろうかと考える。

 結局それ以外会話はないまま、五駅目で二人は降りた。東京の主要駅であるここではかなりの数の乗客が入れ替わるため、尾形から目を離せばあっという間に見失ってしまう。前を歩く彼から離れないようついて行く。時折後ろを向く尾形が、ちゃんと自分を気にかけてくれていることを感じながら。

 改札を抜けて外へ出ると、白みがかった青空がビルの建て並ぶ街を見下ろしていた。まだまだ凍えるような朝は続いているのに、年末までとは少し違う、春へ近づいていることを感じさせる朝だ。

 密接した車両から出ればさほど緊張もなく自然に話せるが、あいにく駅を出てからはすぐに尾形と道が分かれてしまう。
「じゃあ、今日も頑張りましょうね」
「ああ、またな」

 尾形からまた≠ニいう言葉が出て少しほっとする。自分と通勤することに何のメリットもない彼が、今になって申し出たことを後悔しているのではないかと不安に思うからだ。だからこそ尾形について早く思い出したいのに、実家で学生時代のアルバムを捲っても、両親にそれとなく尋ねても、彼女は何の手がかりも得られなかった。

 遠ざかっていく後ろ姿を見つめていると、何だか追いかけたくなるような切なさが胸を掠めた。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る