第五話



 華の金曜日。居酒屋やバーが街に明かりを灯し、一週間の勤労から開放された人々がひっきりなしに往来する時分。ここにも美酒佳肴を楽しむべく、オフィスビルを出て繁華街へと向かう男が二人いる。

「やっぱ今日キラウシ行かない?」
「行かん」
「最近ずっと行ってないだろ」
「……俺は先週行った」
「は? 行くなら僕も誘えよ!」
 不満を露わにする隣の男、宇佐美の顔を尾形は面倒くさそうに一瞥する。

「お前を連れて行くとおっさんがビビる」
「何で、門倉部長喜んでたでしょ。僕たち仲良しだし」
 人畜無害に見える笑みの裏にある、この男の嗜虐性を尾形は知っている。呑み処キラウシにて、宇佐美を見るなり赤ら顔から一気に血の気を失ってカウンターの内側へ逃げようとした門倉が、前世でこの男のトラウマを植え付けられたのは間違いなかった。

 入社一店舗目で高い実績を認められ証券マンの出世コースに乗った尾形が、異動先の旗艦店で再会したのが宇佐美時重だった。当初こそ互いの間に一触即発の空気が流れていたものの、もう終わったことだと先に和解を持ちかけてきたのは宇佐美である。復讐の腹積もりがあるのではないかという疑念が用心深い尾形から払拭されることはない。しかし、軍の人間の多くが自分を厭う中、唯一下の名を呼び何かと構ってきたのがこの男だ。あの日々が尾形を今もこうして、宇佐美との仕事後の一杯に付き合わせていた。

 結局一度行ったことのある焼き鳥店に決まった。大通りから一本入った路地は大衆的な飲食店でひしめき合っている。炭火の香ばしい匂いが立ち込める方へと角を曲がった尾形だったが、急にそこでぴたりと足を止めた。
 宇佐美が振り返るが、返事もせず猫のような大きな目を更に見開いている。訝しく思った宇佐美が再び前を向いた。

 突き当たりに目的地の焼き鳥屋が見える狭い路地は、古い建屋のショットバー、ラーメン屋、シーシャ屋が所狭しと縦並んている。シーシャ屋の隣、マゼンダ色の電飾掲示板を掲げた占い屋は妙な存在感を放っていた。
 店の前で、グレージュのロングコートを着た女が一人立っている。通りがかっただけというより、来てはみたが未知の世界に飛び込むことに二の足を踏んでいるようだ。

 女がこっちへとふと振り返った。
「……尾形さん?」
 互いの会社から近いとはいえ、こんな場所で出くわすとは思っていなかったのだろう。占い屋をチラリと見て恥ずかしそうに苦笑いしている彼女の十数メートル先で、尾形はここで彼女と会ってしまったことを悔いた。なぜなら今日は、状況が状況である。

 自分の数歩前にいる男が、満面の笑みで振り返る。人好きする笑みには、好奇心がありありと浮かんでいた。
 ああ、こいつにだけは知られてはいけなかった。
「百之助〜、知り合い?」
 

 ***
 

 どうしてこんなことになっている。
 宇佐美が彼女との会話を盛り上げているのを横目に、尾形はテーブルの下の足を苛立ちに揺すっていた。

 宇佐美が遠慮する彼女を誘い、三人で宇佐美の提案した大通りのイタリアンバルに入った。アンティーク調のインテリアでまとめられた店内は女性客からのウケが良さそうな雰囲気の落ち着いた店だ。目の前の鴨ロースのタリアータは絶妙な火の通り加減だが、尾形はもう美酒佳肴を楽しむどころではない。

「なるほどねー、それで百之助と毎朝通勤してるんだ」
「はい。尾形さんには本当にお世話になっていて」
「へ〜〜〜」
「んだよ」
 にんまりと細まった目が尾形を向き、尾形は鬱陶しさに顔を背ける。自分の弱みを、絶好のいじり処を見つけたとばかりの悦びに満ちたその表情が心底憎らしい。

「お二人は仲がよろしいんですね」
 そんな二人の心中など露知らずの彼女は、彼らを微笑ましく眺めている。
「まあ腐れ縁みたいなもんだからね。ずっと昔からのね」
「おい」
「ふふっ、そうなんですか」
 含みを持たせた言い方をする宇佐美に牽制するが、何処吹く風である。自分と二人で食事した時よりも彼女が笑っているのも面白くなかった。

「苗字さん次何飲む?」
 宇佐美が空になった彼女のグラスを見て、メニュー表を差し出す。
「百之助は?」
「まだいい」
 いつもよりペースの遅い尾形がスパークリングワインに口をつけるが、舌に気泡の刺激を感じるだけで味を感じない。

 尾形は宇佐美と二人で飲みに行くと、知らない女たちから度々声をかけられることがある。酒を楽しみに来ている尾形にとっては邪魔なものでしかなかったが、そう変わらない心境のはずの宇佐美が女たちを冷たくあしらうことは決してなかった。物腰の柔らかさ、さり気ない気遣い、紳士的な振る舞い。宇佐美のそういった一面を目にしても何の対抗心も抱かなかった尾形は今、認めたくない嫉妬と焦りを覚えている。

「ん、誰かケータイ鳴ってない?」
 微かな振動音に気づいた宇佐美が言った。彼女がテーブル下に首を下ろし、荷物入れの中の自分のバッグを確認する。
「私です! ……すみません、上司からの電話なので出てきてもいいですか?」
「どうぞ」
 彼女が不安そうに「何かあったのかな」と言いながら店の外へと出ていく。会話がなくなると、BGMの緩やかなピアノの旋律が聴こえてきた。宇佐美に文句のひとつでも言ってやりたかった尾形だが、彼女が人数分に取り分けたサラダに黙って箸を運ぶ。

「いい子じゃん、苗字さん」
 宇佐美がまるで、彼女のことを前々から聞いていたかのような口ぶりで言う。
「お前が前酔った時言ってた、前世で色々あった子だろ」
 尾形の箸が止まった。なんだそれ、いつだと、記憶を遡る。宇佐美がその話を温めていたことより、自分が覚えていないことが恐ろしい。
「違う。言ってない」
「じゃあ何で苗字さんにそこまで構うんだよ。その女のこと探してたんじゃないの?」
「……」
「痴漢を捕まえたって聞いた時、百之助がそんな殊勝な人間なわけないからおかしいと思ったんだよなあ」
「お前にだけは言われたくねえよ」
 彼女が店の入口で通話している後ろ姿が窓から見える。今日も長い髪を後ろで結い、白い項が顕になっていた。
 あの頃の後ろ姿と、よく似ている。
「でも向こうは覚えてないんだ」
 尾形は今も、彼女が前世の記憶を取り戻せば自分を拒絶するのではないかと恐れている。一方で、自分への情を思い出してくれることを期待してしまう、相反した感情が絡み合っていた。

「で、どうする気だよ。こんな奴やめておけって吹き込むか?」
 自嘲的に鼻で笑う尾形に、宇佐美が心外だとばかりに顔を顰めた。
「何でそうなるんだよ。普通に応援するつもりだけど?」
「はっ、お前こそそんな殊勝なタマかよ。」
「だって面白いじゃん、百之助がそこまで必死になるなんてさ。苗字さんも彼氏いないんだろ?」
「……聞いてない」
「は? お前マジで言ってんの!」
 声をあげて笑う宇佐美を無視してワインに口をつけたところで、彼女が戻ってきた。

「すみませんでした」
「ううん、大丈夫だった?」
「はい、緊急の用事ではなかったの。」
 彼女が再び尾形の向かいに座る。外気で少し赤くなった頬が、尾形と目が合うと微笑みに緩んだ。それだけで胸が詰まる。

 おそらく恋人はいないだろうとは思っている。しかし今の自分と彼女の距離感で、そこに踏み込むことを躊躇ってしまう。もし恋人がいたら、自分は彼女の幸せを願って身を引けるだろうか。

「そういえばさ、」と宇佐美が切り出した。
「僕たちが食事に誘っちゃったけど、苗字さん本当は今日あそこの占い屋に入るつもりだったんじゃないの?」
 彼女の肩が小さく跳ねた。あの場で出くわした時の反応からしても、あまり触れてほしくなかったのだろう。
「いえ! ちょっと外から見てただけなので大丈夫です。あそこ、テレビとかでも話題みたいで」
「知ってるよ。外観は怪しい感じだけどね。恋愛占いが当たるって評判なんでしょ?」
「そ、そうみたいですね」
「苗字さんは今彼氏っていないの?」
「おいお前」
「いない、ですけど」
 宇佐美を窘めようとしたが、彼女が答えたのが先だった。確証が得られたことで、思わずほっと息をついてしまいそうな安堵が胸に広がる。自分が聞けなかったことをあっさり尋ねた宇佐美に苛立ちながらも、尾形は宇佐美の機転にほんの少しだけ感謝した。

 再び尾形と目が合った彼女が、今度は照れくさそうに俯く。
「そうなんだ。モテるでしょ? 苗字さん」
「全然ですよ。周りは結婚したり彼氏できたりしてるのに、私だけ何の音沙汰もなしで」
「そうなの? あー、でも苗字さん可愛いのに男運は悪そうだよね」
「え、何で分かるんですか?」
「ブフゥッ!」
「尾形さん!」
 ワインを口にしていた尾形が噎せた。気管に入ってしまった水分を出そうと咳き込む尾形を、彼女が驚きながらテーブル上のペーパーナプキンを何枚も取って寄越す。
「もう何やってんだよ百之助〜」

 こいつを信じかけたのが馬鹿だった。やっぱりこいつは、前世での復讐の機会を虎視眈々と狙っているのだ。嘲り笑っているようにしか見えない隣の男を、尾形は息を整えながら睨み上げていた。
 
 ***
 
 二一時を過ぎても、駅前は酒気を帯びた陽気な老若男女で溢れ返っていた。通り過ぎていく女を言葉巧みに引き止めようとするキャッチの男、ホストらしきスーツ姿の男の腕に撓垂れ掛かるように巻きついている女、ギターを弾き歌う男とそれに聞き惚れる観衆と、都会の夜の駅は混沌に満ちている。

「じゃあ僕こっちだから」
 改札を過ぎたところで宇佐美が二人に手を振った。彼女の後ろにいた尾形は既にホームへの階段に向かっている。

「今日はありがとうございました。ご馳走までしていただいて」
 彼女が宇佐美に頭を下げる。会計時、財布を開こうとする自分を尾形が手で制し宇佐美と二人で払ってしまったのだ。

「いいえ、こちらこそありがとう。それより百之助をよろしくね。あんな奴だけど、まあ悪い奴じゃないからさ」
「そんな、とんでもないです。尾形さんは本当にいい人で、私ばかりいつもお世話になってるのが申し訳ないくらいで、」
 なぜ尾形が自分にここまでのことをしてくれるのかは分からない。尾形を異性として意識し始めながらも、自分が彼からの恩に何か報いることができないかを彼女は最近考えていた。

「じゃあ苗字さんに一ついいこと教えてあげる」
 美しい笑みを浮かべる男の言葉に、自分の鼓動が速くなったのが分かった。

 
 宇佐美と別れた彼女は、ホームへ上がるエスカレーターの前で自分を待つ尾形の元へと小走りで駆けつける。
 一見無表情に見えるその顔に浮かぶ彼の感情を、彼女は少しずつ読み取れるようになってきた。今は待ちくたびれて少し不機嫌のようだ。

「ごめんなさい、お待たせしました」
「宇佐美と何話してた」
「……何でもないです。え、あたっ!」
 尾形の手が自分の頭に近づいてきたと思いきや、次の瞬間には額に弾かれた衝撃が走った。
「もう何ですか」
 自分をせせら笑う意地の悪い彼の表情は、初めて見るものだ。こんな子供っぽい一面もあるのかと、彼女は額を押さえながら笑みをこぼす。今日、尾形の様々な一面を知れたことが嬉しかった。

 尾形に続いてエスカレーターに乗る。昇りきったところで、電車が風を切ってホームへ入ってきた。
 一月前、よろけた自分が尾形にぶつかった場所だ。
「本当に宇佐美さんと仲が良いんですね」
「仲良いわけあるか」
 少しずつだが距離は縮まっている。占いに頼らなくても、彼のことを思い出そうと焦らなくても、もう少しこの運命に身を委ねてもいい気がした。




冷たいラブロマンスを抱いて眠る