花と仏
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 主の泣き姿は静かだった。咽ぶことも、肩を震わせることもせずに、ただその明眸から、はらはらと花片のように感情を散らす様子は、一瞬彼女がこの世のありとあらゆる波を止めてしまったのかと思えるほど静かで、さらには澄んでいた。
 もし仮にあの場が二人きりでなかったとしても、零れたそれを即座に涙と呼ぶことができたのは、まず彼女自身と、あとは泣かせた張本人くらいか。正直、去年の夏には気まずい思い出が少なくない。

 ***

「今年は人数のぶん短冊の量が多くて心配だったけれど、快く引き受けてもらえて良かったね」
「ああ。それに、今どきこれほど立派にしてあるところはめずらしいと褒めてくれていたぞ」
 ゆうべ皆で飾り付けた笹は、今年も神社でお焚き上げという形で本丸を去った。中にはもう少し見ていたいと別れを惜しむ者もいたが、今日の内に片付けてしまうのが慣わしだということで、こうして朝から持って行くことになったのだ。
 主と二人で来た道を戻っている最中、ふと、聞き慣れた法螺貝の音に体が強張る感覚をおぼえた。が、勢いが戦のそれとは少し違う。蝉が忙しなく空気を擦って鳴くのも御構い無しといったふうにのびのびと響いてくるその音には、厳かさこそあれ威嚇の気はなかった。
「法螺の音……そうか、今日は蓮取りをやっているんだった」
 主の言うことには、この近くの蓮池では毎年七夕の日に舟から池の蓮華を取って、修験者たちが道中の祠に献じながら山奥の寺へ向かうという、民話に基づく年中行事があるらしい。
「蓮を取っている間はテレビ局なんかも取材にくるんだけど、この時間じゃもうお供えに向かっている頃ね。今なら池は人も少ないだろうし、お昼までもまだ余裕があるわ」
 これぞまさに欲目というものだろうが、言葉の残りを微笑みで訴えてくるあたりがなんとも可愛らしい。先程の神社から本丸までは若干距離があった。行きは笹を持って公共の乗り物に邪魔するわけにもいかなかったので、やむを得ず主が実家に頼んで車に乗せてもらったのだが、境内に続く階段の前で降りるなり、帰りは自分で戻るから、と告げていたのを見るに、こうして歩くのを楽しみにしてきたのだろう。寄り道に挑戦しては胃を痛めていた頃を思うと、主もずいぶん変わった。もちろん良い意味で。

 ***

「やはり水辺は良いな。最近は一日中、昼に乗っ取られたようで敵わん。特に朝は涼しくなくてはいけないのに」
「早朝は三日月の大切な時間だものね」
「そうなんだ、まるで縄張りを奪われたような気分だ」
 柵の側には、取り立てて立派と言うほどでもないが、何とか日差しを凌ぐことはできそうな高さの樹木が等間隔に並んでいたので、その下に二人立って、ちょっとした冗談を交わしながら池を眺めていた。
「どうやら、盛りのものはほとんど持って行かれてしまったようだな」
「たくさんの祠にお供えしなくてはいけないからね。まあたしかに、花の少ない蓮池は少し物足りないけれど」
 小ぶりであったり、まだ開くまでに時間がかかりそうな花は取られずに残っていたが、そういったものは葉の青さに負けてしまっている。自浄作用で汚れることもなく大きく広がった蓮の葉たちは美しいが、あと他にあるのはお世辞にも綺麗とは言い難い水たまりのみで、やはり色が足りない。
「よくもまあ、これほど濁った池から美しい花を咲かすものだ。綺麗な水では良く育たないと言うし、泥の中に身を置いて汚れを手ずから退けんとするその性質が、己の洗練を極めているのだろうな」
 まるで、と言いかけて口を噤んだ。けして幸せな記憶ではないと前置きしておいて、実際は心が通うようになってからも度々思い出してしまっているのだ。それだけの衝撃を受けたといえばたしかにそうだが、あの光景が少しの美しさもはらんでいなかったなら、こうしてわざわざ引っ張り出して見返すような真似もしなくて済んだろうに。

『すまなかった。もう、二度と言わない。言うものか。だから……泣かないでくれ、主』
 主の涙を初めて見たのは、ある日突然胸に湧いたこの恋慕を打ち明けたときのことだった。伝えて、即座に後悔した。彼女があんなふうに泣くとは知らなかったのだ。涙と共に悲しみや苦しみの感情ごと落としてしまおうとするような、――声も上げず、なにかに抗って身を震わせるようなこともなく、――驚くほど静かで美しい泣き姿だった。それこそ、蓮葉が露を弾いて、その身に降りかかるあらゆる汚れを洗い流すように。日頃の彼女の、憂いなどひとつもないといったような清廉な様は、この世の一切を恨まない代わりに、己の痛覚を捨ててしまうことで完成されるという、蓋を開けてみればひどく儚いものであった。
 俺は、この手で彼女の大切なものをひとつ欠いてしまったような気がして、また、これ以上何か損ねてしまうことを恐れて、必死で彼女の涙を拭った。誓ってしまった手前、あれきり想いを口にしたことはないのだが、今、こうして互いの隣に立っているのがごく自然な、あるべき形のように思われるのに関しては、不思議なこともあるものだと感心せずにはいられない。

「三日月?」
 夏至を迎えてから、まだそれほど経っていない。まさしく盛夏の候、と言ったところか。この少しの時間で、影はたちまち短くなっていた。俺の顔を覗き込む主の方は、もう数分もすれば頭に日が差しそうだ。
「主、こちらへ」
 つい、と半袖の裾を引くと、主は何の疑いも持たずにそのまま数歩横に動いて、ぴたりと隣に付く。どこからか吹いた風に木陰も揺られて、俺は自分の判断を褒めた。
「どうしたの?」
「いや、大したことではないんだが」
 前髪が浮いて露わになった額から、蟀谷(こめかみ)、頬、首筋へと、汗が一筋流れていく。袖口に入れてあったハンカチで拭ってやった。俺の方もそう変わらないのだろうが、柔らかい頬に、長い髪で隠れた襟首、あちこち熱がこもっていて気の毒だ。
「……なあ、主よ。語らずの姿勢というものは、時としてこの上なく饒舌であると思わんか」
 火照った頬に、ひんやり、とまではいかないが、体の中では比較的温度の低い手を添えて、滑らかな額を親指で撫でながら問いかけると、主はもう涙を流すこともなく、むしろ心地よさそうに目を細めて、
「ほんとうに、困ったこと」
 とだけ呟いた。
「私だってもう、一々見ないふりはしていられないのに。三日月が急いだせいで、身も心も早く散り終えてしまったら、どうしてくれるの」
 そう言って主が視線を遣った、蓮池に浮かぶなけなしの蓮華たちは、昼が近付くのを悟って、また明日も咲くために蕾へと戻っていた。どうやら今日開いたばかりの花だったらしい。これらはおそらく明日も開いて閉じてを繰り返すが、次の日、つまり花弁を落とす前の晩には、完全に閉じるまでの力を残していないものが多いと聞く。さすれば月もきっと、花の顔を拝めることだろう。
「散らさなければ良いことだ。それとも、このまま永遠を願えば、主は俺を欲深いと叱るか」
「……いいえ。一蓮托生とはたしかによく言ったものだけれど、揃って蓮華の上に生まれ変わるよりも、私はそっちの方が楽しくていいと思う」
 でも、蓮池を前にして言うのはさすがに憚られるわね。と、笑う様子があまりに無邪気で、全くだと諌めようと思ったのに、そんな気も失せてしまう。
「主がそんなことを言うから、なんだか見せつけているような気分になってきた。迷惑がられる前に帰ろうか」
 さらにはその晩、一夜しか花を拝めない月と違って自分は、などと幸福感に浸ってしまうのだから、俺も俺で、人のことは言えないまでの不行儀ぶりなのであった。


言わぬが花、知らぬが仏みたいな話


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