いけない。もう少しそっと開けるべきだったかも。
「…おはようございます。早く目覚めてしまいまして、お手伝いできることありますか?」
「あらおはよう…って、昨日もそうやって言ってたけど、あなたちゃんと眠れてるの?」
流石に今日は若干目の下に隈ができあがっていた。
それもそのはず。
昨日よりも早く目が覚めた上に、なんだか眠りも浅かった。
おかげで眠れたようで眠れていないような、そんな感覚の中で薄明るい空の光を浴びた。
眠りの浅い中見た夢は、知らない男女にひどく怒鳴りつけられている気分の悪いものだった。
一体私が何をしたって言うんだ。
目の下の青黒さを誤魔化すように化粧を施したが、気持ち程度でしかない。
おたまを持ったまま心配そうに近づいてくるおばちゃんに、火の元を離れては危ないと共に厨房へ入った。
「多分、まだ新しい環境に慣れていないだけだと思います。ご心配おかけしてすみません」
まな板の上で水を弾く瑞々しいきゅうりを、一口大に切りながら答える。
「そうならいいんだけど、お仕事中に倒れてもよくないし、合間に少し休む時間作るのよ?」
優しい気遣いに曖昧に答えてしまった。
素っ気なく思われていたら本当に申し訳ない。
ただ真っ直ぐにきゅうりを切るだけでも、靄がかかったような鈍い思考の中、何とか集中していたからであって、気遣いが嫌だったとかでは決してないんです。
そんな長々とした言い訳を喉の奥に留めたまま、二本目のきゅうりのヘタを落としていく。
今日は人の話をしっかり聞く。聞いた話を頭に残すようする。きちんと行動に移すようにする。
それぞれを意識しないと、昨日のようには動けないだろう。
昨日とまるで別人のようだと思われ、信頼を失うのは怖い。
塩と酢と砂糖とごまときゅうりを混ぜ合わせて、邪魔にならないところに置いておく。
後は昨日と同じく必要な野菜を切っていき、炊けた米をかき混ぜた。
「今日もおかげで早く終えたから、先に食べて仕事前に少しゆっくりしたら?ご飯食べられそうかしら」
「量を調整させていただいても…?」
食べられるだけよそいなさいと受け取った茶碗と皿に、少量ずつ食事を乗せて盆に置いていく。
よそわれていく食事の量に、おばちゃんはずっと眉を寄せていた。
昨日と同じ食堂の一番奥の端っこの席で、寝不足特有の胃の不快感と闘いながら、ゆっくりと箸を口に運んでいく。
だし巻き卵は優しい味でとても美味しかったが、断って二切れだけにしたのは正解だった。
あっさりとした和食なのに、一口一口が重い。
幸い朝はまだ始まったばかり。
食べないと仕事にならないので、食堂が混み出す前には食べ終われるように、一度箸を休めた。
湯呑みを手に取るために顔を上げれば、机の向こうに黒い装束が二つ。
視線を上に向ければ、山田先生と土井先生が立っていらした。
「やっと顔を上げましたな。おはようございます」
「あ…おはようございます。すみません、気が付かなくて」
いつからいたんだろう。全く気付いていなかった。
同席の声掛けに頷き、対面にお二人が座られる。
「なまえさん、なんだか顔色が良くないですよ」
「そうですか?全然元気ですよ?」
「本当ですか?ならいいんですが…」
「土井先生から食事の用意を手伝っていると聞きましたが、事務員のあなたがそこまでやる必要はないですよ。あまり無理をなさらず」
山田先生のお言葉はごもっともだ。
事務員の仕事は多岐に渡るが、食堂の手伝いは業務外のこと。
それに、望んで手伝っていたとしても、本業の仕事が疎かになるようでは意味がない。
今日みたく寝不足ならば、もう少し横になって少しでも体を休めて、本業に身を入れるべきだとは分かっている。
でも、部屋でじっとしていられなかった。
「昨日も今日も、たまたま早く起きてしまったので、少しお手伝いさせていただいてただけなんです。事務の仕事に影響が出ないようには致しますので」
「うーん、そういう話では…」
困った、と顔に書かれている幻覚が見える。
まだ味の染み切らないきゅうりをなんとか噛んで飲み込み、会釈して逃げるようにその場を去った。
少しでも食べられたならよかったと、おばちゃんは空になった食器を受け取って言ってくれた。
体を動かしていくうちに、だんだんと頭も覚醒してくるだろう。
食堂を出た足でまだ誰もいない事務室に向かい、昨日教えていただいた通りに、まずは事務室の掃除を黙々とこなす。
もし今日の仕事が書類の作成や整理などと言われてしまえば、文字が滑っていくし書き損じもしてしまいそうで、とにかく無心で埃を叩き、床を拭いた。
「あれ、障子が開いてる…あ!なまえさん!」
「小松田さんおはようございます。お怪我の調子はいかがですか?」
顔を上げれば小松田さんが、丸い目を瞬かせて立っていた。
痛々しく包帯の巻かれた手と、擦り傷に塗れたお顔。
見ている私まで、なんだか体が痛くなってきた。
「昨日はすみませんでしたぁ。もうへっちゃらです!それよりお掃除してくれてたんですか?」
「はい、先に済ませておきました。そうだ、吉野先生がお見えになられるまで、小松田さんが普段されている業務のこと、良ければ教えていただけませんか?」
座布団を私の向かいに置けば、にこにこと愛想のいい笑顔で部屋に入ってくる。
そして、へっぽこ事務員の名とは程遠く、きちんと仕事の話をしてくれた。
忍術学園への人と荷物の出入りを記して管理したり、来客案内とお茶汲みをしたり、その他事務員らしい仕事内容に相槌を打っていれば、時には学園長先生のお使いを受けたりするんだとか。
「学園長先生の突然の思いつきの用意とかも、最近はしたかなあ。こないだのはちょっと酷かったけど」
「学園長先生の突然の思いつき?」
「おや、二人とももうお揃いでしたか」
「「おはようございます」」
吉野先生がいらしたことで、話は中断される。
何なんだろう、学園長先生の突然の思いつきって。
愛想のいい顔が、渋いお茶を飲んだ時のような顔になったのも気になるが、本日の業務の話が進んでいき真相は闇に消えた。
本日は学園内の掃除業務を教えていただける事になっているそうで、よっぽどのことがない限りは寝不足の私でもヘマする事はなさそうだ。
生徒たちの掃除当番が存在しているらしく、一部の区間は掃除しないとのこと。
該当区間を反復して、頭に叩き込む。
そうだ。客間付近の掃除をする時に、荷物を移動させて部屋の中も掃除しないと。
食事をしていた時よりもはっきりとしてきた思考に安心しつつ、掃除道具を持って正門へ向かった。
「もしお客様がお見えになったら、入門表と出門表の説明をするので、お呼びしますね!なまえさんに教えるために誰か来てくれたらいいなー」
「その時はお願いいたします」
そんな都合のいいことがあるだろうか。
あるならば、私としては覚える機会が早々にあってありがたい。
校舎付近の掃除を引き受け、小松田さんと解散した。
校舎周りの小石と混じって「撒菱」と呼ばれる、足止めの武器が拾い損ねて落ちている場合があるらしい。
その時は見つけ次第、怪我しないように注意して回収するよう、忍者の学校らしい指示を受けた。
落ちている葉を一纏めにするように、箒を動かしていく。
今日は風がなくて葉も飛ばない、清掃にはもってこいの快晴。
思いの外落ちている枯葉をかき集めていると、頭上から名を呼ばれた気がして顔を上げる。
一番上の部屋から、乱太郎くんときり丸くんとしんべヱくんが顔を覗かせて手を振ってくれていた。
「おはようございまーす!」
他の教室に迷惑かと思い、とりあえず手を振り返した。
代わる代わるに一年は組のみんなが手を振りに来てくれるので、終わるまで振り返し続ける。
ちょっと首が痛いけど、これも愛おしさの代償と我慢した。
授業開始の鐘の音と共に、みんなの姿が教室へ消えていく。
すぐさま色々な先生の声が聞こえたが、一番高いところの部屋なのに、土井先生の声はよく通って聞こえた。
普段なら習うことのない忍術の説明に、私まで勉強になる。
面白いなと耳を傾けていると、ふと、きり丸くんが汗水垂らして授業料を払っていることが頭によぎった。
申し訳ない気持ちが芽生えてしまって、枯葉と木の枝をゴミ袋にまとめて、客間の方へ掃除場所を変えた。