「どうだ?まだ彼女を間者だと疑うか?」
誰もいない空間に話し掛けている訳では無い。
先程までは誰もいなかったはずの場所には、同じい組で同室の、潮江の姿があった。
立花の問いに答えは無く、潮江は黙って女がいる方を見ている。
「確かに、お前の思う事も分からんでもない。が、あの土井先生が怪しい女を学園関係者にする訳がないだろう」
「…わざと騙されている可能性も捨てきれん」
「それをして何の利益がある。あの話が仮に本当なら、知り合って半年経つ。帰る頻度が高く無くとも十分見極められる月日だ。話を聞いていてそんな事も考え付かないか?」
煽られた言葉に思わず一歩足が踏み出され、砂が鳴った。
何を思ったかその足はそのまま動かなくなり、何事もなかったかのように元の位置へ戻っていく。
潮江は不機嫌そうに舌打ちを響かせた。
「朝から監視していた成果はあったか?」
立花が体調を崩したらしい新しい事務員の元へ食事を運んだのは、何も善法寺伊作の不運のせいではない。
それは都合の良い建前であり、本音は「みょうじなまえが忍術学園の情報を取りにきた、間者かどうか」を調べたかったからである。
立花自身はほとんど気にしていなかったが、潮江は食堂で挨拶を交わした後の食満の話に引っかかるところがあったらしい。
部屋へ戻る道すがら、どうにも怪しくはないかと疑う同室相手に「ならば己の目で確かめれば良い」と進言した事が全ての始まりであった。
その晩、夜間の鍛錬へ向かう前に学園長の庵を訪ね、何を思って土井半助の推薦を承諾したのか問いただしたが、微笑むばかりで答えは無かった。
そうして立花と同じことを言ったのだ。
疑うならば忍術学園の生徒らしく、己の目で確かめてみてはどうだ、と。
そうと決まれば早速と、鍛錬をしながら立てられた計画は、同室の立花を巻き込んで明朝より実行された。
立花は囮であり、ふとした仕草や突拍子もない出来事に対応する動きの一つ一つを、潮江が注意深く監視していた。
彼女が目覚める前から長屋の天井裏に潜み、食堂、風呂に向かうまでの道中の全てにおいて。
彼女が陰の視線に気付いている様子は無かったが、果たしてそれは嘘か誠か。
昔、憧れの忍である山田利吉が言っていた。
「同業者であれば、どんな些細な事でもすぐに分かる」
歩き方、視線、危険への察知能力、そして気配。
潮江なら徹底的に目を配るであろうという信頼の下、みょうじへわざとらしくちょっかいを掛けていた。
しかし、あれで忍だと言い張るのであれば、土井先生もすぐにお気付きになられるであろう。
それに、もしそうだと言うならば、今すぐにでも忍者の仕事を辞めた方が身の為だと、立花は早々に笑いを堪えていた。
同時に、これを疑う潮江への嘲笑も込められていた。
「お前が怪しいと思った点は、業務外の用具倉庫に現れたのは本当に親切心か?修補を口実に何を保管しているか知りたかったのではないか?一つ疑問に思うと、もしかして事務員という立場を使って学園の情報を抜き取ろうとしている可能性はないか?その辺りだったな」
潮江は重心を片足に乗せ、腕を組んで立花を睨んでいる。
その瞳の真意は、立花への苛立ちか、自分への苛立ちか。
付き合いの長い立花には、どちらかなどお見通しだった。
「目の前で観察していた私からしたら、あれはどう見たって新しい環境に慣れるのに必死なただの女性だ。修補に現れたのも、単なる親切心と早く客間から出たかったからだろう。自分でももう答えは出ているんじゃないのか?素直に誤った疑いをかけたと認めたらどうだ、阿呆め」
「なんだと?」
まさに一触即発。
互いの手は互いの襟元に伸び、今まさに戦いの火蓋が切って落とされようとする中「やめてくださーい!」と二人の腰から下に外部からの衝撃が走る。
立花の足元にはしんべヱ、潮江の足元には乱太郎が抱き付き、その間をきり丸が両手を広げて、小さな体で懸命に喧嘩の仲裁をしようとしていた。
しんべヱの鼻からは粘度の高い鼻水が伸びており、立花の顔が打って変わってひくつく。
「先輩方、こんな所で何やってるんですか!」
「こんな所で喧嘩されたら、用具委員会の仕事が増えちゃいますよう!」
「何が火種か知りませんけど、落ち着きましょうってぇ!」
火種はきり丸、お前が日頃仲良くしている人物だ。と喉まで出た言葉を飲み込んで、二人揃って戦いの構えを解いた。
あほの一年は組三人には分からぬような、矢羽音が飛ぶ。
「最初から限りなくゼロだと思っていたが、私は白だと結論付ける。これ以上は付き合っていられん。あとは好きにしろ」
「言われなくても、納得するまで俺一人で様子を見る」
険悪なやり取りが行われているとは露知らず、しんべヱは立花の装束に鼻水をべったりと張り付け、やんわりと引き剥がされていた。
その眉と口元は、クールな面とは程遠く引き攣っていた。
そんな立花を、潮江は器用な奴だと横目で見ながら、静かにその場を立ち去った。