「入って構わないよ」
私の部屋の二つ隣、山田・土井と札が下げられた部屋から聞き馴染んだ声がする。
お茶と煎餅を乗せた盆を溢さないように気をつけながら、障子を開けた。
こちらを見る事無く朱墨のついた筆で懸命に何かを書いている土井先生は、私が机の上にそれを置くと顔をあげ、困ったように笑う。
「ありがとう。気にしなくていいのに」
「お時間作っていただきましたから」
今日は、土井先生に話を聞いてもらう事になっていた。
例の約束いつにしようかと聞かれて、お忙しい先生に合わせますと申し出た。
すると、山田先生が留守で部屋に一人だから気兼ねなく話せると、提示されたのは今日の日付だった。
気付けば、間者の疑いが晴れて一週間が経過していた。
「もう少し楽にしていいんだぞ」
垂直に伸びる背筋に、腿の上に揃えて置いた手。
驚く程無意識にしていたそれに、おずおずと足を崩して、なお止まらない手元を眺める。
「日を改めましょうか?お話するだけですし…」
頭を抱え、時折胃の辺りを摩りながら朱墨を滑らしている半紙は、よく見るとテスト用紙のようであった。
筆先が円を書く事は無く、先ほどから斜めの動きを繰り返している。
「対話は大切だよ。あと二人、恐らく九割バツをつけたら終わるから少し待ってて…いたた」
「丸の数増えると良いですね。採点済みのもの見てもいいですか?」
「大丈夫だよ。はぁ、全然違う…」
何度も教えただろうと呟きながら、線を書き足している。
テストの内容は忍術についてで、手にしたものはしんべヱくんのだった。
無慈悲に書かれた三の数字に、何点満点のテストなのかを尋ねるのはやめた。
「観音隠れ、うずら隠れ。ふふ、隠れとだけ書いておけば、三角をもらえると思ったんですかね?」
「そんな事で三角ばかりあげていたら、テストの意味が無いのになあ。というか凄いじゃないか。正解だよ」
しまった。
肝心な部分が抜けたテスト用紙から慌てて視線を上げると、筆を置いて驚いた顔で私を見ていた。
咄嗟に私の口から謝罪の言葉が出ていく。
「どうして謝る?」
「だって…おかしいじゃありませんか。答えられるなんて」
習ってもいない私が忍術を答えられた。
せっかく間者とは思えないと仰っていただいたと言うのに、これではまた…。
「授業前、は組のみんなが仕事中の君に手を振っているそうだね」
気遣うような優しい声色に、俯いていた顔をあげる。
ようやく仕事が落ち着いたらしく、やっと湯呑みに手を伸ばしていた。
「学園を走り回って、一生懸命仕事している姿を見ていたらやる気が出るって。ここ数日みんな居眠りしないで授業を受けているんだ。何を当たり前の事をと思うかもしれないけど、あの子らにとっては快挙なんだぞ?」
よっぽど嬉しいのか、ほろりと涙を滲ませて握り拳を作っている。
泣くほど?と思うが、目の前の採点済みのテストが事実を語る。
一年は組の教科担当担任は大変そうだ。
先日きり丸くんにバレていた、私が手を振るのを躊躇っている窓からの挨拶。
窓から見える子供達の笑顔は活力だ。
昨日なんか、よい子たちの声につられて一年ろ組のみんなも手を振ってくれて、やる気は二倍になった。
でも、きり丸くんにああ言ってもらってもなお、子供とはいえ深く交流しない方が賢明なのかもしれない、という考えが拭えない。
考えれば考えるほど、疑われない行動って何?という疑問に頭を悩ませていた。
土井先生にあの日話したかった事は、個人的な身の上話だったはずなのに、今はそんなことを気にする余裕が無い。
「なまえさんは覚えがいいから、きっと掃除している時に聞こえた授業の内容を覚えていたんじゃないのかな?」
驚いた。流石は教師というべきか。
優れた観察力に首を縦に振る。
「学費を稼いでるきり丸くんに申し訳なくて聞かないように意識してるんですけど、土井先生のお声、他の先生方よりもよく通るので耳に入ってきちゃうんですよね。勝手に聞いてしまってすみません」
すごいなあと呑気に感心していると、私の言葉に私の声ってそこまで聞こえてるのか、とほんのり顔を赤くして恥ずかしそうに笑った。
「文次郎に間者の疑いをかけられたんだってね」
赤みを失った顔は微笑みを浮かべたまま、相談したかった題材を口にした。
先行してその話を振られるとは思わず、煎餅に伸ばしていた手を止める。
「誰にそれを…」
「本人が私に謝りに来てね。なまえさん、驚く程良い人だから本心は気にしているんじゃ無いかって、文次郎にしてはかなり気にしていた。今日私に聞いて欲しい話の一つだと思っていたけど、違ったかな」
この学園の子達は、本当に優しい。
わざわざ土井先生にまで謝りに行っていたなんて。
しかし、何でこうもバレているんだろう、とまた視線を下げる。
この行動こそ、肯定を意味すると気付く余裕がない。
「潮江くんの行動は間違っていないと、よく分かっているつもりです。でも一度それを知ってしまったら、どう仕事をして、皆さんとどう付き合っていくべきか、正解って何かと悩み始めたら止まらなくなっちゃって」
思いの丈を吐き出して、伸ばしかけていた手で煎餅を掴む。
居場所をくださった土井先生にこんな事を言うなんて、無礼にも程があるし、何より申し訳ない。
「なまえさんは、ここでどう働いていきたい?それとも、こんな世界はこれ以上知りたくない、辞めたいと思ってる?」
働くのを辞めたいか?まさか。
その問いには悩むことなく、首を横に振って答えを返す。
「事務職がこんなに自分に合うなんて思ってもいませんでした。皆さんのお役に立ちたくて、早く色んなことができるようになりたい一心です」
初日からその気持ちは揺るがない。
だって私は、人の役に立つことが好きで、それが自分の生き様だから。
「じゃあそれでいいんだよ。君のその行動は、疑われたって間違いがないと証明されるものだ。知らないところで見られているのは、あまり気分は良くないだろうけど。私もテストのカンニングに潜まれたりするから、気持ちは分かる」
話しながら天井と床を指差され、指の先に視線を向ける。
木目がずらりと並ぶだけのそこに、今は誰かいるのか尋ねると、笑いながら誰もいないよと返ってくる。
私にはそれが嘘か本当か、分からない。
「忍術学園にいると驚くことばかりだろうね」
「そう、ですね。でもそういうことも理解して働けたら、もっと役に立てるのにとは思うんですけど…私、このままの気持ちで働いて大丈夫なんでしょうか」
「そう思う気持ちがあるだけ十分だよ。大丈夫、私が約束する」
土井先生は真剣な眼差しで私を見ていた。
何でこの人は、こうも他人の私を信用し、気にかけてくれるのか。
他人を信じるって、難しいことなのに。
その瞳を見つめ返すと、私を安心させるように微笑みが返ってくる。
不思議だ。
どうしてこの顔を見てると、大丈夫な気がしてくるんだろう。
「もしかして私ってちょっと…いや。かなり悩みすぎ、ですか?」
「お、自分を客観視できて偉いじゃないか」
「そんな、こっちは真剣に悩んでるのにひどいですよ!」
「冗談冗談。まぁ、たくさん考えることができるのは、なまえさんのいいところだけどね」
朱墨の乾いたテスト用紙を纏めて、溜息を漏らしながら出席簿に挟んでいる。
残念ながら丸の数は増えなかったらしい。
「さて、悩みは落ち着きそうかな?」
「綺麗さっぱりとは言えないです。でも、こうやって思っている事を口に出して、聞いてもらって、土井先生の目を見たら大丈夫かもって思いました」
私の目?と自身の瞳を指さして不思議そうにしている様子に、笑いが込み上げてくる。
うん、やっぱり大丈夫かも。
「知らないから怖い部分もあると思うので、できる事を一つずつ頑張ろうと思います。それで疑われるのなら行動で示すまで。ですよね?」
大丈夫。信じてくれている人が、ここにいる。
握り拳を作って勇む私に、土井先生はその意気だと同じように拳を握った。