31. 縁は異なもの、味なもの

自室に戻ると、山田先生が机に向かわれていた。
労いの声をかけて私も机に向かい、もらった箱を机上に置く。

「その箱はどうした」
「なまえさんから仕事を紹介してくれたお礼に、といただきまして」

蓋を開けると覗き込んだ山田先生は、顎に手を当て、いいセンスをしてると口にして元に戻っていく。
散々なぞったそれを、私は再び指でなぞった。

綺麗に掘られた、「土井半助」の文字。
すっかり馴染んだ、私の名。
山田先生に名付けていただいた、大切なもの。
なまえさんには記憶が確かなら、一度も名を呼ばれた覚えがない。
土井先生、と始めから呼ばれていたはずだ。
私は君の先生じゃ無いだろうと口にした記憶が、薄らある。
その時の彼女の反応は、あまり記憶に無い。
きり丸との会話の雰囲気から、悪い理由からという訳でもないようだが、どうやら意図してそう呼んでいるらしいということが、出会って半年も経った先ほど判明した。
それを少し悲しく思うのは、行きすぎた感情だろうか。
しかし、それよりも彼女が私の名を覚えていてくれたということが、想像よりも遥かに嬉しいと思ってしまった。
やはり、一度冷静になるべきだ。
先日の利吉くんの一件から、どうにも良くない感情に苛まれている気がしてならない。

「いつまでその筆を見てにやついている」

山田先生の何か言いたげな目に、慌てて筆をしまうと、蓋裏からぼとりと包み紙が落ちた。
よく先ほどの時に落ちなかったものだ。
複雑な仕掛けが掛けられていたとは思えないし、偶然なんだろう。
折られた紙を開いていくと、中にはお守りと彼女の筆跡で一筆認められていた。

[お二人の日々にたくさんの幸が訪れますように。どうにもならないどん底な日まで、紐は緩めないでください]

どん底な日、か。
私のどん底は、家族を、住む場所を、それまでの生活を、名前を、全てを失ったあの日に終えている。
この紐を緩めることは無いだろう。
いや、「土井半助」のどん底はまだきていないかもしれないな。
可愛い教え子によって胃が痛い日々ではあるが、あの頃に比べればどうということはない。
そんな日が来ない事を祈り、彼女からのありがたい気持ちの籠った贈り物を大切に受け取って、少し悩んで懐へしまい込んだ。
そのタイミングで、戸の向こうから先程まで一緒にいた声が聞こえる。

「土井先生、山田先生、きり丸です」
「入りなさい」

失礼します!と戸が開くと、そこには利吉くんときり丸が並んでいた。

「利吉、今日は遅かったな」
「仕事が長引きまして。父上、遅かったなじゃなくて、まずは呼び立てた事への詫びじゃ無いでしょうか」

青筋を浮かべた顔に、また洗濯物の回収に呼ばれたんだなと苦笑い。
きり丸は後ろで駄賃さえくれたら俺が洗いますよ!とちゃっかり売り込んでいる。抜け目ないな。
ところで、きり丸は一体何の用だろうか。

「きり丸は利吉くんの付き添いか?」
「あ!違います。土井先生、箱の裏側見ました?」

机の上の化粧箱に視線を向けるきり丸の手をよく見ると、握り拳の指の間から先程まで私の掌に収まっていたものと同じ紐が覗いていた。
落とさないように大切に握られているそれに、笑みがこぼれる。

「お守りのことなら今気付いたところだ」
「ならよかったです。小さいし、何も言われてなかったしで、落としてたらいけないなと思って伝えにきただけです」
「わざわざありがとう」

利吉くんは私の机にある蓋の空いた箱を見て、流行りの筆じゃ無いですか。と言う。

「流行り?」
「ええ、細かく注文ができるとかで結構繁盛してるらしいですよ。頂き物ですか?」
「うん、なまえさんからね」
「…へぇ?」

言わなくていいものの、つい彼女の名前を出してしまった。
片方の口角だけ上げている様子に、そう言うのじゃ無いぞと釘を刺す。
先程、何か言いたげに私を見ていた山田先生のお顔とそっくりだ。

「まだ何も言ってませんよ」
「顔から言いたいことがよーく伝わるよ」
「利吉さん、これ俺ももらったんすよ。いいでしょ」
「へぇきり丸も?それはよかったね」

にへらと笑うきり丸は、本当に幸せそうに笑っていて、見ている私まで心温まる。
仕事の紹介は無論彼女の為ではあったが、こうして見るときり丸のためにも、忍術学園を選んで良かったと思ってしまう。
学園長先生のツテで他を薦めることだってできたんだ。
そんな彼女も一波乱あったものの、苦しい顔せずいつ見ても笑顔で仕事をしている。
来客の方にも好評だと、この間学園長先生が食堂のおばちゃんに話していたようだし。

きり丸はよほど嬉しかったようで、もらった筆とお守りの話を利吉くんに話し続けていた。
それを利吉くんと、山田先生は耳を傾けて優しい顔で聞いている。

なまえさんといると、きり丸が年相応に子供らしく見えるのは、彼女に感謝したいところだ。
私がきり丸を気にしたきっかけは、周りの子たちより大人びて浮いて見えたからで。
これも一重に、帰っている間きり丸に親身になって面倒を見てくれているおかげだろう。
留守の間だけ家の管理をしてくれるはずが、気付けば帰ると彼女も生活の一部になっていた。

私もきり丸も、少なからず彼女と出会って変わった面はある。
やはり、私が目を背け続けているこの気持ちは、きっと間違いじゃないんだろう。
この学園に彼女を連れて来て、すぐ会えるようになった事は少なからず嬉しい。
それだけで無く、楽しそうに小松田くんや次いで年の近い六年生と話している姿を見かける度に、少し心配してしまうのは、彼女を思ってではなく私の心の奥で渦巻く醜い感情。
彼女の心が、誰かに傾いてしまうのではないか、そういう心配。
…というのは、私の気の迷いだとずっと自分に言い聞かせている。

風呂敷に包まれた洗濯の受け渡しをする傍ら、山田先生が思い出したように利吉くんを叱りつけた。
先日、なまえさんを忍務に同行させた件は、出所不明だが山田先生の耳にしっかり届いていたらしい。
私の方を見てきた利吉くんに首を横に振り、きり丸に早めに部屋を出るよう手を払って合図した。
こればかりは利吉くんが悪いと、助け舟を出さずにそのやり取りをお供に事務作業へと着手する。
こうしていると利吉くんが成長したとはいえ、山田家にお世話になっていた頃を思い出すなあ。

しかしながら、事の顛末を話す利吉くんの一単語が耳に入るたび、私の手はどうしても一瞬動きを止めてしまった。

「なまえさんが」
「しかし、なまえさんも」
「なまえさん」

仮初の恋人の際、名前で呼んでいたのは知っている。
恋人のことを、名で呼ばないのはおかしな話だから、役になり切ってそうなるのは自然な話だ。
私はどうしてか、てっきりあの時限りなのかと思い込んでいた。
知らぬ間にすっかり名前呼びを定着させたらしく、親しげにその名を口にしている。
そこまで考えて、私は胸の奥で固く閉じられていた箱の蓋を思い切って開けるように、短く息を吐いた。

嗚呼、これで嫌でも自覚してしまった。
私は、彼女に───。

prev next

>> list <<