昨夜から降り注いでいた雨は人々の起床と共に止み、曇天の空の中、日が暮れるまで嫌な湿気を空気中に残した。
湯浴みも済ませたというのにすっきりしない体に、掛け布団が張り付いて不快で中々眠りにつくことができない。
かといって布団を剥ぐと妙に落ち着かず、仕方ないと諦めて布団から這い出ると、私は足音を潜めて職員長屋を抜け出した。
食堂から急須と湯呑みを借りて、部屋の前まで戻る。
縁側はわずかに濡れている気がするが、もうこの際気にしても仕方がない。
明日洗濯する予定の手拭いを縁側に敷いて、その上に腰を掛ける。
明日の天気は快方に向かうのか、夜風は湿気を少しずつ取り払うように緩やかに吹き、室内にいるよりは幾分かマシに思えた。
ここ数日酷い雷雨が続いているところを見るに、直に梅雨も明けそうだ。
縁側の下に伸ばした足を意味もなく揺らすと、数日ぶりの月明かりが濃い影を落とし、足の動きと共に揺れる。
温めの白湯にはまだ手をつけず、蛙の輪唱に耳を傾け、目を閉じる。
輪唱の中から微かに私の名前を呼ぶ声がして、目を開き声のする方へ首を動かせば、二つ隣の部屋の前に寝巻き姿の土井先生がいらした。
私と目が合うと、木の軋みを一つも鳴らさず隣へやってきて腰をかける。
「まだ起きてらしたんですか」
「そういう君こそ。眠れないのか?」
「疲れてはいるはずなんですけどね」
ちらりと濡れ縁に置いた盆を見る。
気まぐれに湯呑みを二つ持ってきたのは、頭のどこかで気付いてもらえるのを望んでいたから?
そんな、まさかね。
「白湯飲まれます?」
私の問いかけに伏せられた湯呑みを見やると、緩く微笑んで頷いた。
自然から発せられる音が時折聞こえるだけの静かな空間に、とぽとぽと白湯を注ぐ音が響く。
「もしかして、物音で起こしてしまいましたか?」
「いや、さっき授業の用意が終わって寝ようかと思ってたところなんだけど、人の気配がしたから覗いてみたんだ」
「こんな遅くまで?大変ですね…お疲れの中申し訳ないです。気配を消せたら良かったんですけど、流石に難しくて」
「はは、気配を消せてたら今頃君はくのいちだって完全に思われてるだろうな」
「確かに、それはそうかもですね」
私と違って眠気があるのか、はたまた疲労からか、いつもより細い眼が私を捉えている。
寝巻き姿の土井先生を見るのは、洗濯物をお願いされたあの日から二度目。
髪を下ろしている姿はやはり見慣れず、まじまじと見てしまいそうになるのを抑え込んで、重たい雲間から覗く星に目を向けた。
もしかすると、今がちょうどいい機会かもしれない。
そう思い、躊躇いながらも口を開いた。
「土井先生。少し、昔話をしてもいいですか?楽しい話ではないんですけど。眠くなったら、お好きに席を外してもらって構いませんから」
隣から返事はないが、否定も無い。
空を見上げたまま、盆一つ挟んだ距離にだけ聞こえるような声で、私は語る。
「私、山に捨てられた時泣かなかったんです。母が私に対して愛を持っていないのは、子供ながらに何となく分かっていましたし、父の顔は覚えてないというよりきっと最初からいなくて。かと言って、このまま野垂れ死にたいとは思わなくて、山の中を必死に歩いていたら両親が声を掛けてくれて。おかげで、今、私はこうして生きているんですけど」
下ろしていた足を折りたたみ、手拭いの上でこぢんまりと膝を抱える。
「でも、そんな命の恩人だというのに、亡くなってひとしきり泣いた後、気持ちがすぐにこれからどう生きていくかに切り替わったことに気付いたんです。その時、私ってなんて薄情なんだろうと思いました。いつかその薄情さが、仲良くしてくれている周りの人たちを…土井先生やきり丸くんを傷付けてしまうんじゃないかって、時々怖くなります」
土井先生のお部屋で話を聞いていただいたあの日に話したかった胸の内を、ようやく吐き出せた。
例え見損なわれたとしても、土井先生にはもうこの世には私しか知らない拾われた時の話を、きり丸くんと関わるうちに芽生えた子供への愛おしさを、それを傷付けてしまう事への恐怖心を、聞いて欲しかった。
ぽすり、と頭上から人肌の温もりを感じる。
指摘してからは控えられていた、大きな手の温もり。
「私は、なまえさんと話していて薄情だと思ったことはないよ。それに、君自身がそうだと思っているなら、変われるチャンスは十分ある」
頭上から伝わる人肌は強張った私の緊張の糸を解くように体に沁みていく。
心地良い感覚。
不快感で訪れなかった眠気が、遠くから近づいてくる。
「ありがとうございます。気付かせてくれたのは、紛れもなく土井先生ときり丸くんのおかげですよ。お二人と出会ってなければ、両親が亡くなった今頃はもっと拗らせて心から冷たい人間になってたと思います」
そう言うと、「そんな君は想像できないなぁ」と優しい声がする。
「お二人に拒絶された日には、きっと両親が亡くなった時より泣く気がしています。だから、土井先生には、私の気持ちの整理も兼ねてこの話をしたいと思ってたんです。勝手にこんな話をされても困るでしょうけど、聞いていただきありがとうございました」
きっと今頃胸中でお困りのことだろう。
これは私の一方的な気持ちの押し付けに過ぎない。
その内流れてくるだろうと踏んでいた厚い雲が予想通り月を隠し、辺りは一気に闇に包まれる。
そんな暗闇の中、土井先生が湯呑みを置いた音がして、鼓膜を優しい声色が揺らす。
「なまえさんが何か言いたげな事にはだいぶ前から気付いていたよ。話をしてくれない以上詮索するのはやめていたんだ。きっと、私よりきり丸の方が君のことを知っている。私ではなくても、何かを話せる相手がいるならそれに越したことはない。そう思っていた」
瞳孔が開き、暗闇に少し目が慣れ始めた頃。
私の頭を撫でていた手は左肩に移動し、内に押される。
土井先生の温もりが私の頭と、右半身に触れた。
今の私たちの姿を想像し、恥ずかしさもありながら、その温もりに酷く安心した。
安心が上回り、だんだんと眠気が強くなっていく。
夜更けまで付き合わせたお礼を伝えて、盆を机に置いて、数刻後に備えて布団に入らないと。
そう頭では理解できても、やってくる眠気に体が動かない。
「なまえさん自ら話してもらえた事、嬉しくて驚いているよ。聞かせてくれてありがとう」
嬉しい?と疑問を呈した言葉は、芯を持たない発音で口から漏れ出ていく。
それに気付いた土井先生は私を見下ろすと、肩に触れていた手を背中に回し、優しくさすった。
まるで幼子を寝かしつけるようなそれに、普段の私なら子供じゃないのだからと、手を退ける事だろう。
ただ今は、この温もりを素直に感じていたかった。
この学園で働く事になり、頭を撫でられる事が増えてから何となく思っていた事が、眠気で遠ざかる意識の向こうで徐々に明確化されようとしている気配がする。
「このまま眠っていいぞ。おやすみ」
就寝の挨拶は、声にならずに吐息と消えた。
意識が落ちる直前、胸の奥にあった気持ちがなんと呼ばれるものなのか、ぼやけていた単語の輪郭がくっきりとしていく。
私はきっと、土井先生の事が好きなんだ。