その事実は、寝ぼけた頭を覚醒させるには十分だった。
急須と湯呑みを慌てて食堂に返しに行き、朝食を二の次に学園内を駆け回る。
ここにもいない、あそこにもいないと漸く目的の人物を見つけて朝の挨拶よりも先に夜中の無礼を謝り倒し、会話もほどほどに食堂へ蜻蛉返り。
目線は、一度も合わせられなかった。
そんな慌ただしい朝で始まった今日は、昨日の湿度は何処へやら、からりと暑い日差しが降り注ぐ。
梅雨が明け、学園に生える木や裏山からけたたましく蝉が鳴き、一気に夏めいた。
手拭いで汗を拭いながら箒を掃いていると、私を呼ぶ元気な声が二つ、髪を左右に揺らしながら正面からやってくる。
「兵太夫くんに三治郎くん、こんにちは」
「「こんにちは!」」
屈託のない笑顔で私を見上げる二人につられ、口角を緩める。
声を掛けて欲しいと訴えるような煌めく眼差しに促されるまま要件を問うと、兵太夫くんが初めに口を開き、まるで台本を読むように二人交互に話し始めた。
「前には組のみんなで競争して、一位になった人になんでもしてあげる。と仰ったの、覚えてますか?」
「あの約束ね?もちろん、覚えてるよ」
「誰からも一位になったって聞いてないなーって、思ってましたよねえ?」
「うんうん、思ってた」
ふとした時にそういえばどうなったのかと気になる瞬間はあれど、誰からも申し出はなく、一位が決まらなかったのか、すっかりみんな忘れているのかと思っていた。
初日から土井先生にご迷惑はかけられないと咄嗟に考えついたものだったし、誰かに尋ねる程でもないかと放置していたが、どうやら忘れ去られていた訳ではなかったらしい。
「その一位は、笹山兵太夫が勝ち取りました!」
いえい、と二本指をこちらに見せつけ胸を張る兵太夫くんの横で、三治郎くんがどこからともなく紙吹雪をばら撒いている。
降り注ぐ紙吹雪を目で追いながら、私も箒を抱えて控えめに拍手で祝福する。
約束を果たすために要望を尋ねると、二人の口元がにやりと上がった。
「お仕事が終わったら、ぼくたちの部屋に遊びに来てください」
「その前に食堂に寄って、ぼくに声をかけるのを忘れないでくださいね」
隠す気のない何かを企む顔と、妙な指示に不安になるなという方が難しいかもしれない。
にこにこと崩れない笑みが、段々と恐ろしいものに見えてきた。
「食堂で三治郎くんに声をかけてから、二人の部屋に行くのね?仕事が終わったらすぐ行くよ」
じゃあ!と二人仲良く手を挙げて走り去って行くのを、一抹の不安を抱えながら手を振り返して見送る。
なんで兵太夫くんだけじゃなくて、三治郎くんも一緒に来たのだろう。
同室だから、というには何か含みがあるように思う。
いや、子供相手に疑いすぎかな?
そう思いながら、私は三次郎くんがばら撒いた紙吹雪を箒でまとめた。
終業間際の大混乱を大慌てで立て直し、急いで食堂へ向かう。
すっかり遅くなってしまった。三治郎くんはまだいるだろうか。
息を切らして食堂へ駆け込めば、頬杖をついて欠伸を漏らす三治郎くんの姿。
待ちくたびれた様子に、謝罪をしながら近づく。
「三治郎くん!お待たせしちゃってごめんね」
「大惨事だったみたいなので、もう少し長引くの覚悟してました!さすがなまえさん」
「覗きに来てたの?往復させちゃってごめんね」
「これくらい全然平気ですから!それじゃあ、この後ぼくたちの部屋に向かってください。ぼくはここでお別れです」
「一緒に向かうわけじゃないんだ?一体二人の部屋に何があるの?」
「ふふふ、いってらっしゃーい」
ひらひらと振られる手に、三治郎くんを見つめる。
そうだ、もたもたしている場合じゃない。
彼だけじゃなくて兵太夫くんも待たせているのだ。
廊下を走るな!と怒る人が見当たらないのをいいことに、全力疾走で一年長屋に向かうと、こちらも待ちくたびれたと言わんばかりに欠伸をこぼして伸びをする小さな背中。
「はぁっ、兵太夫くん、遅くなって、ごめっ、けほっ」
「ええっ!?なまえさん深呼吸してください!」
優しく背中を摩ってくれる小さな手の優しさを受けながら呼吸を整えていると、どこからか草笛に似た音が流れてきた。
私も子供の頃に吹いたなあと懐かしい気持ちでいると、その音を聞いた兵太夫くんが音の方面に向かって分かった!と大きく返事をした。
私にはただの草笛にしか聞こえなかったけど、どうやら何かの合図らしい。
私の呼吸が落ち着き始めたのを確認すると、兵太夫くんは背中から手を離し、その手を障子戸へ向けた。
「ぼくたちのカラクリ部屋にようこそ!中に入ったら、椅子に座ってください。そしたら左側にコの字型の木枠がついてるので、それを反対側の固定具に嵌め込んでください。木枠からは手を離さないように!これだけ守れば、楽しいアトラクションが待ってます!」
部屋とは結びつかない数々の単語が聞こえた気がする。疲れているのかな、私は。
兵太夫くんの手によって障子戸が開かれると、他の一年長屋と変わらない空間のど真ん中に、お手製の椅子が異質を放って鎮座していた。
固定具がついた椅子なんて、聞いたことも見たこともないし、おまけに足には滑車が見える。
異様な光景に立ち止まっていると、小さな手で背中を押された。
部屋の中に足を踏み入れるなり、ぴしゃりと音を立てて障子戸が閉まる。
「一応聞くんだけど、これは座って大丈夫な椅子なのよね?」
いくら子供のお願いといえど、得体の知れないものに座るには抵抗があった。
念のために確認すると、「もちろん!絶対楽しいですから!それに危なくなった時の作戦はちゃんと考えてあるので!」と不安を増長させる答えが返ってくる。
ええと、それってつまり危ないこともあるってことだよね?
「私、生きて帰って来れる?」
「やだなぁ、土井先生ときり丸が悲しむようことしませんよ」
言葉尻に笑いを滲ませてそう言われる。
この子たちの安心の判断ってそこなんだ?
「固定具をしっかり嵌めて、ちゃんと握りさえしてれば問題ないですから」
「大分危険そうだけどね?」
宿題を教えて欲しい、一緒に遊んで欲しい、美味しいものが食べたい。
そんな子供らしいお願いを想像していた数刻前の私が霞んでいく。
しかし何でもする、なんて言った手前後にも引けず、子供の作るものだし。きっと大丈夫。と自分に言い聞かせて、恐る恐る固定具を嵌め込んだ。
結果から言えば、とんでもなかった。
私は今、土井先生に抱えられ目を回し動けずにいる。
私が無事だったことに安堵の表情を見せたのも束の間、青ざめた顔で走ってくる二人に特大の拳骨が飛んだ。
こればかりは、私も止めてあげられそうにない。
固定具をはめると、床が開いて、椅子が落ちた。
落ちたと言っても、背後でカラカラと音が鳴っていたので、絡繰によって床下に運ばれたというのが正しい、と思う。
驚きのあまり周りを見る余裕は無く、よく分かっていないのが正直な所だ。
土の匂いが鼻につき、地下に掘られた通路に一直線に敷かれた溝を、椅子が加速しながら滑っていく。
風を切る音に混じってカタカタと聞こえていたのは、きっと歯車なのだと今更ながら思った。
時折椅子が上下すると腹の奥で感じる浮遊感に、何度か悲鳴をあげた。
止めに椅子は緩やかな坂を上ったかと思えば、背後で轟音がして、私は椅子ごと宙に放り出された。
その衝撃で固定具が外れ、椅子から体が飛び出る。
落ち葉と共に空を舞う私の視線は、ゆっくりで。
食堂が見えるな、なんて呑気なことを思いながら、せめて頭は守らないと、と妙に冷静な頭で腕を動かすと、下から衝撃が走った。
黒い布が風を切ってはためく音と、着地の衝撃。
何の巡り合わせか土井先生に助けてもらえたようで、地下通路を回り回った私は目を回したままお礼もできず、一周回ってへらへらと笑っていた。
木の幹を背もたれに降ろしてもらった私に、大きなたんこぶを作った兵太夫くんと三治郎くんが謝りながら泣きつく。
「本当はあそこで後ろ向きに部屋まで戻るはずだったんです」
「試運転の時はちゃんと動いてたのに、うまく装置が起動しなくて、なまえさんを危ない目に遭わせてごめんなさい」
わんわんと泣き喚きながら抱きつく二人の頭を撫でる。
「土井先生ときり丸くんが悲しむようなことはしないって言ってなかった?」
まだ左右に揺れている感覚に目を閉じながら、意地悪に言うと顔の穴という穴から全てを出して私に縋り付く。
薄目に土井先生を見やると、驚いた顔をした後に「それであそこで…」とぼやいていた。
もしかして、土井先生が助けてくださったのって、兵太夫くんの言う「作戦」?
だとしたらとんでもない。
私の推測の答えは分からないまま、私の服を濡らし続ける二人の頭を撫でる手を止めず、優しく声をかける。
「でも、私二人の技術にすっごく感動しちゃった。怖かったけどちょっと楽しかったから、今度は絶対安全なアトラクションにしてまた呼んでほしいな。それにこれ、きり丸くんが知ったら、お金が取れるってきっと食いつくよ」
私は死んだのかと錯覚するくらい泣き喚く二人に気持ちが落ち着いてきて、目を開けて兵太夫くんの頭を、三治郎くんの背中を優しく撫でる。
こんな大掛かりなもの、一日二日で出来るはずもない。
私に今日まで声がかからなかったのは、制作期間が要因だろうと気付いてしまうと、怒るに怒れなかった。
代わりに土井先生が鉄拳を下しているし、私はこれ以上何も言うまい。命もあったし。
二人にとっても良い学びがあったに違いない。
立ちあがろうとする私の手を掴み、土井先生が優しく引き上げてくれる。
初めての経験に中々浮遊感が抜けず、よろけた私は土井先生へ倒れ込んだ。
おわっ!?と頭上で聞こえた声と共に地面に倒れ込む。
それでも、せめて守るようにと背中に回る腕に気付き、土井先生を下敷きにしてしまったことに大慌てで退いた。
「ごっ、ごめんなさい!」
「私こそ支えられなくてすまない」
顔をまともに見れないまま何度も頭を下げる。
兵太夫くんと三治郎くんが、涙を引っ込めて顔を見合わせていた。