竹林に囲まれた風情溢れる庵の中で、いくつかの書類にサインをし、学園内のことは外部に漏らさないなど、機密情報の扱いに関してもしっかりと契約を交わした。
これが一番大切だ、とサインをする前に神経を研ぎ澄ませて読み込んでいたら、学園長殿には雇用契約書よりしっかり読んでいると笑われてしまった。
土井先生は、何故か誇らしげであった。
ちょうど一週間後が学園の休校日であるらしく、土井先生がわざわざお休みの中迎えに来てくださることになった。
それまでに部屋の用意や事務員の仕事着なども揃えておいていただけるらしく、至れり尽くせりな展開に何度こうべを垂れたことか。
本格的にそろそろ帰り始めないと帰るまでに夜が訪れてしまうということで、伝えきれなかった部分はまた今度、と庵を後にする。
土井先生は途中で席を外されていたので、ヘムヘムに門まで送っていただいた。
私もこの不思議な犬に、そのうち慣れる日が来るのだろう。
どこからともなく現れた小松田さんが、お帰りですね!と流れるようにバインダーを提示してくる。
出門表、担当小松田と書かれた用紙に数刻前と同じようにサインをして、同僚となる彼に先んじて挨拶をしておくことにした。
「来週より事務員として働かせていただくことになりました。改めて、みょうじなまえと申します。小松田さんは同じ事務員とお伺いしておりますので、何かとご迷惑お掛けすると思いますが、よろしくお願いいたします」
「えぇ!そうなんですかぁ!僕に後輩ができるなんて嬉しいなあ。なんでも聞いてくださいねぇ。あ、ぼく小松田秀作っていいます!」
差し出された手を握り返せば、足元の落ち葉が回る勢いでぶんぶんと上下に振られる。
されるがままにいれば、視界の端から私服に着替えた見慣れた土井先生がやってきた。
「どこかお出かけですか?」
「途中までになりますが、送ります」
「へ、いやいやそんな!お忙しいでしょう?気にしなくて大丈夫ですよ」
「いいや、よくないよ。小松田くん、これ外出届」
私とはまた違った書類らしきものを小松田さんが受け取れば、今度はちゃんと門から出入りさせてもらえた。
来た時よりも傾いた太陽に、行きで疲れた足を頑張って動かす。
土井先生とこの道を歩くのは、きり丸くんの花売りのアルバイトを手伝ったとき以来だろうか。
二人で歩くのは初めてかもしれない。
「お節介を焼いてしまったかな」
「えっ?」
「仕事のこと。相談もなく、勝手に学園長先生に話をしてしまって、今更ちょっと申し訳なくなってきてね」
こちらを見下ろす顔は、いつにない下がり眉だった。
「なまえさんにはいつもお世話になっているから、役に立てたらと思ったんだ。一人は心細いだろうし、事務員なら忍じゃなくてもやれる。日中はたくさんの人の声もするから、気も紛れていいんじゃないか。ましてや君は本当によく働くのを私やきり丸は知っているから、案外打ってつけなのかもしれないと思って…というのを、あの場でちゃんと伝えるべきだったね」
前々から思っていたけど、本当に謙虚な人だ。
ご飯を食べる手を止めてまで、こんなに沢山の事を色々と考えてくださっていた嬉しさが、心に沁み入る。
「正直、凄くありがたかったです。色々考えたけど、悪いところが見当たらなくて。こんなに好条件で大丈夫なのかな?っていうのが不安要素になるなんて、とても贅沢ですよね」
そう伝えればほっと安心した顔に変わり、次にはまた眉が下がった。
「きっと君が働いてくれたら、小松田くんのやらかしによる吉野先生のご負担も減るよ」
「やらかし?」
「小松田くんはへっぽこ事務員って呼ばれていてね。もうそれはそれは、どうしてそんな間違いが起こるのかと言いたくなる程すごくて」
「そんなにですか?」
「きっと君が迷惑をかけるより先に、小松田くんが何か起こすよ」
大きなため息をこぼせば、それからは過去に小松田さんが起こしたと言う聞いていてもにわかには信じがたい出来事の話に、これは私を安心させる冗談なのか?それとも本当なのか?、あまりにも判断が難しく緩い相槌を返す。
話を聞くのに夢中になっていれば、気付けば地蔵のある体感中間地点あたりで、土井先生は足を止めた。
「本当なら最後まで送り届けたいのですが…長屋まで行くわけにいきませんので、ここまでとさせてください。お疲れかと思いますが、なまえさんの足なら日が落ちる前に帰れますよ。お気をつけて」
「お忙しいのにありがとうございました。来週もわざわざ来ていただけるの、申し訳なさとありがたい気持ちでいっぱいです」
「私が蒔いた種ですから、できる範囲でサポートさせてもらいます」
その蒔いた種のおかげで、私がこの先も変わらず生活していけるのに。
この先も…そう言えば。本当は道中に伝えたかった事があったんだと思い出し、考えていた事を伝えるために口を開く。
「そうだ土井先生」
「何か?」
「お二人のお家に、我が家にあるまだ使える家具や調理道具なんかを運んでもよろしいですか?」
突拍子もない私の話に、土井先生は話が掴めないのか不思議そうに首を傾げている。
「あの家、出ようと思ってまして」
今日何度見たか分からない驚いた顔だ。
「私一人で住むには、ちょっと困ることも多いんですよ。住み込みで働かせていただける間にも家賃が発生するなら、いっそ手放そうかと」
「…いいのかい?それで。帰る場所がなくなるということだよ」
「学園にいられない事情ができたときは、また考えますから。使い古しでよければもらっていただけると、むしろ助かります」
複雑な顔をしながら、なんと声をかけたらいいのか口を開けそうになってはきゅっと閉じている。
次の言葉を待たず、私は話を続けた。
「というわけで、お家に何度かお邪魔しますね。ついでに空気の入れ替えと、お掃除もしておきます。では来週、よろしくお願いいたします」
地面を蹴り出した足は、意に反して少し歩く速度を早めた。
振り返ればなんとも言えない顔をした土井先生がまだそこに立ち尽くしていて、そんなに心配しなくても大丈夫だという意味を込めてにこやかに手を振れば、少しだけ頬を緩めて振り返してくれた。