怒涛の夏休み前業務に片がつき、久しぶりにきり丸くんのアルバイトを手伝っている時だった。
もちろん、の部分を強調して少しの圧を滲ませながら問われる。
ぎくり、と肩が少し上がったの、バレていなければいいけれど。
手元からそっと目線を上げると、猫のような瞳がどんどんと細くなっていく。
ダメだったらしい。
「…まだ決まってはいないんだけど、学園長先生のお知り合いのお屋敷に、住み込みで雑務をさせていただくお仕事をよければどうかって…もう、そんな顔しないでよ」
眉間に皺を寄せた見事な逆八の字眉。
人差し指でその皺を伸ばすと、触れるなと顔がそっぽを向いて、膨れた頬のラインがよく見えた。
確かに、私はここで働き始めてから一度も帰っていない。
二人に黙って墓参りに行ったことはあるが、早朝から出向いて夕方には戻ってきた、本当にただ墓参りをしただけの日帰りコースだ。
お世話になった大家さんやおばちゃんにちょっと挨拶、なんてこともしていない。
布団こそ置いてあれど、自分の気持ちに気付いてしまってからは、とてもじゃないが一つ屋根の下で過ごす勇気はなかった。
何となくうまいこと逃げてきたが、ここにきて「夏休みは学園が閉まり、職員含む全員が学園を出なければならない」なんてことになるとは思っていなかった。
頼れる親戚もおらず、一月ちょっとも宿に泊まるには金銭面も不安な中、事情を知る学園長先生がお声掛けくださったのは、数日前のこと。
そんな有難い話はないとすんなり首を振り掛けたところで、脳裏にきり丸くんの顔が浮かんだ。
共に帰るから土井先生は付きっきりでいてくださるだろうが、以前の連休に大変ご立腹の様子で私の部屋を出て行ったきり丸くんは、果たして許してくれるだろうか。
この様子じゃ快く許してはくれなさそうだ。
でも、それが少し嬉しくもある。
きり丸くんなら稼ごうとする私を送り出してくれそうなものだけど、一緒に過ごしたいと我が儘な感情をはっきりと表に出してくれている。
むしろ自分が代わりに働きたいと言ったって、おかしくはなさそうなのに。
弟がいれば、きっとこんな感じなんだろう。
これは、私がぐっと自分の気持ちに蓋をして、何事もなく過ごす他ない。
「しょうがないなあ。アルバイト、夏休みの間毎日手伝ってあげるから、たくさん引き受けておいで」
潔く折れた私に、きり丸くんは意味を理解するなり、涎を垂らしながら目を輝かせた。
夏休み前最後の仕事だと、私服に身を包んだみんなを笑顔で送り出し、最後に学園長先生と門を潜り、ヘムヘムとハイタッチして、先に学園を発った二人の後を追うために足を進める。
カラッと晴れてほんのり風の吹く、心が軽くなる良いお天気に恵まれた。
相模の国まで帰る喜三太くんや金吾くんの事を考えて、長い帰路の初日がこんなお天気で良かったなと思う。
怪我なく無事に帰宅して、ご家族と楽しい時間を過ごせた話を、夏休み明けに聞けるのが今から楽しみだ。
記憶が薄くなっていた道のりを、もう一度教えてもらい直した新しい記憶を頼りに、平坦な道をまっすぐ突き進むと、視線の先に四つの人影。
大きな木が目印の分かれ道に、共に帰る二人のみならず、目立つ赤い袴に橙の髪の毛。
向こうも私の姿を見つけるや、小さな影が揃って手を振っている。
どうやら私を待ってくれている様子に、これはいけないと慌てて駆けた。
「お待たせしました。乱太郎くんとしんべヱくんも待っててくれたの?」
「私たち、いつもこの木で別れるので、せっかくならなまえさんともちゃんと挨拶したくて」
二人揃って可愛らしい笑顔を溢し、私も嬉しさを隠しきれずに礼を言う。
日も高くなってきているし、二人のご家族も帰りを今か今かと待っているに違いない。
私を待ったことにより遅くなって心配をかけさせては申し訳ないと、早々に解散を提案する。
土井先生もそれに頷いてくださり、夏休み中に遊ぶ約束をしているらしい様子で手を振り遠ざかる二人を微笑ましく見送る。
きり丸くんに視線を向けると、私と土井先生を交互に見て、歯を見せて笑った。
それを合図に、きり丸くんを二人で挟んで、かんかん照りの中まだもう少し先の長屋を目指す。
「三人でこの道歩くの、初めてっすね」
「そう?アルバイトの帰りに歩かなかった?」
「え、そうでしたっけ?相変わらず記憶力凄いっすね」
「私も一緒についていった、畑仕事のアルバイトの帰りだな」
「そうそう、それです。何のアルバイトかも覚えてるなんて、私より凄いじゃないですか」
「あの帰り道は、ちょっと思い出深くて」
何があったっけ?ときり丸くんと目を見合わす。
そもそも覚えてないから思い出せることがないと匙を投げたきり丸くんに、それはそうだと笑って土井先生の顔を見た。
その顔は、あの日を思い出すかのように正面を見たまま、慈愛に満ちた優しい微笑みで。
私の視線を感じたのか目が合いそうになって、慌ててきり丸くんに話を振った。
久しぶりに帰ってきた町並みは、全く変わっていなかった。
このまま家賃を払いに行きたいと言う土井先生に同行して、大家さんの家まで向かう。
きり丸くんが家を開けておいてくれるというのでありがたくお願いした。
道すがら、住んでいた長屋の前に差し掛かると軒先に見慣れない瓶。
それを見つめる私を土井先生が黙って見ているのには気付いていたが、何事もないように前を向き直した。
久しぶりに会った大家さんも変わりはなく、中々帰ってこない事を土井先生と揃って怒られて、話も程々におばちゃんの長屋に伺う。
そこでも同じく帰ってこない事を怒られながら、帰ってきている間にお手伝いできることは全部やらせて欲しいと伝えてその場を収める。
二人とも本気で怒っているわけではなく、特に私のことを気にかけてくれていることが滲んでいて、申し訳なさが勝った。
手土産に食堂のおばちゃんが漬けた絶品のお漬物を渡して、機嫌を直してもらい、ようやく土井先生の長屋の敷居を跨ぐ。
「お邪魔します」
「違うでしょ、なまえさん」
窓を開けて溜まった埃を落としていたきり丸くんが、眉を顰めながら振り返り、私を見た。
「ただいま!」
目を丸くする私をよそに、井戸から水を汲んで戻ってきた土井先生が「あぁ、おかえり」と口にする。
二人の視線が私に集まる。言葉では言い表せられない感情が胸を満たし、薄く開いた口を閉じてゆっくりと呼吸する。
「…ただいま、です」
おかえりなさい、と優しい二つの声が重なった。