今日もここのカレーが美味しい。食堂では珍しく甘口カレーを置いてくれている。子供舌で辛口が苦手な私向けのメニューに、カレーがある日はいつも喜んで頼んでしまう。そんな大好きなカレーが乗ったスプーンの行き場を無くしたまま、私は呆けた顔で向かいに座る鬼灯を見た。
その顔は、今し方聞こえた言葉に対してそぐわないいつも通りの仏頂面。
「貴方の耳は節穴ですか?」
草履から足を抜いて、机の下で鬼灯の足を優しく蹴る。ちゃんと聞こえてたよ。自分の耳が信じ難いけど。
「聞き間違いだと思うけど、結婚しますかって言った?」
「ちゃんと聞こえてるじゃないですか」
近くを通った男獄卒が、ギョッとした顔で鬼灯を見て空いた席へ駆けて行った。お盆を机に置くなり、椅子も引かずにどこかへ消えていく。
「あの子、絶対誰かに言いに行ったけど」
「別にいいですよ。見物客が増えたら断りづらいのは貴方の方ですし」
「それ脅しっていうんだけど知ってる?一世一代のプロポーズってなんだっけ」
記憶を辿って指を折る。その手は折り返すことなくたった三本で固まった。
指を折る手を止めて、一度拳を握って三本指を鬼灯の顔の前に突き立てる。
「私たち、まだこんだけしか付き合ってないけど」
「過ごした年月は百年はゆうに超えてますがね」
いや、それはそうだけども。
唸り声を上げながら背もたれに体を預ける。
腕を組んで首を捻った。
「ちょっと時間ちょうだい。でも仮に断っても別れる気はないから、それだけ言っておくね。その判断をしたときは、まだ頃合いじゃないよってだけだから」
黙々と箸を進める鬼灯を見つめる。うんともすんとも言わないのを見て、まぁいいかと残り二口のカレーを頬張った。
ナフキンで口を拭い終えると、鬼灯が自分の口元を指す。
「まだついてますよ」
「本当だ。ありがと。鬼灯も口の下にお醤油飛んでる」
反対に私も醤油のついてる位置を自分の顔で指し示し、一枚余らせていたナフキンで拭き取ってあげる。
どうも、と礼を言う鬼灯にまたね、と告げて、その場を離れると、お香さんと合流して衆合地獄へ向かう。
今日は最近やたらと甘やかされている気がしていたので、容赦なく気になるところは教えて欲しいと伝えたいところだった。
私が近付くと、閻魔庁へご挨拶に伺ったあの日みたいに、慌てた様子で駆け寄って私の手を掴んだ。
「ちょっとなまえさん!?」
「私、何かやらかしました?」
「違うわよ。鬼灯様と結婚されるの!?」
「え?あぁ、それまだ返事してませんけど」
きゃー!と興奮したように黄色い声をあげるお香さんから一歩距離を取る。怖いよ。興奮具合が。
それにまだすると決めてないのに、この様子じゃ結婚前提で噂が流れていそうだ。
「そもそも、鬼灯様とお付き合いしてたなんて知らなかったのだけど」
「誰にも言ってませんからね」
鬼灯のことだから大王様あたりにしれっと言っているのかと思っていた。
仕事とプライベートは別物だと、会うのは大体食堂か仕事終わりに鬼灯の部屋に行くくらいで、確かに周りから見てもこれまでと変わりがないかもしれない。
鬼灯の部屋に泊まり込む日も、部屋を出る時は外の様子にそれなりに気を張っている。バレたところで何がどうと言う事もないけれど、烏頭と蓬に話がいくと面倒かもとは思っていた。
「まだ返事してないって、どうして?」
「うーん。なんで急に?って、不思議なんですよね…予兆もなかったですし。なんか罰ゲームとかだったりします?」
「鬼灯様は罰ゲームをさせる側な気もするけれど」
「あは、確かに」
結婚が決まったらお祝いさせてと道を別れて一人歩くと、また人に囲われて鬼灯様と結婚するのは本当かと興奮気味に問われる。
今日はもう仕事にならないのを察して、鬼灯を恨んだ。
あんな人がいる場所で言わなくてもよかったのに。
仕事も終わり、今日は何を食べようかと食堂でメニューを眺める。オムライスだ、美味しそう。これにしちゃおうと鳴りかけた腹を鎮めて、椅子に座ると、向かいの席がカタンと音を立てる。
「お疲れ様」
私はその相手を見もせず、下を向くと耳から滑り落ちる横毛を耳にかけるように手で押さえて、洋食屋風の卵が固めなオムライスをスプーンで割る。やった、ケチャップライスだ。
「貴方もお疲れの様子ですね」
誰のせいで、と呆れた瞳で見つめ、黙々とスプーンを口の中へ運ぶ。
「結論は出ましたか」
その問いに、私は頬杖をついて、スプーンで卵にケチャップを引き延ばしながら答える。
「それが困ってるの」
「困る?」
「駄目な理由が見つからなくて」
皿の底に溜まったケチャップを掬って、米と卵に混ぜる。
一口目を口にしようとしていた鬼灯の手が止まっていた。
その鬼灯の顔を見つめていると、思い出したかのように箸が進んで「続けてください」と言われる。
「幼少期から就職するまでほとんど一緒で気が知れてる。再会までは長かったけど、いざまたこうして一緒にいる時間が増えても、お互い変わりすぎて戸惑う事もなくて、むしろ凄く気が楽で。沈黙も苦じゃないし。収集癖も金魚草愛でるのが趣味なのも何とも思わない。付き合ってもスキンシップが増えたくらいで今までと大差ない。変な男みたいに束縛も酷くない。一番気にしないけど稼ぎだってお互い十分だし。鬼灯の隣にいるとありのままの私でいられるのも凄くポイント高くて」
スプーンを置いて指折り数えながら理由を伝えても、鬼灯は変わりなく私を見つめたまま箸を進めている。
「そこまで考えて、じゃあ結婚のタイミングっていつ?ってなったら、今もこの先も変わらないかもって思ったんだよね。だから、結婚しよっか」
近くに座っている獄卒数人が、私たちが座った時からちらちらとこちらを気にしていたのには最初から気付いていた。それでも、あえて私はここで伝えた。朝の仕返し。
周りの獄卒が口元に手を押さえて騒ぐのを押さえている。
私たちはそんな事よりお腹が空いたからご飯を食べようと、箸とスプーンを動かしている。
「現世だと結婚指輪ってのがあるじゃない?あれちょっといいなって思っちゃった」
「貴方だけでも嵌めておくと、変な虫がつかなくていいですね。事情が事情なので大王もすぐに休ませてくれると思いますが。あぁ、やること溜まってるな…」
「付けなくてもいいけど、鬼灯も持つだけ持っててよ。あ、いいこと思いついた。衆合地獄の新しい呵責に、結婚指輪つけた女の子たち使って昼ドラ要素出してみたら?それか、あの姑にぐちぐち言われるところとかに使えない?」
「あそこに使うかはさておいて、何かに活用はできそうですね。烏頭さんと蓬さんに意見伺いましょう」
「指輪に何か細工するの?」
「毒とか」
「サスペンスドラマみたい」
結婚しよう、と言った後にするような会話じゃないのを周りだけが引いた様子で聞いている。
これ以上聞き耳を立てても自分たちの望む話は出ないと判断したのか、そそくさと立ち去った彼彼女らは聞こえた話を伝えたくて堪らなさそうにしていた。
私たちが食事を終えたら、大王様に報告する頃にはもうすでに話が出回っていることだろう。
結婚したところで、私たちのこれからは昨日までと変わらない。ただ、鬼灯と同じ籍になる。きっとそれだけ。
休みを捻出するためにスケジュール帳と睨み合う鬼灯の顔は、他からすればいつも通りだろうけど、私には嬉しそうに見えた。