++バケツチキン


 まずい、と思った瞬間には膝が地面についていた。さあっと血の気が引いて、酷い耳鳴りとテレビの砂嵐のようなざらついた心臓の音が体の内側で反芻している。脂汗が額に滲む。最後に固形物を口に入れたのはいつだったか、思い返せないぐらいには食事をおろそかにしていたので低血糖だろうとジャケットの内側を漁ると、チョコレートひとかけらとタブレットが床に落ちる。
 早く立ち上がらなければならない。ライブ中のステージ裏では皆忙しなく仕事をしている。その中、通路の真ん中で膝をついていれば迷惑になる。
 震える手を伸ばすと、代わりに一回り大きな手が散らばった菓子類を拾った。尋常ではない様子に気がついたのだろう。食べようとしてた?、そう尋ねられたのでプロデューサーは首を縦に振った。するとチョコレートが口の中に突っ込まれた。
「プロデューサー、ひどい顔だよ」
「……助かりました、みのりさん」
 ちょうどソロの出番を終えて舞台袖にいた渡辺が手を貸した。




 渡辺がその場にいなければおおごとになっていただろう。渡辺に支えられて向かったのは、あらかじめ医務室代わりにするとしていた楽屋の一室だった。テーピングや痛みどめなどが入った救急箱、冷凍庫の中には保冷剤も入っている。どこに何があるかはプロデューサーがよくわかっている。準備をした当の本人だからだ。まさかここに患者として運ばれることになるとは思わなかった。プロデューサーは気落ちした息を吐き出す。渡辺に軽く肩に手を添えられながらソファに座った。
「ケータリング余ってるの何か持ってくるけど、何が良い?」
 渡辺がまだ顔色悪いね、とプロデューサーの顔をのぞき込んだ。頬や目元に骨ばった手が触れる。身から出た錆である。また倒れても仕方がないのでここは素直に何かを食べた方が良いだろう。
「味付け薄そうなご飯か、片手で食べられそうなご飯かデザートがあったら……」
「わかった。ついでにかおるも呼んでくるね」
 呼ばれてしまうか、と桜庭の怒号が響くことを想像して思わず身震いした。何週間も前から、不摂生だと食生活のことをこっぴどく言われていたのだ。その通りの結果になってしまったのだから1時間は堅いだろう。説教の時間のことである。
 渡辺が楽屋を出た瞬間、うわ、と声を上げた。人同士が軽くぶつかる音と謝る声が聞こえたが、その声の持ち主のことはよく知っていた。早いね今から呼ぼうと思ってたんだ、プロデューサーが渡辺さんに支えられてこちらに行ったと聞いて急いで来た、そんな応酬が聞こえてくる。もうだめだ、とプロデューサーは直感的に思った。渡辺が振り返って苦笑いしながらプロデューサーに視線を遣る。がんばって、と口だけを動かすとその場を離れる。
「……薫さんが来たので具合が悪いです」
「軽口を叩くような余裕はあるんだな」
 時間からするに、既に桜庭個人としてもドラマチックスターズとしても出番は終わっており、あとはアンコールだけだろう。早々に着替えを終えていつものように舞台袖でほかのアイドルたちのステージを見ていたのかもしれない。
 膝を地面につけて、プロデューサーの顔を見る。桜庭が苦虫を潰したような表情をしたので、よほど参っている顔をしているようだ。顔や首、手首に触れた。なすがままにされる。
「診るための道具が限られているから、問題が無いとは言えないが、今は大丈夫そうだ」
「明日病院行ってきます……」
「それが良い」
 今は君がいなくても回るだろう、休め。桜庭はそう言うと、置いていた紙コップにポットからお湯を注いだ。ティーパックをいれてプロデューサーの前に出す。桜庭がここまで気を遣うのだから相当疲弊した顔をしているのだろう。自身のために桜庭もまたお茶を注ぎ、プロデューサーの真ん前にあるソファに腰を下ろした。
 沈黙が続く。とてもではないが恐ろしくて桜庭の表情を伺えない。紙コップのお茶を両手で持ち、揺れる水面を凝視することに神経を費やす。桜庭の顔の向きを見るとこちらをじっと見ているような気がしたが、それも自意識過剰だろうか。渡辺が早く来ることを願った。
 時計の秒針の音がいやに部屋の中に響いている。こればかりは呆れられるかもしれない、そう思いながらプロデューサーは口を開いた。
「……今日のライブ、上手く行ってますよね」
「ああ」
「何事もなく、締めたいんです」
 だから私が倒れたこと、無かったことにしてくれませんか。あまりにも真剣な目でそう言ったので、桜庭はため息を吐いた。
 百々人と同居しているということは面と向かって本人から聞いたわけではなかった。百々人が体調を崩してからプロデューサーが面倒を見ていると、日々の会話からそれとなく知った。おそらく事務所にいる人間のほぼ全てがそうだろう。隠しているわけではなく聞かれたら答えるが、自らは言わなかった。桜庭も含めほかの面々も、何か理由があるのだろうとは感じていた。大きくはないプロダクションだ。所属している年数が長くなればなるほど、自身のユニット以外のアイドルたちのことも知るようになる。趣味や苦手なこと、好きなこと、家族やその過去についてもだ。
 百々人の家族が一般的なそれではないとはどことなく感じていた。プロデューサーを慕う姿も、執着している様も、拒絶されることを病的なまでに恐怖していることも、その姿は親の後ろをついて回る雛鳥のようで、彼の育ってきた環境になにかしらの要因があるのだと考えざるを得なかった。
 立場のためなのか、生来の性格からなのか、プロデューサーはお人好しで世話焼きだった。それも自身よりも他人を優先するきらいがあるほどには。今回はそれが祟ったのだと容易に想像がつく。
「君が親の代わりをする必要は無いだろう」
「頼るべき人がいなくて辛そうな子供がいたら、一番近くにいる大人が助けるべきしょう。それが私だっただけです」
「君が神経をすり減らして、体力を磨耗させてまですることではないと言っているんだ」
「私は生半可な気持ちでしてませんよ」
 プロデューサーはそうであるべきだと、今それが最善であることだと確信していることに対して一切妥協しない人間だ。折れないだろうと桜庭は思っていて、実際その通りだ。どれだけ痛いところを突いて話をしたとしてもプロデューサーは考えを曲げることはないだろう。
「──ただいま、着替えてて少し遅くなった。結構おいしそうなの余ってて……席外した方がいい?」
 トレーを持った渡辺が重い空気に驚いた表情をして、踵を返そうとしたので桜庭がそれを制した。そのまま誘導されるがまま、プロデューサーの前に食べ物がいくつか乗ったトレーを置いて桜庭の隣に座った。
「プロデューサーが、倒れたことは内密にしてほしいと」
「良いけど……」
 温かいうちに、と渡辺に促され、手をあわせ食事に手をつける。具だくさんのスープ、カップケーキをいくつか、紙のジュースパック、注文されたものを頑張ってかき集めたようだった。細かく刻んだ野菜が入ったスープに口を付けると温かさが胃の奥に染み渡った。
 話はまだ終わっていない。そのことを思い返させるかのように再び沈黙が続いた。渡辺が桜庭に見えないように、プロデューサーにごめん、と謝った。妙に良いタイミングで帰ってきたとは思ったが、桜庭とプロデューサーの様子を伺っていて、悪くなりそうな雰囲気を察知して入ってきたらしい。ただ渡辺が戻ってきたところでその重さは変わらなかった。
 スープを咀嚼する音だけが聞こえる。その沈黙に耐えかねてか、桜庭がぐしゃぐしゃと頭をかいて重い空気を切り裂くように言葉を放った。
「譲れないことがあるのは分かっている。僕も君の立場なら同じことをするだろう。君と違って倒れはしないが」
「ちょっとかおる」
「事務所に成人した人間が何人いると思っている。僕たちを頼れと言っているんだ」
 弱っている人間を前にすれば桜庭の皮肉も随分と控えめだ。渡辺が諌めるように口を挟んだがそれも杞憂に終わった。プロデューサーが顔を上げると、仕方がないとでも言うような表情の桜庭だ。
 プロデューサーは緊張が解れたのかソファに深く背中を預けたが、アッと何かを思い出したように声を上げた。
「一個だけ、早速いいですか」
「ああ」
 応えたのは桜庭だったが、プロデューサーが頼みたいことがあるというのは渡辺の方だった。淡い鳶色の目がまん丸になる。ややバツが悪そうな表情のプロデューサーにどうぞ、と声をかけた。どんなことを言われるのか全く見当がつかず、心臓が少し跳ねた。
「今日の事務所の打ち上げのためにバケツチキンを予約していて、出前じゃなくて受け取りに行かなきゃいけないんです。みのりさん、運転して貰えませんか……」
「良いけどさあ……」







20240131



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