++カレーライス


 玄関先からでもカレーのにおいが漂ってきている。
 百々人はドアを開け、ただいまと声をかけるが、部屋の電気は点いているのにしんと静まり返っていた。広くはない家の中だ。部屋の中に居れば、ただいまの声は必ず聞こえるだろう。夕飯を作り終えたあと、プロデューサーがどこかに出かけたのだろうか、と思いながらリビングに入った。
「ぴぃちゃん……」
 ローテーブルの上には画面が黒くなったパソコンが開いたまま置いてある。ソファとテーブルに挟まれ、ラグの上で丸まって眠るプロデューサーの姿があった。テーブルの上にはコーヒーが入ったマグカップが置いてある。ぶつかって倒れでもしてパソコンにかかったらまずいだろうと、百々人がそのマグカップに触れるとほんのり温かかった。家に持ち帰った仕事をするためだろう。コーヒーを淹れたそばから寝落ちしたようだった。
 百々人はテーブルを少しずらしてプロデューサーの横に膝を着いた。目元に指を触れるとくすぐったいのかプロデューサーが身じろぎをしたが起きる気配は無い。夕方になり崩れかけたコンシーラーで隠した隈が色濃く残っていた。
 合同ライブが終わり、1週間が経った。卒倒しそうなほどの忙しさは落ち着いたものの、ライブ前後はプロモーションや営業のかけ時なのだろう。プロデューサーをはじめとした事務方が連日忙しそうにしているのは目に入ってくる。
 プロデューサーが無理をしていたことは知っていた。無理をしていないはずが無かった。春、プロデューサーは朝起きることが苦手だという話をしていた。食事よりも睡眠時間の方が大切で、いつもきちんとした大人を装っているプロデューサーの意外な一面を知ることができて、その時は嬉しかった。だがプロデューサーの普段の生活を見れば食事よりも睡眠時間をと考えるのも当然だった。事務所にはプロデューサーの役割を持つ人間はたった一人しかいない。常にいくつもの仕事を抱えている状態だ。百々人が高校生だった頃は夕方事務所でデスクワークをするプロデューサーの姿しか見ていなかったが、大学に入り授業が不規則になってからそれだけがプロデューサーの仕事ではないと改めて知ることとなった。朝早くからアイドル付き添いで外出をすることもあれば、出張のために外泊をすることも、夜終電ギリギリに帰宅することもある。それが一週間続くこともざらにあるのだ。疲れてへとへとになっているはずだろう。それなのに朝は百々人より先に起きて朝食を作っている。昼は各々と決めていたが、プロデューサーは食べる時間が惜しいとインスタント食品やおにぎりで済ましていることは聞いていた。夜は仕事を上がってから夕食を作り、夕食を終えたあとは在宅で、昼間終わらなかった仕事をしている。その無茶ぶりに百々人が家事の分担を提案したが、プロデューサーは首を縦に振らなかった。百々人が倒れたことに相当責任を感じているのだろう。「今は何も気にせずに休んでください」、そう言うばかりで、自身の状況など一切省みていなかった。
「ぴぃちゃん」
 もう止めよう、とどれだけ言いたかったか。百々人はライブ中にプロデューサーが倒れたことを知っていた。プロデューサーは足を挫いて渡辺に助けてもらったのだとおちゃらけた様子で言っていたが、百々人はプロデューサーを誰よりも近くで見ているのだ。それが嘘であることなどすぐに分かった。全ては百々人がこの家から出て行けば全て解決することだ。だがプロデューサーは百々人が出て行くことを良しとはしないし、断りもなく居なくなれば見つかるまで百々人を探すだろう。
 百々人はプロデューサーの首に触れた。細い首だ。ぐっと力を込めれば、眉間にしわを寄せたので手を緩める。プロデューサーは普通の女性だ。アイドルたちを導く強い力がある一方で、どうしようもない弱さがある。男が馬乗りになれば抵抗しても押し返せない。丸まって眠るプロデューサーを、膝を床に着けた状態で跨いで見下ろす。今の百々人がするように組み敷いてしまえば、簡単には動くことができないだろう。
「どうしたぴぃちゃんは、僕に出て行けって言ってくれるかな」
 百々人はぎゅっと唇を引き結んだ。今にも泣きそうな表情で、眠っているプロデューサーを見下ろす。
 高校2年生の秋、百々人はプロデューサーに好意を伝えたことがある。晩秋で日が落ちるのも早くなった頃だった。寒波が来ており外は薄手のコートでは足りないぐらいに寒かった。その週ようやっと色づいた葉も、強く吹きつける風のせいでほとんどが落ちてしまっていた。その年初めてのマフラーを巻いて、学校終わりに事務所に訪れた。平日の夕方、珍しく百々人とプロデューサー以外事務所には誰もいなかった。自身のデスクで仕事をするプロデューサーが、百々人が事務所に来たことに気が付き、百々人の鼻が寒さのせいか真っ赤になっていることに触れた。外は寒かっただろうと言いながら、温かい飲み物の準備を始める。事務所に置いている百々人のマグカップを棚から取り出して、飲み物のラインナップを示す。コーヒー、カフェオレ、ココア、緑茶、その日給湯室にあったのはその4つで、百々人はその中からスティックのココアを選んだ。ポットのお湯を注いで、くるくるとスプーンでココアをかき混ぜながら百々人にマグカップを手渡した。プロデューサーも自身のコップにコーヒーを淹れる。こぽこぽとコーヒーが注がれる音だけが聞こえる。その時、口に出てしまったのだ。言おうと思ったわけではない。ただただコーヒーを注ぐ後ろ姿を見て、自然と唇からその言葉が漏れ出てしまった。プロデューサーが好きだ、と。思わず出てしまったその言葉を押しとどめるように手で口を塞いだがもう遅い。しんと静まり返った事務所にはよく響いた。今このタイミングで言うつもりは無かったので百々人自身驚いてしまったが、その気持ちは嘘ではなかった。プロデューサーにスカウトされたその日から、百々人はプロデューサーのことが好きだった。何の取り柄もない自身を見出し、アイドルの才能があると言ってくれた。そのことにどれだけ救われたか分からない。どうしたら喜んで貰えるだろうか、明日は会えるだろうか、そう思わない日がないぐらいだ。プロデューサーに触れられるとどうしようもなく嬉しい、失望されたくない、ずっと僕だけを見ていてほしい。その気持ちが恋ではなかったら何と言うのか百々人には分からなかった。全身が焦がれるほどの感情だった。百々人の告白に対してプロデューサーは首を縦にも横にも振らなかった。ただ微笑んで、「5年後、百々人さんが同じ気持ちなら考えましょう」と言った。
 自分に好意がある男と一緒に暮らしていて、安堵できるはずがないのだ。いつでも自身を組み敷くことができる男が近くにいるということがどれだけストレスになるのか。事務所に居ても家に居ても気が休まらない。その生活を3か月もしていて体に異常が出るのも当然だった。
 ライブのあった翌日、珍しくプロデューサーが早上がりした日にたまたまリビングに置いてあった鞄から薬の紙袋が覗いていた。大きな病気をしているとは今まで聞いたことがなかったので驚いたのを覚えている。罪悪感に苛まれながら紙袋に記載があった薬の名前を調べれば、貧血や不眠の症状があるときに処方される漢方薬で、百々人はその場にへたり込んでしまった。ここ最近プロデューサーの体調が良くないのだろうとは感じていた。先日のライブ中に限ったことではなく、時折ふらつくことがあり、家の中でもしゃがみこんでいたのを見たことがある。その時は何でもないと虚勢を張っていたが、無理が祟ったのだ。
「どうして、こんなことになっちゃたんだろう」
 プロデューサーの頬に触れる。頬骨の付近にはたかれたチークを指でなぞる。指先にファンデーションやコンシーラーが付着する。健康そうに見える顔色は、施した化粧のおかげだ。呼吸をするために胸が上下していなければ死んだ人間のようにも思えた。
 距離を置きたい。そう百々人が考えるのは自然なことだった。






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