++鯖の味噌煮定食




 しょげている。それはもう盛大に、である。
 整頓されているとは言い難いデスクの上は、今日はいつもに増して散らかっている。集中していて気がつけばもう夕方になっており、窓を見れば日が落ちておりカラスもカアカアと鳴いていた。
 朝出社前に不燃物をゴミに出そうとして忘れた。階段を登っているときにつまずいてパンプスのつま先に傷がついた。昼休みにカップラーメンを給湯室で啜っていたら桜庭からとんでもなく怒られた。エクセルを保存せずに終了してしまい入力していたデータが消えた。今日だけでダメージを何回も食らっており、極めつけは先ほど取引先から来た「納期を2〜3日延長いただきたい」旨の連絡である。正確には納期を延ばしていただきませんか、という連絡だったが、そのように言われてしまえば承諾せざるを得ない。発破をかけたところで作業が速くなるわけでもなく、出来ることと言えば、延ばしたその期限までに無事にデータが送られてきますように、その後の確認作業で変な箇所が見つかりませんように、ということを願うことだけだ。さらに言えば相手方の納期が遅れたからと言って、プロデューサーが次に依頼をする相手方への納期が変わることはなく、プロデューサーの確認する時間が減るだけなので頭が痛い話だった。
 デスクワークをしていると事務所に立ち寄ったアイドルから話しかけられることもしばしばあるが、今日はそんなことは全く無く。必死の形相で仕事をしていたので声をかけづらかったのかもしれない。ただ話しかけられていることに気づかなかっただけかもしれないが。
「ご飯どうしようかな……」
 大きく息を吸いこんで吐いた。肺が強ばっている。同じ体勢で仕事をしていたからか全身が痛い。
 今食事を作る気力と体力があるかと言われれば、無いと言い切れる。ここしばらくは事務所の全ユニットが出演するライブ関係の仕事が詰まっており、常に気力と体力はこそげ取られている。それでも生活をするためには食事は必要であるが、だからといってコンビニ飯は毎食食べるには健康的ではないしコストもかかるし飽きるのである。そもそも二人暮らすには家の冷蔵庫が少しばかり小さいのだ。夏場は常温で保存できる物が限られてしまうのと、すぐに鮮度が悪くなるので困る。スーパーに行き、夕飯を作り、その後在宅で仕事をするか、と算段をつけたところで、ソファに渡辺が座っていることに気がついて素っ頓狂な声をあげた。
「えっ?!」
「すごく集中してたね」
「全然気がつかなかったんですけど、いつから居たんですか?!」
「3時間ぐらい前かなあ……」
 プロデューサー集中してたしね、と渡辺が付け足す。どうやら出演しているドラマの台本を読み込んでいたようで、折り目や付箋がついた冊子が手元にあった。
「すごい剣幕で仕事してたよ。唸ってたし、もう無理かもとか言ってたし」
「大変お恥ずかしいところを……」
 プロデューサーはすぐ後ろのホワイトボードを見た。今日の渡辺は朝にドラマの撮影で昼にはあがるスケジュールだ。どうやら撮影現場から事務所に来たらしい。
 渡辺は白いシャツに黒のボトムを合わせており、ラフな格好をしていた。どんなにラフな格好であってもシンプルな装いをしていたとしても、中身の素材が良ければ格好良く見える。背中も曲がって疲れ切った顔をしている自身と比較すると居たたまれなく、体が縮こまってしまう。
「プロデューサー、ご飯行かない?」
「えー、」
「お持ち帰りも出来るところ。居酒屋なんだけど夜定食やっててさ、歩いて10分くらいかな」
「いー、きます」
 お持ち帰りもできる、その言葉に天秤が傾いた。百々人の分の食事はここで調達してしまおうと決めた。ひとまず電源を切らずにパソコンを閉じる。腹が満たされたあと在宅ワークが出来るのかと言われれば少し疑問なところがあるがそれはそれ、これはこれである。健全な食生活が健全な肉体を作るのだ。朝から立て続けにダメージを食らっている心と体を立て直すために美味しい食事は必要だ。
「何おすすめなんですか?」
「魚かな。角煮定食もおすすめみたい。美味しかったよ」
「さかな、魚いいですね……。本当に今日桜庭さんに怒られて……もう……精神と肉体にダメージ入りました」
「カップラーメン食べたんでしょ? 今週何回目?」
「4回」
「毎日食べてるし」
「だってそんな準備する時間ないですよ」
「たまこやは?」
「たまこや量多くて。あと揚げ物多い」
「油って胃に来るからね」
「カルビや豚トロを食べてもケロッとしていた頃が懐かしいです……」
「そうそう、もうさっぱりしたものしか食べられないよね」
 この前バイトのみんなで、と渡辺が話を続ける。バイトで焼き肉に行ったところ、ほかの二人はカルビやホルモンをおかずに白米を食べていたことに対し、一角で牛タンを焼いて黒烏龍茶を飲むことしかできなかった、と苦笑いをしながら言う。
 プロデューサーは事務所の戸締まりやガスの元栓が閉まっているかなどを確認する。その間に渡辺がテーブルの上やソファを簡単に整える。
 適温で設定されている事務所に居ると感覚が麻痺するが、外は湿気も相まって嫌な暑さをしていることだろう。7月は梅雨明けとは言え不快な暑さをしている。夕方になってもアスファルトの照り返しがこもっていてじわじわとした暑さで息苦しくなる。
「今、百々人くんと同じ家に住んでるの?」
「はい」
 突然渡辺が尋ねた。確認を終えて自身の鞄を持つ。渡辺は既に準備を終えていて、台本や貴重品が入るだけの小さめなトートバックを持っていた。
 何となくプロデューサーの家に百々人が住んでいるかもしれないとは思っていた。4月に入ってから百々人が随分と痩せたとSNSで口々に言われていたを渡辺は知っていた。6月頭頃には事務所のホワイトボードに百々人の予定がキャンセルになった旨が書かれていたのも覚えている。事務所の中でも百々人のことを心配する声がちらほらと上がっていたが、今月に入ってからは元気そうにしていたので心配の声も無くなった。それに対比するようにプロデューサーが疲れている姿をよく見るようになった。もちろん合同ライブのこともあるだろうが、それは定期的にあることであるし何かほかの要因があるのだろうとは渡辺も感じていた。
「隠していたわけじゃなくて、言う機会が無くて……」
 言うことでもないですし、弱々しく笑ったプロデューサーに、渡辺はやるせない気持ちがふつふつと腹の奥からこみあげた。プロデューサーが最近疲れた顔をしているのは自明のことで、それはまだ体調が万全ではない百々人の面倒を見ているからなのだろう。それを対外的に言わないというのは自分一人だけで解決しようと迷惑をかけないようにしようと決意しているからに違いなく、頼らない側の人間に自身が括られていることに渡辺は歯がゆさを感じた。もっと頼ってほしい、そう渡辺が言ってもプロデューサーは上辺で感謝の言葉を述べるだけだと知っている。
「この事務所に所属している方々は、自分たちの力で物事を解決する力が強いと思います。私もそれに委ねているときがある。けど今回は介入しないと百々人さんが壊れてしまうと思ったので、一緒に暮らしています。彼の体調が回復するまで家のことは私がする。期間はひとまず大学卒業までと考えています」
「プロデューサーってそういう大事なこと全部自分で決めて何も言わないよね」
「はは」
「褒めてないからね」
 プロデューサーが事務所の扉を施錠する。階段を降りていき、渡辺がこっち、と店の方向を指さし先導していく。
 外は思った通り蒸し暑かった。
「私も今まで色んな人に助けられてきたから、今度はそれを返せれたらなって。プロデューサーとしての職権は超過気味ですけど。ちょっと格好いいこと言ってません、私?」
「相当ね」
 こつん、と渡辺がプロデューサーの頭を小突いた。






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