++雑炊


 視界が回っている。体全体がふわふわしていて現実感がない。1、2、3、4、というダンスのカウントの声が妙に遠くから聞こえるように感じられて、足がもつれて倒れた。なんとか頭をぶつけないように手から先に地面に着いた。
「百々人、大丈夫か」
「うん、だいじょうぶ」
 膝と掌が地面に着いている状態から動くことが出来ない。乱れた息が元に戻らない。いったいどうしちゃったんだろう、百々人はぼんやりとする頭でそんなことを考えた。
眉見が百々人の顔を覗き込んだ。
「秀、プロデューサーを呼んできてくれ。百々人、いったん横になれるか」
「ほんとうに、なんでもないから。だからぴぃちゃんには言わないで、おねがい」
「秀」
 百々人は懇願するように声を絞り出したが、眉見は天峰に行けというように声を掛ける。
 プロデューサーが来てしまう。プロデューサーに心配をかけてしまう。その思念が脳みその中を駆け巡る。こんな姿を見せたくなかった。
 眉見は百々人に吐き気はあるかと尋ねた。それに無いと回答すると、百々人の体を床に倒させ、床と頭の間にタオルを挟む。仰向けの状態になっていた。
 ほどなくしてプロデューサーが来た。コツンコツンというパンプスの音が響いたかと思うと、土足厳禁のレッスンルームに入るや否やそのパンプスを脱ぎ捨てる。氷嚢や冷感グッズ、スポーツドリンクなどを抱えて息を切らしていた。続いて天峰が戻ってくる。
「頭から倒れましたか?」
「いや、最初に床に手が着いていた。吐き気は無いようだが顔色が悪い」
「詳細教えてくださってありがとうございます」
 プロデューサーは百々人の首や脇の下に氷嚢を置いた。ひんやりとした冷たさが伝わってくる。プロデューサーは横たわった百々人の顔色を見たあと、手首から脈を確認する。桜庭や木村から事務所内で人が倒れた時のための応急処置のような手ほどきを受けているのかもしれない。手慣れていた。
「熱中症かもしれませんね。お二人もいったん休憩にしましょう。人数分スポーツドリンクを持ってきたので」
「ごめん、ぴぃちゃん、迷惑かけて……」
「いえ、レッスンルームが暑かったかもしれません。私の配慮不足です、ごめんなさい」
 プロデューサーが謝る。天峰と眉見が何ともない中、百々人だけが倒れている。プロデューサーのせいではなく、百々人自身に原因があることなどすぐ分かる。そうであるのにプロデューサーは百々人のせいではなく自身のせいなのだと言う。それはあんまりだと百々人は思う。
 10分ほど床に横たわっていると、幾分か体調がマシになってくる。頭に血が上っていないような感覚もなくなり、血色が戻ってくることを感じた。
プロデューサーは補助しながら百々人を起き上がらせ、スポーツドリンクを飲ませる。もう少し落ち着いたら病院に行きましょう、と提案した。
「大げさだよ、もう大丈夫だから」
「いいえ、行った方がいいです。倒れているし、少し前から顔色も悪いし立ち眩みされていたでしょう。一度、病院で診てもらいましょう」
 プロデューサーは、今日のところは一度解散しましょうか、と天峰と眉見に伝える。今ユニットの中で一番進捗が遅れているのは百々人だ。続けたいと言いそうになる舌の根を口の中に留まらせる。今日また続けてしまえば、また倒れるかもしれない。
 眉見は百々人を車まで介助することを提案した。プロデューサーはその言葉に甘える。
 いったん下に行ってスニーカーに履き替えてくる、とプロデューサーが立ち上がった。
「ごめん、迷惑かけて。一番完成度低いの僕なのに」
「気にするな。今日は休んだ方が良い。体調が悪いときに練習しても身に入らないだろう」
 この中で一番出来ていないことは否定されなかった。
 プロデューサーが戻ってくると、眉見は百々人の腕を自身の肩に回して起き上がらせる。靴を履き替えると、天峰は百々人の持ってきた荷物を手に持った。階段を降り、百々人を助手席に乗せる。車の中は既に冷房が効いており、プロデューサーが気を利かせて事前につけたのだろう。
「鋭心さん、秀さんありがとうございます。予約の時間はまだあるのでレッスンルームは使ってもいいですが、部屋の温度は調整してください。少し暑かったので、あとは適宜水分も補給してください」
「うん、分かった。気を付けて」


 特有の鼻につんとくるようなにおいが辺りに充満している。
 着いたのは総合病院の救急外来だった。待合室には何人かの人が待っている。問診票を記載し緊急性が無いと判断されたため、待合室で待つこととなる。その間プロデューサーは横になってくださいずっと座っているのは辛いでしょう、と椅子の端に寄った。車から持ってきたひざ掛けを百々人にかけ、手持ち無沙汰そうにしていた。病院ということで、電子機器の使用を控えているようだった。
 2時間ほど待ち、診察室の中に呼ばれる。プロデューサーは百々人の肩を支えながら診察室の中に入った。紺色のスクラブと白衣を着た初老の男性の医師が本日はどうされましたか、とプロデューサーに向かって尋ねる。
「少し蒸し暑い場所で運動をされていたとのことですね」
「はい。倒れたので受診しました。頭は打っていません。首や脇の下を冷やすなどの応急処置は一通りしています。少しふらつくことはありますが歩行できます。吐き気は無いようですが、少し前から顔色が悪く食も細いです」
 医師が百々人の目もとや首もとに触れる。その後服越しに聴診器を当てた。
「分かりました。経口補給できるので点滴はしませんが、ご自宅で水分を飲ませるようにしてください。後者については貧血と栄養失調だと思うので、採血します」
「お願いします」
 看護師がこちらです、と横の処置室に案内する。簡易的なベッドが用意され、百々人はそこに横たわるように指示された。ベッドに仰向けになったまま採血をされる。プロデューサーはその隣の丸椅子に座っていた。看護師は結果が出るまでここで休んでいてください、とその場を後にした。
「……ぴぃちゃん、ごめんなさい」
「百々人さんのせいじゃありません。全部私のせいです」
「そんなわけない、自分の体調管理もできない、ぴぃちゃんが悪いことなんてひとつもないのに」
 大学と一人暮らし、アイドルの三足わらじでの生活が百々人の負担になっていた。プロデューサーが自身を責めることなど一つもないのに、こうやって自身を責めるのはプロデューサー自身が百々人の保護者であるという意識が強いからだろう。表情はいつもの勘所と同じように穏やかなものだったが、手は固く拳を握っている。
「百々人さん、うちに来ませんか?」
 プロデューサーが静かに言った。
「私は、今の百々人さんを一人で居させるのは良くないと思っています。例えば、ホテルに滞在してもらって三食食事を用意して、そうすることもできる。だけど今の百々人さんに必要なのは誰かと一緒にいることだと思っています」
 私と一緒に暮らしませんか、彼女はそう尋ねた。



 初めて入ったプロデューサーの家は、整然としているというよりも殺風景と言った方がしっくり来るほど、物が無かった。
お邪魔します、と家に上がる。玄関にはサンダルといつものパンプスとが並んでいる。プロデューサーは下駄箱からスリッパを取り出したが、パンプスとスニーカーとサンダル、本当にこの3足しか靴を持っていないようだった。廊下を歩くとリビングに着く。リビングにもダイニングテーブルがひとつに椅子が一脚、ローテーブルとその下に引いてあるカーペット、テレビしかない。
「すみません、何もないところで。椅子に掛けて待っていてください。お茶淹れます」
 プロデューサーが椅子を引く。背もたれのついたそれに百々人は座った。
 リビングの奥はキッチンになっているようだった。プロデューサーはお湯を沸かしている。
「引っ越ししたばっかりなの?」
「いえ。315プロで働き始めたときから暮らしているので、もう4〜5年になります。社長の不動産を社宅としてお借りしているんです」
 採血の結果、医師の見立ては的中し、栄養不足による貧血だと診断された。鉄分の錠剤を処方され、あとはしっかり栄養を摂ってゆっくり休むことを命じられた。合同ライブまで3か月を切っている。大学の勉強もある中ゆっくり休んでいる時間は無いのに、歯がゆい気持ちだった。
 会計を済ませたあと、事務所に戻ってもゆっくりできないだろうとプロデューサーは百々人を自身の家に招いた。
 マグカップにティーカップの緑茶を淹れる。ことん、とダイニングテーブルに置いた。それと同時に椅子が一脚しかないので、キッチンからスツールを持ち出しそちらに腰掛ける。
「あまり物が多いのが得意では無くて。定期的に断捨離をよくしてしまうんです」
「そうなんだ」
「私のデスクはそんなに綺麗ではないので、信憑性に欠けるかもしれませんが……」
 プロデューサーがお茶を口に含む。百々人もそれに倣う。
 初めて入るプロデューサーの家というのも緊張する場所だった。小綺麗で生活感が無い場所。ルームフレグランスがあるのか、ふんわりとシトラス系のにおいがする。
 以前からプロデューサーの家は事務所から近いという話は聞いていたが、本当にその通りだった。事務所が入っているビル近くの駐車場に車を停め、徒歩5分。事務所のほぼ真向かいに立つマンションの一室。外観は古かったが、部屋の中は綺麗にリノベーションされているようで古臭さは感じない。
「先ほども申し上げた件ですが、うちにはもう一部屋あるので百々人さんはそこに住むのはいかがでしょうか。お古で申し訳ないのですが、処分しようと思っていた棚と机があるので、それは使っていただいて大丈夫です。ベッドは後ほど買いましょう。今日明日は来客用のお布団があるので、それを使ってください」
 その後、今日はもうゆっくりした方がいいとのことから、明日以降に百々人の自宅へ必要な物を取りに行くという手筈となった。今日分の着替えは、汗をかいた時用にと持ってきた替えを着ればどうにかなる。
「期間は、大学卒業までを考えています。でも百々人さんが居たいだけ居ればいいと思っています。もう大丈夫と思ったら一人暮らしに戻っていただいても大丈夫です」
 プロデューサーの厚意はありがたかった。だがそれと同時に庇護されていることを強く感じた。百々人が未熟な子供だから、プロデューサーは手取り足取り教えてくれるのだろう。そうされなければ満足に生活ができない自分自身が、百々人は情けなかった。
 百々人の暗い表情に気が付いたのだろう。プロデューサーがぽつりぽつりと話す。
「私も、初めて一人暮らしを始めた時、すごい大変で」
「ぴぃちゃんが?」
「はい。食事が偏っていて。1年目のゴールデンウィークに帰省したとき、5キロくらい痩せてしまったので両親から驚かれました」
 想像がつかない姿だ。プロデューサーのことはずっと大人だと思っていた。そんな失敗をしたことがあるのだと、少し驚いたような心持ちで百々人は聞く。
「少しずつできるようになれればいいんです。焦らず、ゆっくり」
 時刻は夕方にもなろうとしているところで、プロデューサーも百々人も昼食を抜いてしまった。晩ごはんにしましょう何にしましょうか?、とプロデューサーが続けた。



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