++僕の前でだけ弱音を吐く君であれ/桜庭薫



 地面か揺れているのか自分が揺れているのか分からないときは大体自分が揺れている。
 寝不足か疲労か、最近眠るのが遅いし残業もしている。心当たりはあった。平衡感覚がまるでない。揺れる海の底を歩いているようなそんな感覚だ。よろよろと壁に向かって歩いて肩を寄りかからせる。そのままずるずると身を預ける。こういうときはしゃがんだ方が楽だ。はー、と長い息を吐き出しながら視界の揺れが治まるのを待つ。キーンという耳鳴りの音。目をぎゅっと瞑る。
 周りの音が周波数を合わせる前のラジオみたいにくぐもった雑音みたいだ。衣装どこ、何時から始まる、出演者さんは、今日のスケジュールは、色んな声と音が聞こえる。ヤバいこんなことしている場合じゃないのに。今日は桜庭さんが出演する医療ドラマの初回の撮影で、これから付き添いをしなくてはいけない。入りまであと何分だろう。ドラマのスケジュールはタイトだ。桜庭さんは他の出演者の人に挨拶に行っている。監督への挨拶は終わったから、私もこれから撮影現場に行って、音響やADの人に挨拶をして、あと事務所で手配した差し入れもこれから来るから対応をして、やることはいっぱいある。
 深く息を吸って吐いてを繰り返した。立ちくらみの時は大丈夫だと思って立ち上がった時が一番油断ならないのだ。あと5分、いや3分くらいならこの体勢で休めるだろう。
 周りの喧騒より、自分の息を吐く音と心臓の鼓動がよく聞こえた。その中でプロデューサー、と聞き慣れた私を呼ぶ声が聞こえて、反射で頭を起こす。照明が逆光になっている。私に合わせて屈んだ桜庭さんは、具合が悪いのかといつもと同じ声の調子で尋ねた。他の出演者への挨拶は終えたのだろう。

「すみません、大丈夫です」

 けろっとなんでも無い風を装って笑えているだろうか。私が笑いながらそういうと桜庭さんは傷ついたような顔をした。なぜ桜庭さんがそんな表情をするのか分からなかった。
 大丈夫と言った手前、座り続けているのもなんだかおかしいだろう。壁づたいにゆっくりと立ち上がろうとした。

「ちょっと立ちくらみしただけで、問題ないです。ご心配おかけしてすみません」
「君は大丈夫じゃない」

 桜庭さんがぴしゃりと言い放つ。強めの語気にびっくりした。桜庭さんは私の二の腕を引っ付かんだ。スタジオとは逆方向に私を連れて行く。

「桜庭さん、逆方向……」
「君は僕の楽屋で休め。ソファがある」
「車の中で休めば治るので……」
「治る? 体調が悪いんだな。なおさら今休んだ方が良い。君は無理をしがちだし僕は元医者だ。診よう」
「あの、ちょっと」

 桜庭さんってこんなに力強かったっけ。撮影前ということもあって楽屋がある廊下の人通りは少なかった。桜庭薫様と書かれた紙が張り出された楽屋の中に入る。ソファの前に連れられると、そのまま肩を真上からぐっと押されて強制的に座らされる。桜庭さんが私と目線を合わせて両膝を着いた。
 袖を上に滑らせて、彼の指が私の手首に触れた。呼吸を二度三度する間脈を測って、次は首もとに。指先が冷たかったらすまないと、断りを入れて彼が私の首に触れる。ひやりとした感触が肌を撫でて、次に彼が目を遣ったのは私の目だった。彼は私の目を見ると露骨に顔をしかめた。目の下に触れて、隈があるとぼそっと呟く。

「目の下も赤味が薄いんじゃないか。医者から貧血と言われたことは」
「無いと思います……」
「思います?」
「健診では大丈夫で、最近ふらっとするぐらいで」
「大事をとってここで1時間程度休め。それからでも十分間に合う。今日は演技指導とリハだがメインだ。医療器具を初めて扱う役者も多いから時間がかかる」

 ブランケットだったら持ってきている、と彼が荷物を漁った。流されそうになったけど、休めない。これからドラマ関係でメディア露出をするから、雑誌の担当者との打ち合わせも入っているし、同じテレビ局のバラエティのゲスト出演の打ち合わせもある。その空いた時間に大手動画サービスの企画して、そんな思考が頭の中をぐるぐると駆けめぐる。煮えきらずに返事をしない私に耐えかねたのだろう。彼は私の膝にブランケットをかけて深くため息を吐くと、強引に肩を横に倒れこませるようにぐぐっと押した。

「桜庭さん……!」
「休めと言っているんだ」

 桜庭さんは男性にしたら細身ではあるが、力で押されたら敵うはずがない。待ってください、と言うも遅く、そのままソファに倒れ込む衝撃が来ると思ったが彼が頭に手を添えたおかげで来ると思った衝撃も肩透かしだった。ブランケットが胸までたぐり寄せられる。1時間後にアラームが鳴るよう設定した、と桜庭さんのスマートフォンが横に置かれる。

「緊急の連絡が来るのは大半が君だろう。現場に不要だからここに置いていく。天道や柏木が連絡を寄越すような件は無い」
「すみません……」
「休み終えたら現場に持ってきて貰えれば良い」

 分かったか仕事はするなよ、と釘を刺されてハイと返事をする。いつも頼れるプロデューサーでありたいと行動しているはずなのに、彼の前では弱い部分を見せてしまうことが多い気がする。ブランケットを胸元から顔にもかけて照明の光を遮る。桜庭さんのにおいがした。

「なんか私、桜庭さんの前だとカッコつかないこと多くて、いつも情けない姿を見せているような気がします……」

 聞こえるか聞こえないかの声で呟くと彼が笑ったように息を吐き出した音が聞こえた。
 僕の前ではそれでいいんじゃないか完璧な君でなくとも。ブランケットからはみ出た髪の毛をくしゃりと触られる。彼には頭が上がらない。





20221016


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