++ツナマヨおにぎり



 桜の花びらの中に埋まって死ぬことができたらなんて素敵なことだろう。春の穏やかな陽気の中、透ける花びらを視界に埋め尽くして春の花のにおいを肺の中いっぱいにして眠るように死ぬことができたら。
 百々人は春が好きではなかった。新しい人間関係を構築するのは手間だ。にこりと微笑んで見せた顔がずっと元に戻らない。楽しくも無いのに友好的な表情を見せなければならない。それが生存戦略で人に備わった防衛本能のようなものだと思うと、ふとした瞬間に虚しくなるのだ。
 苦しくなったときは深く息を吸うんです、とプロデューサーは言っていた。目を閉じて息を吸い込む。床のワックスのにおい、石油ストーブの煙のにおい、少しほこりっぽいような木のにおい。独特なそれたちが肺の中に充満する。息を吐き出し心を落ち着かせる。マイクの電源をいれて、制服の内ポケットから祝辞の入った白く長細い封筒を取り出した。講堂は備え付けの椅子がずらりと並んでいる。奥には保護者の、手前には新入生たちがクラス順に並び、緊張した面持ちをした彼らの視線は壇上一か所に集まる。その注目を一身に受け、百々人はゆっくりと目を開けて左端から右端へと全体を大きく眺めた。そして真正面に目線を戻す。大丈夫、大丈夫だ、自身に言い聞かせ声を紡ぐ。
「うららかな春の陽気、温かい日差しが降り注ぐようになりました。新入生の皆様、この度はご入学おめでとうございます。在校生一同、心より歓迎いたします──」



 百々人は事務所への道を歩く。電柱とアスファルトのひび割れた隙間からたんぽぽが顔を出している。すっかりと春めいた空気だ。
 今日一番の大役が終わり、深く息を吐きだす。入学式はつつがなく終了した。折り畳みの椅子が備え付けられた講堂で行われたため、撤収作業も無く、生徒会の仕事としては床の簡単な掃き掃除をするだけだった。百々人は生徒会長として仕事をしていればそれで良く、その掃除ですら午後に事務所に寄ることを話せば免除されてしまったので、予定より随分早く事務所に着いてしまった。
 近くのコンビニで買ったおにぎりとチャックのついたチョコレート菓子の入った袋を片手に階段を登る。315プロダクションが入っているビルの共用部は、百々人が住むマンションの共用部のような空調がないので、夏は暑く冬は寒い。外はちょうどよい気候だが、ビルの中は熱がこもるようで蒸し暑く感じた。
 事務所の扉を開ければ、涼やかな風が吹いてくる。ブラインドが風に揺られてカチャカチャと擦れる音が聞こえる。プロデューサーはいつもの窓際のデスクに座ってパソコンを見ていたが、百々人の姿に気が付くと、にこりと微笑んだ。
「お疲れさまです、百々人さん。今日は随分と早いですね」
「うん。今日は入学式で、午前中だけだから。山村くん今日居る?」
「今日お休みなので、座って大丈夫ですよ」
 整頓された山村のデスクの事務椅子を引く。百々人はこの席が好きだ。真剣な表情のプロデューサーがいつでも見ることが出来る。時折仕事に行き詰って、窓の外を眺める姿はいつものプロデューサーとは雰囲気が異なっていてドキドキする。百々人の視線に気が付いて見すぎじゃないですか、と笑うこともある。
 百々人は事務所にいる大勢いるアイドルの一人だ。だがこの席に座っているときはプロデューサーを独り占めしているような気分になれた。それがなんとも言えず良い。
「今日はクラスファーストの皆さんとミーティングでしたか?」
「うん。次の雑誌のインタビューのことで話したくて。あとダンスの振りも確認したいなって。上の多目的スペース借りても良いかな」
「いいですよ。共有スケジュールで設備予約してくださいね」
「はーい」
 天峰と眉見とは午後2時半に約束をしているので、打ち合わせが終わるのは4時頃だろうか、と百々人はスマホで手早くスケジュールを入力した。学生は春休み期間のため、スペースが空いていないかと思ったが、今日一日誰も使っていないようだった。いつもは人の気配がある事務所の中は、百々人とプロデュ―サーのほかには誰もいない。とても珍しい光景だ。
 百々人は余った時間は春休み明けの試験勉強をしようと数UBの参考書を広げた。特段使用するテキストにこだわりが無いので数学が得意なクラスメイト勧められた参考書を使っている。随分と持ち運んでいるので角が丸くなっており、青色の表紙も摩擦のせいで薄れている。あわせて筆箱も取り出そうとすると、リュックの底からぐしゃぐしゃになったA4サイズの用紙が出てきた。百々人はしまった、と少し表情を歪ませた。進路希望調査票だ。明後日から始まる新学期の初日に提出をする必要がある。折りたたんでスケジュール帳に挟んでいたはずだったが、何かの拍子に抜け落ちてしまったのだろう。その皺を引き延ばすと、鉛筆で何度も書かれては消しゴムで消した第一希望の欄がよく目立った。3月の終業式から2週間は経ったか。それまで忘れられて鞄の奥底に眠っていた書類である。今ここで書かなければ提出する日に白紙のまま提出することになってしまう。仕方がない今書いてしまおうと、デスクに調査票とシャープペンシルを置いたところで風が吹いた。ガタンガタンとブラインドがぶつかり合う音が聞こえ、シャープペンシルの重みでは心許なかったのだろう。プロデューサーの元に紙が飛んで行ってしまう。
 プロデュ―サーは、風で飛んだ紙を引っ掴んだ。進路調査票、その文字を見て自身の学生時代もこんなものを提出させられたものだと懐かしく思う反面、何度も書き直しされた第一希望の欄にどうしても目が行った。何度も書いて消してを繰り返した第一志望の欄は、そこだけ紙が薄くなっており、そこだけ砂消しをしたかのようにボロボロになっている。尋常ではないと悟った。大学の名前と就職、を交互に書いては消している。何か理由が無ければこのようにはならないだろう。
「……百々人さん、これ」
「えっと、」
 百々人は言葉に詰まった。ごまかすように笑うことしかできないが、ごまかしがきかないだろうということはプロデューサーの目を見れば分かる。彼女のこげ茶色の目が百々人をしっかりと見据えている。真剣な目だった。プロデューサーは所属しているアイドルのことをよく見ている。体調が悪いだとか怪我をしているだとか、そういったことにはすぐに気が付く性質だった。
「理由を、聞いてもいいですか?」
 プロデューサーが硬い声音で尋ねた。
 悪いことは一切していないはずなのに、なぜか自分が悪いことをしているようだった。百々人がばつが悪そうに頷き、言葉を選びながらぽつぽつと語り始める。
「……アイドルをするか、大学へ進学をするか悩んでいて。でも大学に進学するのにはお金がかかるし。奨学金を借りようとしたんだけど、借りられるかどうかは両親の所得が関係してくるから」
 ——あなたにはお金をかけないことにしたの。1年ほど前に母親からそう言われたときから、百々人は大学進学費用の援助が望めないだろうと考えていた。もちろん進学を諦めることができなかったので色々調べはした。真っ先に考え付いたのは奨学金だったが、給付型の奨学金にせよ貸与型の奨学金にせよ、両親の所得の問題がどこまでも着いてくる。
都内の一等地に建てられたマンションに住み、家にはハウスキーパーが出入りしていて、学校にしても習い事にしても、望んだものも望まないものも百々人は充分に与えられてきた。奨学金を申請するには裕福すぎる環境にいる。給付型はもちろん、無利子で借りることができる一種奨学金、更に緩和されている有利子の二種奨学金も受理はされないだろう。加えて未成年は特別な理由が無い限り世帯分離が出来ないため、自身の所得を提示して奨学金を借りることも出来ない。近年は家庭内暴力により父母から別居している場合にも奨学金を受けられると要件が追加になったが、百々人の場合は暴力を受けているわけではない。
「……そもそも両親ももう家に帰って来ないし、縁も切られてるのに奨学金を借りるために所得についてなんて聞いてもいいのかなって」
「以前ご両親があまり帰って来ない、とは聞いていましたが……?」
 プロデューサーが眉をひそめる。それも無理は無かった。彼女にはこれまでそういった話は極力しないようにしてきたからだ。百々人はプロデューサーにとって一番のアイドルでありたいが、心配をされたいわけではない。ただでさえ忙しいプロデューサーに迷惑をかけたくはなかった。だから自身のことはできるだけ口を噤んできた。今まで面と向かって話をしてこなかったことを発するというのはどうしてこうもやりにくいのだろう。百々人は言葉を詰まらせながら一言ずつ発する。
「僕、勘当されちゃったんだ。今住んでいるマンションは好きにしていいから、あとは自由に生きなさいって。この前、色々な書類を書いたんだけど僕名義になるみたい。ちょっと信じられないよね」
 目の前でプロデューサーが絶句している。
 百々人にはごく一般的な家庭がどうであるかはよく分からなかったが、金銭的なことも家族との関係性も含め、自身がいる環境は一般的なそれとは異なるのだろうとは薄々感じていた。対してプロデューサーは、ごく一般的な家庭で育ってきたのだろうと、時折聞く彼女の家族の話で想像がついた。
「僕がお父さんとお母さんの期待通りにできなかったから、そうなるのは当然だと思ってて。逆に追い出されなかったのが不思議なぐらい。マンションを売って学費に充てることも考えたんだけど、未成年が売買をするのは難しいと思うし、お金が入るのは売れてからだと思うから、入学するまでに売れるかも分からないし、だから第一志望はアイドルで……」
 百々人はこれまで、一番になれなければ意味が無いと言われてきた。一番になるために教育を施され、挑戦するチャンスが与えられてきた。その中で一番になることができなければ、次に一番になることができる見込みがあることをする。百々人にとって人生はその繰り返しだった。両親、——母親の指示に従って、繰り返し続けていく。失敗すればするほど、母親の失望の視線が色濃くなっていく。次は頑張りましょう、その言葉が苦痛で仕方が無かった。だからこそ、母親の期待が百々人から完全に消えたと分かった時、百々人は胸を撫でおろした。客観的に見れば不出来な子供を、手切れ金を支払って捨てる酷い親のように見えるかもしれないが、百々人はようやっと解放されたと思ったのだった。
「……百々人さんは、今はおひとりで暮らされているんですか」
「うん。でも高校卒業までお手伝いさんが来てくれるから、あんまり一人暮らしって感じはしないかも。……こんなことを言ったらだめかもしれないけど、気持ちはすごく楽なんだ。お父さんとお母さんからの期待は嬉しかったけど、それに応えられない時は辛くて惨めで、また頑張らなきゃいけないって絶望してた。それがなくなって、楽になった。これから、僕はぴぃちゃんに見出してもらったアイドルの才能で頑張れるって思えたから」
 だから僕は大丈夫なんだ、そう百々人が自身に言い聞かせるように言った。
 ふと、プロデューサーの顔色をうかがう。彼女はぎゅっと唇を引き結んでいた。目に大粒の涙が浮かび、目じりを伝ってデスクの上にぽとりぽとりと落ちていく。
 百々人は思わずぎょっとしてしまった。プロデューサーが泣いている姿なんて今まで一度も見たことが無かったからだ。
一番先頭に立ってアイドルたちを導く姿は、堂々としていて迷いは一切感じない。常に毅然とした態度で仕事に臨んでいる。百々人にとってプロデューサーは星だった。夜の航海で船乗りたちが目印にする北極星。地球の自転軸上にある北極星はほとんど動かず、昔の船乗りたちは夜空を見上げ、北極星を起点に海を渡っていたのだと言う。プロデューサーがいることが分かっているから安心できる。迷ったときも必ず手を差し伸べてくれる。しかしそのプロデューサーが声も出さずにはらはらと涙を流すので、百々人はどうしようもなく慌てふためくことしかできなかった。
「ごめんなさい」
「ぴぃちゃんが謝ることじゃないから、えっとティッシュ……」
「大丈夫です。ありますから」
 プロデューサーはデスクの上のティッシュを引っ掴んで涙を拭いた。迷いの表情が消えている。次はどうしたらよいか、苦しい状況でもすぐに打開策を見つけてくるいつもの顔をしていた。
「……金銭的なことなら心配いりません。社長が進学費用について立て替えて援助してくださるし、予備校や受験費用で足りない分は私からもお出しできます」
「でも……」
「うちには中高生のアイドルが多いでしょう。福利厚生の一環でそういう制度があっても良いと、元々社長とは調整していたんです。私が金銭的な支援をすることに関しては、この仕事をしていたら使う時間が無くて貯金が増えていく一方ですから問題ありません」
 百々人にとっては願っても無い話だ。こんなに都合がよい話があるのかと思うぐらいには。だがプロデューサーまでも援助をしてくれるというのは身に余るものだ。1年近く仕事を一緒にしてきたとは言え、百々人とプロデューサーは赤の他人なのだ。ここまで懇意にして貰えるような筋合いは無い。
 百々人が言い淀み、俯いた。出会って1年、そんな人間に個人的に金銭的な支援が出来ると言われても悩んでしまうのは最もな反応だろう。それを察してかプロデュ―サーは大きく息を吸って、まるで自分自身に言い聞かせるように言う。
「私は、例えば皆さんの次の目標のためにアイドルを辞めたいとおっしゃられた時に、アイドルであったことがそのあとのキャリアを傷つけるものであってほしくない。もちろん、この事務所でずっとアイドルをしてくださることが一番うれしいですけど。この事務所にいる皆さんは、アイドルは目標ではなく、目標を達成するための手段のひとつだと考えている方が多いでしょう」
「……絵の勉強ってどうかな」
 百々人は恐る恐る聞いた。
プロダクションに所属しているアイドルたちは多彩な経歴の持ち主が多い。それが315プロダクションの特色だとも言えるだろう。その中で百々人が専門に何かを学ぶとなれば、その特色を強く作用させることに繋がるので、プロダクションにとっても利益になる。
しかし百々人にとって、大学へ進学することを躊躇う理由が2つあった。1つは金銭的なこと。残るもう1つは専攻したい学問についてのことだった。
 百々人は絵の勉強をしたいのだ。確かに百々人の絵は上手い。コンクールでも何度か入賞している。実際、検索エンジンで花園百々人と調べれば過去に賞を受賞したコンクールのホームページが出てくる。イベントでも絵を披露したことがあったし、過去には美術予備校、——美術系の高校や大学を受験するための知識や技法を学ぶことが出来る塾、にも中学生から高校2年生の春ごろまで通っていた。
 百々人の描く絵が好きだとプロデューサーは言う。穏やかで優しくて、心が温かくなる。魅力的な絵を描くと彼女はそう評する。だが絵を描くことだけで生計を立てられるものというのはごくわずかだ。何回かあった進路面談では学校の教師に、美大に進学したあとの就職先について問われることがある。大学で絵の勉強をしたとしても、その仕事に就けるとは限らない。デザイン関係の仕事に就ける者はごくわずかであると、それに実学では無い分就職が難しくなると幾度となく言われてきた。百々人はそれが胸の中に引っかかっていた。意味のないことを勉強することと同じではないか、と思ってしまうのだ。好きなことを仕事にすることは難しい、だがその難しさは美大を卒業した者に限ったことではない。
「私もプロデューサー学部を卒業したわけじゃないですよ」
 プロデューサーが笑いかける。常々彼女は、プロデューサーという仕事は自分自身にとって天職だと言っていた。それなのにプロデューサー学部を卒業したわけではない、彼女のその言葉に百々人も釣られて笑う。プロデューサーはぽつりぽつりと話を続ける。自身も進路を考えるときに周りの大人から口うるさく言われたこと。好きなことを学びたいと言えば就職に役に立つのかと問われ、実生活に役に立つことだけしか勉強してはいけないと言われているような気がして、志望校を決めるときは親と喧嘩をしたこと。
「4年間、短くない期間勉強するわけじゃないですか。専門家の下でこんな絶好の機会はそうそうない。周りから言われたことを勉強するより、自分で決めたことを勉強した方が良いと思いません?」
 だから気にしなくていいんです。プロデュ―サーが力強く言葉を放つ。
 それを聞いた百々人が意を決したように口を開く。絵の勉強がしたい、プロデューサーの目を百々人は真っすぐ見ながら言った。



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