++カツサンド


 車を路肩に寄せてハザードランプをつける。ハンドル奥のエアコンの吹き出し口から出てくる風で暖を取りながら、マンション前に着いた旨をリンクで知らせた。
 梅の花の蕾が膨らみ始めている。冬の凍てつくような冷たさと春のぽかぽかとした陽気が数日おきに来ることを三寒四温と言ったか。まさにそのような天気が続くので、ここ何日かは厚手のコートと薄手のコートを交互に着なくてはならない。
 マンションの前に着いた旨をリンクで知らせると、ちょうど良いタイミングでトントンと窓ガラスが鳴った。リュックサックを背負った百々人が現れ、車の助手席のドアを開いた。
「ごめんね、ぴぃちゃん、待ったよね」
「いえ、今来たところです。忘れ物してませんか?」
「うん、画材も筆記用具も受験票も持った。大丈夫」
 リュックサックを腹の前で抱え、シートベルトを締める。普段の百々人は淡い配色の装いであることが多いが、今日は暗めの色の服を着ていた。
 今日から行われる大学の二次試験では、油彩で1枚の絵を完成させるらしい。3日間をかけて1枚の絵を描く。その初日の今日、試験会場まで送りましょうかと提案をしたのはプロデューサーだった。
「じゃあ行きましょう」
 ウインカーを出し、後ろを確認しながら車を出す。平日の朝ではあるが通勤ラッシュのピークは既に過ぎており、車も人通りもまばらだった。
 春から予備校に通い、絵を描き続けてきた百々人の姿を見てきた。それも週5日間だ。最初にそれを聞いたときは驚いたものの、美術系の大学を志す者にとっては一般的であると知った。予備校で制作した絵を見せてもらうこともあった。率直に綺麗だと言った。百々人はありがとうと微笑んで見せたが、後ほど眉見や天峰から不安を吐露していたことを聞いた。どれだけ努力して絵が上手くなっても差が出来ない、周りも同じように上達していくから不安で仕方がない、と。プロデューサーはついぞ百々人から弱音を聞くことはなかった。
「明日と明後日も送っていければよかったんですけど、仕事が入っていて……」
「ううん、忙しいのにありがとう」
 片道たった20分ほどの距離。普段であれば取り留めもない話をすれば着く距離だったが、今日の百々人は口数が少ない。信号待ちの中、横目で見遣ると百々人は窓の外をぼんやりと眺めていた。ラジオからは聞いたことのない洋楽が流れている。
「……僕、すごく緊張してるのかも」
「緊張しない人の方がきっと少ないですよ」
「ぴぃちゃんも、緊張した?」
「私は、緊張したかなあ……。でも、なるようになれって思いながら試験受けたかも」
「ぴぃちゃんらしいね」
 百々人がきゅっと拳を握った。表情が硬い。まるでライブの前の彼を見ているようだった。舞台袖に居る百々人は、ステージ上の彼とは全く違う姿をしている。唇を引き結んで真剣な表情で、何度も何度も出番の前まで振りの確認をする。打って変わってステージでは、緊張や不安など微塵も感じさせない堂々としたパフォーマンスを見せる。
「一次試験通ったって来た時も、夢かもしれないって思ったんだ。今も夢みたいに体がふわふわしてる」
 不安が伝わってくる。多くの時間を勉強に費やしてきたその集大成だ。今年度の倍率も20倍と例年と志望者の数は変わらなかった。実技の一次試験でふるいにかけられ2割が残る。二次試験でさらに選抜をされるが、二次試験まで残れば合格までほぼ目前だ。一次試験で落とされる人数よりも二次試験で落とされる人数の方がずっと少ない。緊張しないということの方が難しいだろう。
 受験勉強は孤独だ。百々人の場合はさらにそうだろう。プロデューサー自身、学生だった時を思い出すと、もう二度と同じことはしたくないと思ってしまう。模試の結果に一喜一憂して、共通テストはマークミスに震えながら自己採点した。隙間時間は単語帳に目を通し、単語を口の中でぶつぶつと唱えていた。受験をするときは一人、周囲の鉛筆が紙と擦れる音と時計の秒針の音がいやに大きく聞こえる会場の中だ。そこで心が潰れないのは今までの努力に裏打ちされた自信があるからで、その努力は友人や両親のサポートのおかげで出来たものだった。百々人の場合は両親からの支援は無い。子供にとって親は自身の絶対の味方であるはずだ。その後ろ盾が無いことはどれだけ心細いか。
 渋滞もなく滞りなく目的地に着いた。大学の最寄り駅だ。ロータリーの標識に従い、一般車両の停車位置まで車を動かした。ハザードランプを焚いて車を停める。
「百々人さん、手を貸してもらえますか?」
 おずおずと差し出された百々人の手は、ひんやりと冷たい。緊張すると人は手足が冷えるものだと言うことは身をもって知っている。いつも飄々としていると言われるプロデューサーだが、場数を踏んで慣れているだけで、営業先でプレゼンテーションをするときは心臓が早鐘を打つし、舌がもつれそうになる。
 コートの中からカイロを取り出し、百々人の手に乗せる。朝出る前に包装を外してきたので、既に空気に触れ熱を帯びている。それに加えて鞄の中から包装されたカイロを4つほど取り出し、明日明後日の分と掌に押し付けた。
「あと、ゲン担ぎで。朝たまこやさんで売っていたので。もしお昼の用意をされていたら夕ご飯にしてください」
 拳ふたつ分ほどの大きさの箱が入ったビニール袋も手渡す。じんわりとした温かさを帯びている。
 鼻を近づけるとソースのにおいがよく香るので、箱の中身に気が付いたのだろう。百々人の表情に笑みが戻った。
「百々人さん。百々人さんならきっと大丈夫です。いつも何万人の前で歌って踊ってると思っているんですか。それと比べたらたった何百人でしょう?」
 百々人がシートベルトを外した。あとは車を降りるだけだが、百々人は少し言いにくそうに口を開いた。
「……ぴぃちゃん、ライブの前みたいに僕の背中叩いてほしいな」
「朝一番なので、いつものような威力が出るか分かりませんが……」
「そんなに強くしなくていいから……!」
 冗談です、とプロデュ―サーが笑った。百々人が背中を向ける。プロデューサーは手をパーにして背中を押し出すように叩いた。舞台袖、アイドルたちをステージへ見送るときにする儀式のようなものだ。それを行い始めたのは随分と最初からだった気がする。緊張がほぐれるのか、気合が入るのかも分からないものだが、いつの間にか定番のものになっているものだった。
 気合を入れるためにもう少し強めに叩いても良かったかもしれない、とプロデュ―サーが思いながら百々人を見ると、ぎゅっと拳を握って頷いたように見えた。大丈夫、頑張れる、と百々人が自身に言い聞かせるように独り言つ。
 リュックサックを背負って、車のドアを開ける。緊張した面持ちだが、良い表情をしていた。行ってきます、力強い声だった。



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