++美しい瑕疵/桜庭薫


死ネタです


 穏やかな風が吹いている。燻らせた煙草の煙が、上に向かってふらりふらりと流れていく。火をつけた端から徐々に灰となり、紅茶のような味と香りが舌先に残る。彼女が吸っていた、ピース・アロマ・ロイヤル。
 屋上に続く唯一のドアが軋みながら開いた音がした。誰が来たかは容易に想像がつく。いつ何時も、今は触れて欲しくないときにでも、ずけずけと心の柔らかい部分に押し入ってくる。それがこの男の欠点であり、美点だろう。心許ないフェンスに両腕を乗せ、息を吐いたのが横目に見えた。桜庭が何も言わない、言う気力もないことを良いことに隣に居座る。
 桜庭は紺色のパッケージの煙草と安いライターを滑らせるように渡す。
「信じられねえよな」
 天道は手渡された箱から手慣れた様子で煙草を一本取り出した。風が吹いているため、煙草を口に咥えながら、片方の手を風除けにし、もう片方でライターで火をつける。一息吸い、苦々しい顔をしながら息を吐き出す。
「プロデューサー、煙草なんて吸わないのに持ち歩いててさ。喫煙所にいると舐められないんだって言って」
 初めて屋上で煙草を燻らせていたプロデューサーを見たときは驚いたものだった。普段煙草のにおいなどしない彼女が、ぼんやりと街並みを眺めながら煙草を持っていたので、桜庭は何か悪いものを見てしまったと思った。そのまま退こうとしたが、屋上に繋がる扉はよく軋むのだ。虚空を眺めていたプロデューサーの目に光が灯り、桜庭さんといつもの表情に戻るのだ。
「あんだけ一生懸命仕事やってて成果も出して、舐めるやつなんて居ないのに」
「大馬鹿者だ。煙草も吸わないのに喫煙所に出入りして、吸ったふりをして場を濁して。健康に悪いのに」
「だよな」
 天道が弱々しく笑った。
 何を話せば良いか分からなかった。互いに苦しみを分かち合うタイプではない。口を開けば生産性があるとは言い難い言い争いをよくしている。同じ所属である以上、馬が合わないというわけではないのだが、桜庭はこの男とは相容れないものがあるのだと感じていた。
 天道は、きつそうに煙草から口を離した。香りは良いが、タール量が多い煙草だ。久しぶりに吸えば目眩をしたような感覚に陥るだろう。
 白い煙が上に向かっていく。ゆらゆらと揺れながら昇っていく。
「最後、顔見に行くだろ?」
「いや」
「後悔しないか?」
 プロデューサーは死んでいない。だが、目を開けることも言葉を発することもない。手を握れば温かいだろうが、握り返されることもない。人工呼吸器に点滴、管が体中について回っている状態で、静かに病院のベッドに横たわっている。脳死判定を下され、ただ死を待つのみの状態だ。
 プロデューサーの訃報にも似たそのことを聞かされたのは、5日前の昼下がりのことだった。──横断歩道を渡っていた20代女性が乗用車の危険運転に巻き込まれ意識不明の重体。同じく横断歩道を渡っていた10歳小学生女児は擦り傷。現在警察は事故状況の調査を行っており……。ちょうど外勤のプロデューサーの帰りが遅いと話をしている中で、まさか事故に遭っているとは誰が思っただろう。帰社の時間はとうに過ぎた頃、事務所の電話が鳴った。その電話を取った山村がみるみるうちに青白くになっていく。──プロデューサーさんが意識不明の重体だそうです。桜庭が頭から血の気が引いていくのを感じたのは随分と久しぶりのことだった。
 その日のうちにプロデューサーの両親が事務所に訪れた。やはり顔色が悪く、プロデューサーの母親にいたっては覚束ない足取りで父親に手を取って貰って歩いていた。父親は、プロデューサーが危険運転の車に巻き込まれそうになった近くの子供を庇って頭を打ったこと、1度目の脳死判定を下されたことを目を泳がせながら話した。桜庭はどう声をかければ良いか分からなかった。医師として勤めていたときは上手い言葉をかけられたかもしれないが、今の桜庭には何をどうすれば良いか想像もつかず、ただただプロデューサーの両親がぽつりぽつりと放つ言葉を聞いていた。
 人差し指と中指に挟んだ煙草がフィルターまで燃え、桜庭はその熱さに指を思わず離した。ぼとん、と残り1センチメートルほどとなった煙草が手すりに跳ね、地上のアスファルトに向かって落ちる。人が通っていないのが幸いだった。
「桜庭、相当参ってんな」
「君は平気そうに見える」
「平気そうに見えるか?」
「……すまない」
 フィルターまでたどり着く前にコンクリートに押しつけて火を消す。灰皿など気が利いたものはないので、天道はそれを拾うと掌に乗せた。
「正直、参ってるよ」
 近しいものをこれから失う。平静で居られるはずがない。
 桜庭もプロデューサーにはアイドルとして見出された。あなたにはアイドルの才能があると、現役の医師へその言葉を放つ無鉄砲な逸材は古今東西どこを探しても見つからないだろう。本当になれるのかと思った。成功できるのか。今の地位を捨ててまで0から始める意義はあるのか。才能があると言われたとき、それらの言葉が脳裏を駆けめぐったが、最後はプロデューサーの手を取った。彼女を信じたくなったのだ。
「昨日病室に行ったとき、まだ生きてたよ。瞼も少しなら動く。指も痙攣する。このまま起き出すんじゃないかと思って、2時間ぐらい見てたけど、起きなかった」
 決して目を覚ますことはないが、瞼や指は痙攣することがある。それを見て生きていると残された側は思ってしまう。生きているのに延命を止めてしまうのは可哀想だと涙する。脳の死は生物学的な死だ。人間の身体の中枢。脳が破壊されれば、意識は回復せず、身体の機能も徐々に衰える。
「なあ、プロデューサーって、本当に死ぬのか?」
「そうだ」
 喉から掠れたような声が出る。
 1度目の脳死判定は下されている。それが覆ることは通常あり得ない。再びの判定で脳死であることが分かれば、いよいよ退院の準備を行う必要がある。自発的に呼吸ができず、薬剤によって心拍を維持している。いつ処置を止めるか、そのような話を残された家族はしなくてはならない。
「よほどのやぶなら判定を間違える可能性もあるが、大学病院の医師だ。それはあり得ない」
「そっか」
「……明日だったか」
「明日の午前に。最後は家族だけで過ごしたいって」
「ああ」
「後悔、しないか?」
 分からないのだ。後悔するかしないかなど。
 医師として人の死には耐性がある方だと桜庭は思っていた。医師時代、多くの人を見送ってきた。一番最初に見送った人のことはよく覚えている。末期癌、緩和ケアで穏やかに眠るように逝った。研修医の頃、自身の指示で初めてモルヒネを投与した患者だ。もう治る見込みがないなら痛みを感じずに死にたい、患者とその家族の希望だった。最初こそ動揺したが、人が死ぬ度に心が動かされるようでは医師は出来ない。
 だが目の前の近しい者がこれから必ず死ぬのだと分かっているときに、平静を保てるほど桜庭は強くはない。
 それに、と桜庭が続ける。俯き、自虐するような物言いだった。
「……会いに行っても、門前払いされるだろうな。僕は、彼女の両親に酷なことを言ってしまったから」






「私が死んだあとぐらい、よく頑張ったなって言ってくださいね」
「なんだ、自殺願望でもあるのか」
「まだ死なないですけど、もしかしたらって話ですよ」
 煙草のにおいとは別に、煙たさが混じっている。黒のジャケットに黒のパンツ、黒のパンプス、とおおよそいつもと同じような格好ではあったが、小さいハンドバッグに黒いストッキングを合わせていることから今日は通常業務を行っているわけでは無いことに気がついた。
 桜庭はプロデューサーのほど近くのフェンスに背中を預けた。
 事務所のある建物の屋上は、普段解放されているが、そこまで階段を登ってくるような物好きは存外居ない。なのでプロデューサーはここをサボり場所として活用している。本人はサボりでは決してないと主張しているが、仕事の間にふらりと訪れて煙草の火を燻らせてその火が消えるまでぼんやりとしていることのどこがサボりではないと言えるのだろうか。いつも騒がしい事務所である。煙草に火をつけて灰になるまで見届けるまでがプロデューサーの一種の休憩のようになっているものだと思うが、本来煙草はフィルターを通して吸うから体への影響が抑えられているのだ。それを無しに煙草の煙だけを吸っているなら本末転倒だ。
 桜庭は“物好き側”の人間だったわけだが、初めて彼女を屋上で見かけたとき、普段の底抜けた明るさとは一転して翳りのある表情をしていたので、驚いて声も出なかったことをよく覚えている。桜庭の存在に気がついたプロデューサーはすぐにいつもの表情に戻ったが、根詰めたような風体だったことが気にかかり、事務所のデスクにプロデューサーが居ないとき、桜庭はたまに屋上に訪れるようになった。嫌ならばプロデューサーは場所を変えるだろうから、桜庭がサボり場所に居ること自体は不快ではないようだ。歓迎されていることは決して無いだろうが。
「社長の代わりに告別式行ってきたんですよ。亡くなった方、同業の方でまだ若くて、面識もあって。あんなに元気そうだったのに亡くなるのかって」
「突然死の確率はゼロではないからな」
「桜庭さんには、センチメンタルになってるところ寄り添っていただきたかったですね」
「元々僕は感情労働をしないタイプだと分かっているだろう、君は」
「医師だったらキリないですもんねえ」
 フィルターまで燃焼した煙草を携帯式の灰皿の中に仕舞う。
 もう1本つけちゃお、とプロデューサーが煙草を取り出す。ピース・アロマ・ロイヤル。タールの含有量もそこそこ高く、ある程度吸い慣れた者が吸うような印象がある。
 桜庭も医局時代、付き合いで煙草を吸ったことはあったが、合わずに止めた。もともと百害あって一利無しの無用の長物である。
「蚊取り線香に火でもつければいいんじゃないか」
「1時間くらいデスク戻らなくなりますけど」
「……もっとタールやニコチンの含有量が低い煙草があるだろうに、なぜそれなんだ」
「紺色でカッコいいから?」
「君、馬鹿だろう」
「そんな謗られます?」
 プロデューサーが笑う。
「10分って、ちょうどいいんですよ。屋上までくると良い運動になるし、ちょっと遠くを眺めてると考えの整理にもなるし、まあ監視してるんじゃないかと思うぐらいのタイミングで桜庭さんは来るわけですけど」
「悪かったな」
「なので週何回かの煙草休憩、見逃してくださいよ」
 桜庭が止めろと言うにしても言わないにしてもプロデューサーは煙草を止めることはないだろう。そういう人間なのだ、彼女は。
 プロデューサーの表情が暗くなる。こつん、とパンプスがコンクリートの床に跳ね、かかとがわずかに浮いた。フェンスに両肘を置き体重をかける。思案するとき、彼女はいつもそうやるのだ。
「どれだけ大切に想われていようが、死んだ人は生き返らない。今にも起き出しそうなぐらい綺麗な顔をしているのに、もう目覚めることがない。いっそ原形をとどめないぐらいぐちゃぐちゃになっていた方が、諦めがつくのかもしれませんね。ちょっと不謹慎かもしれませんが」
「実際そうだろう。脳死の患者の延命措置を止めるときは、その場に居る家族から掴みかかれそうになることなんていくらでもあった。まだ生きているのにどうして見殺しにするのかと」
 やっぱりそういうものなんですね、とプロデューサーが相づちを打った。
 延命を止めるときは心が重い。医師だけではなく家族も同様だろう。延命というのは、自力で呼吸をすることも心臓を動かすこともできない人間が機器と薬剤の力に頼って辛うじて生き長らえていることだからだ。それらを止めれば患者は死ぬ。ただ生きるか死ぬかの選択権を持っているのは、患者本人ではなく多くはその家族にある。
「亡くなったその人も他人って言ったら他人ですけど、担当しているアイドルがいるという点では共通点がありますから」
 感傷的にはなる方が自然だ。プロデューサーが葬儀に参列をするということは、故人の担当していたアイドルも参列していたことだろう。
 プロデューサーとアイドルというのは切っても切り離せない関係だ。どちらが欠けても成り立ちはしない。かなり近しい間柄になる。その人を突然失ったというのならば、泣きじゃくっても呆然としていてもなんらおかしくはない。
「……死因は?」
「くも膜下出血だそうです」
 脳の血管に血の瘤ができ、それが破裂する。高血圧や喫煙、飲酒が原因とも言われるが、つまるところ発症するかしないかも、助かるか助からないかも当人の運なのだ。
 煙草も吸ってなかったのになあ、とプロデューサーが呟く。
 突然死、しかも外傷が起因するものではないというのならば、その故人の遺体というのは美しい状態で棺桶の中に入れられただろう。本当にただ穏やかに眠っているかのような化粧を施される。触れると生物としての温かさはなく、ただ肉の冷たさが指先に伝わる。生きていると見間違うような体を火にくべるのだ。
「自分が死んだときに、自分のために泣いてくれる人が居るって、今までしてきたことが正しかったんだって証明みたいで、良いなって思ったんですよね。まあ桜庭さんは泣かなそうなので、私が死んだときぐらいは褒めてほしいなって」
「亡くなっても、本人がしたことには変わりはないが」
「あ〜、手厳しい。二階級特進しないのかあ……」
 二階級特進とは、警察官や自衛官が殉職すると今の職位から二段階昇任するという慣例のことだ。
 プロデューサーが遠くを眺めたまま、ぽつり言葉を呟く。
「でも思ったんですよね。こんなに体が綺麗な状態で私も亡くなったとしたら、あげられる臓器は全部あげた方がいいなって、どうせ火葬されるんだから」
 一度も口に含みもしない煙草がフィルターまで焼けた。終わっちゃったか、と名残惜しそうにプロデューサーは灰皿の中に放り込み、ジャケットの内ポケットに入れた。
「いつ突然死するか分からない業界なので、書いた方がいいなあとは思ってて。さっき急いで丸つけましたよ、運転免許の臓器提供のところ」
「……その頃には君の肺は真っ黒じゃないか?」




 彼女の葬式は都内で行われた。家族葬とは聞いていたが、事務所の面々も何名か参列していた。
 受付で止められるかと思った桜庭だったが、すんなりと通されたので拍子抜けしてしまった。香典を渡し、香典返しを受け取った。
 葬儀に参列をしたのは随分と久しぶりだった。ほどなく告別式が始まる旨のアナウンスが流れる。読経が始まりそれが終わると親族から焼香が始まる。後ろの方に座っていた桜庭は、最後に線香をあげた。
 前列に座った彼女の両親に軽く会釈をする。襟刳りを掴まれる覚悟は出来ていたが、控えめに会釈を返される。彼女の事故後、2度顔を合わせた桜庭だったがその時のように憔悴しきった顔はしていなかった。穏やかな、表情だった。
 花入れが始まる。故人の棺桶に花を入れるのだ。閉ざされていた棺桶の窓が開く。ここで花を入れに行ったら不躾だろうか、そう思いながら後ろに並んでいると係員から花を受け渡される。薄桃の百合の花だった。
 すみません、声をかけられ顔を上げると、彼女の両親がすぐ近くにいた。このたびは、そう切り出すと、言葉を制される。
「桜庭さん、あなたのおかげで娘の意志を尊重しようと、心を決めることができました」
 彼女が事故に遭った初日、両親が事務所にやって来た。次の日、2度目の脳死判定があったことを知らせるために再度事務所に来た。その時居合わせた桜庭は、彼女の両親に言ったのだ。彼女の臓器の移植を考えてはいないか、と。何とも酷い話だ。愛娘を失いかけている親に向かって、まだ生きている娘の臓器の移植を提案する赤の他人など。生前意志があったことも併せて伝えたが、今はとても考えられないと回答された。怒鳴れる気力があるならば、彼女の父親も母親も、桜庭にそうしていただろう。なんてことを言うのと糾弾されてもおかしくない。それぐらい酷いことを言った自覚はあった。だが桜庭はプロデューサーの意志を尊重してやりたいと強く感じたのだ。屋上でのプロデューサーとの会話。紛れもなく彼女の本心であるはずで、それが潰えてしまうのは良くないと思った。
「最後、見てやってくれませんか」
 はい、と返答した。
 お顔の周りに花を入れてください、と案内が入る。
 桜庭は頬のすぐ横に花を差し込んだ。指が彼女の頬に触れる。柔らかく、冷たかった。
 棺桶の窓を閉じるまで、しばらく時間がある。その間に残された者たちは故人の顔を目に焼き付けるように見るものだ。桜庭も例に漏れずプロデューサーの顔を見遣る。穏やかな表情で眠っている。頬は桃色に色づき、唇にも色がついている。今にも寝息が聞こえてきそうなぐらい、眠っているのだと言われればそう信じてしまうだろう。
 どうせ火にくべられるわけですしね、あの日の彼女の声が頭の中に響く。こんなに綺麗な顔をしているのに、あと数刻後には火にくべられて、骨と灰だけになって、小さな骨壺に収められて帰ってくる。
 志半ばで死んだ人間に、よく頑張ったなど言えるものか。喉の奥から呪詛のようにこみ上げてきそうだった。なぜ死んだんだ、君の命を犠牲にしてまで救う価値があった子供だったのか、知らない子供など轢かせればよかったじゃないか、どす黒い言葉たちがもくもくと心の内からわき上がる。もう帰ってこないことは分かり切っているのに、生産性もない言葉が止めどなく溢れるのだ。
 彼女は死んだ。だが、彼女の臓器は誰かの体の中で生きている。臓器移植を選んだというのなら、彼女の体には正面から縦1本の縫い痕があることだろう。臓器を摘出するために切った手術痕だ。
 誰かの中でプロデューサーは生きているのに、その存在は完全にこの世から消えるのだ。火にくべられ、骨と灰になる。収骨され、無機質な墓石の中に安置される。もう声を聞くこともない。柔らかな肌に触れることもない。
 視界がぼやける。──桜庭さんは泣きそうにないので、その言葉が反芻された。
 いくらでも泣くことができる、君のために。もう戻ってこない人。僕たちをトップアイドルにすると言ったのはいったい誰だ。なっていないじゃないか、それなのにどうして、志半ばで死んだ。


本に入れようと思ったけどボツにしてまた書き直すか〜と思っています


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