++リップクリーム/桜庭薫




 どうぞよろしくお願いします、と口角を上げたとき、ぴりっと唇の端に痛みが走る。口紅を変えてから何となく合わないと感じていたから、すぐに原因が分かった。舐めると口に血の味が広がる。可愛い色だったから好きだったのだけど、背に腹は変えられない。前のやつの戻すか、と思案しながら名刺を渡して軽く世間話をして営業を終えた。
 顔を顰めながら歩く。そろそろ口紅塗り直さないと、いやでも荒れるのは嫌だ。うう、と泣く泣く唇の端を気にしながら楽屋へと向かう。テレビドラマのゲストとして出演した桜庭さんをお迎えするためだ。彼は今日この後に予定は入っていないけれど、帰りは真っ直ぐ事務所に行きたいと言っていたから、同じくこの後スケジュールが入っていない天道さんや柏木さんと来週リリースされるシングルのダンス練習を自主的にするつもりなのだと思う。
 とんとん、とノックをする。営業を終えたことを伝えると、準備までに少し時間がかかるので部屋に入って良いとの声が聞こえた。

「準備が遅れてすまない。キャスト陣と演技について話をしていたら時間が、──一体どうしたんだ?」
「……唇切ったんです」

 どうやら桜庭さんは私が顔を顰めているのにすぐに気が付いたらしい。君いつもに増して眉が寄っているな、とぼそりと言った。

「随分とぱっくり割れたようだが、何が原因なんだ?」
「たぶん口紅が合わないからかなあって。口の端だけじゃ無くて真ん中も痛いような気がしますし」
「もともと唇は荒れやすい。合わない化粧品は止めた方がいい」
「色味気に入ってたのに本当に残念です……」
「荒れるよりはまだ良いだろう。何か保湿するものを持っていないのか?」
「全部事務所ですね……」

 事務所行ってからつけます、と肩を落とす。どうやら彼の方は片付け終えたようで、荷物を持っていた。そして私を見るなりため息を吐くと、どうせ物ぐさな君のことだからすっかり忘れるだろう、と楽屋から出ようとした私を制した。
 少し待ってくれ、と言う彼のジャケットの内ポケットから出てきたのは、スティック状のリップクリームだ。その上辺を掬い取って、私の唇にクリームをぽんぽんと乗せた。特にぱっくりと開いてしまったところを丹念に彼が塗り込んでいく。

「……こう、そんな中高生ってわけじゃ無いんですけどそれって、」
「そもそも君、事務所に戻ると言っても折り返し次のユニットの現場に行くだろう。保湿してから口紅を重ねればある程度は良くなる。一番は合わない化粧品を止めることだが」

 できた、と唇から指を離される。だいぶ厚塗りされたようで、唇がぬめぬめする。口を開いたり閉じたりしていると、舐めると乾燥の元になるぞと彼が釘を刺した。






20180111
 


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