++不意打ちちゅう/桜庭薫



 電車も死んだように乗っていた。窓に時折映る自分の顔が不細工すぎて笑えるぐらいには酷かった。営業で歩き回ったせいで疲れ切った足を酷使しながら向かうのは我が家だ。
 駅からもほどほどに近い。セキュリティ面はしっかりしていた方がいいと、二人悩んで少し割高だったけれども決めたマンション。ただいま戻りました−、とがちゃりと鍵を開ける。だいぶ行儀が悪いけど、パンプスを脱ぎ捨てようと足を振るけれど上手く行かない。面倒くさいと思いつつ、重い腰をよっこいしょと床に下ろして靴を脱ごうとしたところで、もう糸がぷつりと切れた。面倒くさい!、疲れた!、心の天秤がガコンと急激に傾く。鞄を横に投げて、寝っ転がる。そのまま靴をどうにか脱いだ。目を閉じればこのまますぐにでも眠れそうだ。
 ことことと鍋が煮立つ音。今日の晩ご飯はと聞かれて、キャベツのお味噌汁が食べたいとお昼ぐらいに言ったから、きっとそれだ。今日の夕飯はたぶん和食だろう。彼の作る料理は薄味、もとい優しい味がする。

「──おかえ、……君は一体何をしているんだ」
「薫さんただいま……」

 頭上から呆れきった声が降ってくる。いつものきっちりとした服装の彼では無く、部屋着ということでラフな格好だ。それにえへへ、と私は笑いながら言葉を紡ぐ。

「もう疲れ切っててこの場から一寸も動けません。運んでくださいー」
「君は……」

 はあ、とため息を吐きながら彼が私の二の腕を両手でがしりと掴んだ。私も重なるように薫さんの二の腕を掴む。

「薫さん腕もげるー」
「立って歩いてくれ」

 腕から全身が伸ばされている感じがする。うわあー、と声を上げながらリビングまで引きずられる。

「薫さん今日のご飯なんです?」
「キャベツと厚揚げの味噌汁、マスの西京漬け、ほうれん草のおひたしと煮物だ」
「煮物、れんこん入ってます?」
「ああ入れた」
「やった」

 そろそろ腕を離してくれないか、体勢がつらい、と言う彼を薫さん薫さん、と呼ぶ。薫さんはそんなに言われなくても聞こえている、と顔を近づけた。私は二の腕に縋り付いていた手を離して、彼の後頭部に添える。そして自分の唇と彼の唇とを重ね合わせた。最初こそびっくりとした彼だが、にやりと目が細める。そしてざらりと私の唇の表面が彼が舌先でなぞったので、驚いて思わずぴゃあ!、と飛び跳ねた。

「あとでめいっぱい甘やかしてやるから着替えてこい、ジャケットが皺になる」

 舌先で私の唇をひと舐めすると、早々に彼が立ちあがる。呆けたわたしの額にデコピンをしてキッチンへと何てこと無く向かう。一枚食われた。




お題箱より。桜庭薫に甘やかされたい
20180216


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